言葉が口の中で反響する、頼り気なく頭を下げる父の隣で、初めてその人に出会った。目が合うと、両手をきれいに揃えて小さく頭を下げた。
「きたしんすけです。はじめまして」
ちらりと隣を見上げると無言の肯定が返ってきた。私も彼と同じように頭を下げて名前を言う。
顔を上げると彼ーーしんすけくんはじっとこちらを見つめていた。彼の隣では優しい笑顔を浮かべたおばあさんが私や父さんに言葉をかける。遠いところから大変でしたね、何か困ったことがあれば気軽にお訊ねくださいね、ナマエちゃん、信ちゃんと仲良くしたってね、
私はこくりと頷きながら私を、私たちを取り巻く大人の会話をどこか違う世界のことのように聞き流していた。彼に触れようと、ほんのすこし手を伸ばしたならその空気に触れただけでピリリと肌がひりつく、そんな雰囲気。たとえば空気の澄んだ元日の朝や、神社の鳥居をくぐった時のような、そんな緊張感をしんすけくんに感じた。
「荷解きお手伝いしましょうか?」
「いえ、そんなに荷物もないので」
「そうですか。人手男手ならたくさんあるんでね。ここらへんの人ら、一声かけたらみんな二つ返事で手伝おてくれますから」
「……ええ、はい、それは、どうも」
「……色々大変や思うけど、ぼちぼち頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」
そう声をかけてくれるおばあさん、あ、この人はほんとにいい人なんだなと思う。言葉をひとつひとつ選んでくれてる。私たちのことを本気で心配してくれている。
対して私の父親は相手が違えば誤解を招く言葉態度ばかりだ。どうしてこの人は仕事になれば途端に饒舌であるのに、対人コミュニケーションに至っては壊滅的なのかと、子供心に感じたのを覚えている。
「ほしたら、ご挨拶のお品もありがとうございました。ナマエちゃんも来てくれてありがとな」
「ハイ」
「あ、そうやナマエちゃん。もうこの辺り散歩してみた?」
おばあさんがそのすこし曲がった腰をさらに屈めるようにして私に視線を合わせてくれる。
すこし居心地の悪い空気、それってその場の一人でもそう感じていたら伝染するものなんだ。無言ながらいかにも早く帰りたいという空気を伝染す父親に、子供に気を遣わせる大人ってどうなの、と考える。広い土間の一段高みからこちらをにこにこと見下ろすおばあさんとしんすけくんの姿は子供の私にはずいぶん大きく見えた。
私は首を横に振ってまだです、と答える。
「そやったら信ちゃんナマエちゃん案内したり。ちょうど土手のところ、桜がきれいやろう」
「うん」
「どやろ、ナマエちゃん?」
きちんと私の意思を訊ねてくれる。けれど私の頭の中にはこの場を早く収めたい父親と、これから家に戻って荷解きの続きをするのに私の存在が邪魔であるかもしれないことと、おそらくそれを見越してのおばあさんの言葉であることと、純粋な好意と、それらが頭の中でないまぜになって否定の言葉なんて、出てