天井まで届く本棚に囲まれたこの部屋は窓からの光があろうとどこか森の中に迷い込んだような澄んだ仄暗さを感じさせる。執務机の向かいに位置する窓の向こうでは木々の隙間からこぼれ入る夏の日差しと全盛期を迎える蝉の鳴き声とがどこか遠い世界のように切り取られていた。
私の父親は小説家だ。いわゆる純文学のジャンルに組み分けられるだろうが、テーマはその時により区々。人を殺すこともあれば誰かと純愛を紡いでみたりもする。懐かしい青春の日々を送ったり、遠い未来の出来事のように高揚させる物語も。
本の中の父は雄弁だ。そのどれもが繊細で息遣いが聞こえてくるような現実感がある。果たしてあの父親の一体どこにそのような激しい感情が眠っているのか。私は血縁のある実子だというのに未だに理解し得ないところばかりだ。それはもしかすると父にとっても同じかも知れないが。
「相変わらず、えらい量の本やなあ」
一冊の本を片手に暫し書斎に立ち尽くしていた私を現実へ引き戻したのは外で待っていた幼なじみの声だった。開いた扉の隙間からすこし遠慮するように中を覗き込む。
「すまん、えらい遅いからどないしたんやろおもて覗いてしもたわ」
「信ちゃん、ごめん、ちょっとボーッとしてた」
「そんなんいつものことやん」
「………」
挨拶を交わすように放ってくる鋭いジャブはきっと耐性のない人なら三発KOだろう。その点この人の幼なじみをもう六年もしている私にはこんなもの朝飯前。と言いたいところだけど凹む時は未だに凹む。
「本ありがとな。親父さんにも言うといて」
「うん。どやった?おもろかった?」
「おん。純文学とか普段あんまり読めへんけど楽しめたわ」
「それはよかった」
友達に自分の父親の本を読まれるというのはすこし恥ずかしいような、なんだか不思議な感覚がするけれど、存外気に入ってくれたようでよかった。
中学一年生、夏休み。人の、特に子供の順応というのは早いもので、あんなに好きになれなかったこの街が、気づけば自分の第二の故郷になっていることを知った。
毎年夏になると行われる花火大会、信ちゃん家の新米を楽しみにしながら青田を横切る通学路。夜に聞こえる牛蛙の鳴き声や、南部風鈴の音。私の慣れないが日常に染まってゆく。
そうして地元の公立中学のセーラー服に袖を通した私はこれまでと同じように信ちゃんの隣を歩く。家もお隣、教室はひとつ上の階。今までと違うのは中学に入ってから信ちゃんはバレーボールを始めたこと。
「ほな、宿題しよか」
毎朝、朝に弱い私を迎えに来てくれて通った小学校。示し合わせた訳じゃないけど気づけばよく隣にいた帰り道。それらは中学に入ってからなくなってしまったもの。朝は誰よりも早起きして朝練に行き、放課後は部活の後しっかり片付けをして帰る。
どうして信ちゃんがバレーを始めたのかは知らない。ただ気ままな帰宅部の私とは生活サイクルが全く変わってしまったことはわかる。私は信ちゃんが部活に励む最中、ぼんやりと雲の流れを眺めたり、本を読んだり、庭にヒマワリの種を埋めてみたり、自分の心を刺激するものを探していた。
何者かになりたいけれど、なれないというのは、私たち十代を生きる者には共通の意識なんだろうか。
閉じてゆく書斎の扉の向こう、ミンミンゼミの喧しい鳴き声が私の中の焦燥を掻き立てるようだった。
◇
麦茶のグラスから滴る水滴が竹編みのコースターの一部を変色させていた。大きな扇風機の首が私と信ちゃんの間を何度も振り向いてはそっぽを向く。きっとグラスの中の氷は溶けて水っぽくなっているだろう。心許ない風が軒先の風鈴をひとつ鳴らした。
「この公式、この前覚えとき言うたよな。これ覚えとけば解ける問題やて。なんでしてへんの」
「…………ゴメンナサイ」
「ごめんなさいやのうて覚えてこいや」
「…………ゴメンナサイ………」
そう、すべてのことは私が悪い。そう思えるくらい信ちゃんの正論パンチは人の心を抉る。でもそんなことを言おうものなら全部の責任が自分にあるとかおもてんちゃうぞ。いきがんなや。とか新たな角度から再度パンチが飛んできそうで言えない。ただ謝ることしかできない。そしてこの公式は他の何を失っても覚える。
サボリ癖のある私は夏休みに入ると同時に信ちゃんに一緒に宿題をしよう、とお願いした。精神的にかなりハードな夏を強いられるが、背に腹は変えられない。そして小学校時代に比べるとめっきり一緒に過ごす時間が減ってしまった寂しさも相まった。そんな私に信ちゃんはいつもの無表情でええよ。と二つ返事をくれたのだった。
私が黒板を爪で引っ掻く音と同等に大嫌いな数学の本日のノルマが終わった。満身創痍な私にお疲れさん。と声をかけてくれる。
「ナマエは自分の興味あることやったら気持ち悪いくらい覚えとんのにな」
「言い方に悪意を感じる……」
「なんか間違っとるか?」
「いえ。正しいです」
よく言えば清廉潔白。悪く言えば言葉をオブラートに包まない。ド直球ストレート。昔からその面影はあったけれど、その輪郭は成長するにつれて明瞭になってきた。この人は自分の感情に振り回されることがないのか、と思えてしまうほど毎日の生活に隙がない。本人はそれが心地良いというのだからもうこれもひとつの性格や才能なのだと感じる。
もちろんカチンとくることもあるけれど、中学生になった今もこうして関係を続けられているのは単純に自分にないものを持っている彼へのリスペクトと、その鋭い言葉の影にフォローと、彼の優しさが垣間見えるから。だからこうしてまだ私に構ってくれる内は情があるのだと思いたい。信ちゃんが私をどう思っているのかは知る由もないけれど。
「……信ちゃん、部活どう?楽しい?」
「なんや急に」
「……べつに、ちょっと、気になっただけ……」
「どうもこうも普通や」
「………」
信ちゃんの言う普通、とはよくわからないけれどたぶん私の基準とは違う。これ以上話してくれなさそうなので薄くなった麦茶を淹れなおすべくグラスを持って席を立った。信ちゃんは律儀にいつもお礼を言う。
「……なんかよくわかんないけどさ、私は、信ちゃんが楽しそうなのが嬉しいんだよ」
「………」
「けっこう皮肉とかブラックジョークとか好きだよね。昔クラスの女子泣かせて先生に怒られてたのはちょっと引いたけど」
「……泣かせてもうたのは悪かった思うけど間違ったことは言うてへんからな」
「でもそういう時ちょっと楽しそうな顔してるよね。悪いな〜〜と思いながらそういう信ちゃんを見るのはけっこう好きなの」
「…………ナマエは、ほんま変なやつよな」
氷の転がる音がグラスの中で反響する。氷水で冷やした麦茶をヤカンから注ぐと温度差にパキリと鳴った。
クーラーの涼しさは好まない、どんなに暑くても。そのかわり扇風機と、風鈴の音と、キンキンに冷えた麦茶があればああ、夏やなあ、と感じられるのだという。その感性は私にも理解できる。そして案外そんな拘りの強い無邪気さはかわいいなあと思ったりもする。
冷えたグラスを二つ持ってテーブルへ戻ると、信ちゃんは何かを考え込むように黙っていたので静かにコースターの上へグラスを置いた。そうして席についてああ、夏やなあ、とのんびり満喫する。ややあって信ちゃんが口を開いた。視線は合わない。いつものあの何を見据えているか分からないカミサマのような瞳は手元に連なる終わりのない数式に注がれていた。
「俺は、凡人や。」
「……………そう、かな………」
「おん。物心ついた時から知っとった」
「…………(うーーーーーん)」
「それで、俺はなんも不満ない。自分がやるべきことも、何が居心地いいかも知っとるからな。ほんでも時々おもてまうんや、“なんでコイツやればできんのにせえへんのん?”て。」
「……………………」
信ちゃん、それは私のことでしょうか。グラスを持つ手が震える。もう先ほどまでの余裕なんかどこにもない。
けれど私の予想は外れたようで信ちゃんはなおもこちらに視線を合わせずに言葉を紡ぐ。この人、案外自分の考えを饒舌に語るのは好きだけど自分自身のこととなると途端に口を噤む。他人に触れられたくない領域が人にあるのは私もわかる。けれど、すこし覗いてみたいとも思ってしまう。尊重と好奇心のせめぎ合い。
「…………」
「べつに、羨ましいとかでもないねん。………いや、ほんまはちょーーっと思っとるのかも知らん。でも、何より、なんでやらんのやろて。ただ、それだけ」
「…………」
信ちゃんの話を聞いて頭を過ったのは先ほど信ちゃんが返してくれた父の本。読書感想文の課題にと選んだSF要素の強いもの。
受精卵の段階で遺伝子操作をし、欠陥のない優秀な人間だけが生きる社会へと移行する中で、不用品、過去の遺物とされただ死を待つだけの凡人がたどる運命とその世界を描いた物語。
信ちゃんがその本を読んで何を思ったのか知らない。部活で何があったのかも知らない。ただ、言葉はあけすけな癖に自分の中の感情にいまいち鈍感なこの人が、一生懸命言葉を紡いで私に示してくれる。なんでも理論づけないと気が済まないこの人が、迷った感情の向ける矛先を、教えてと。
そんな些細で特別なことがちょっと嬉しい。
「………私やったら、ラッキー!思うけどな」
「………」
「ラッキー!こいつ自分の才能に気づかんと自滅しよる。黙っとこーーって」
「………お前たまに爽やかに性格悪いよな」
「ええ、その表現おもしろいな」
爽やかに性格悪いか、メモっとこ。
そんな冗談はさておき、至極真面目な回答をしたつもりの私だったけど、信ちゃんは呆気に取られたようにいつもの無表情をすこしだけ崩す。そんな時私はいつもしてやったりな気持ちになる。
「信ちゃんは優しいから。私とか、たぶん部活の仲間にも。期待してるから、心のどっかで気に留めてるからおもてまうねん」
「………そんなんちゃうよ」
「そうかなあ。私やったら大事なものの範囲はもっと狭いし、ほんまに気に入ったものしかいらんし、その代わりずっっと大事にしたいし、けど地球の裏側で誰かが死んでてもそんなことはどうでもいい」
「…………」
人を思い遣るための礼儀。誰かを思ってかける厳しい言葉。すべて意図的であるかは関係なくて、そういうものは本人の意識の計り知れぬところで動いている気がする。私が客観的に見ている北信介という人はそういう人なのだ。本人にどう見えているかはさて置き。
「だから、信ちゃんはそのなんでやらんのや?て思う人のこと好きなんかもね」
「べつに嫌いではないけどな」
「あと、私は信ちゃんのこと全然凡人やとは思わんよ」
「……なんで?」
「凡人って特に優れた点もない人のことやろ?それなら、私にできんこと山ほどできる信ちゃんが凡人な訳ないわ」
なんだかいつもの正論パンチにカウンター喰らわせたみたいでちょっと楽しくなってしまう。得意げに笑う私をまたあの怖い目で見つめた信ちゃんは広げたままの私のノートを指差して言った。
「ここから下全部間違っとんで」
「げっっっっ」
そんでやっぱり、半笑いでちょっと意地悪なこと言うて、正論パンチで人ぼこぼこにする信ちゃんを私は心底リスペクトするし、楽しそうなんが嬉しいんよ、と思った。
img 夏の終わり/森山直太朗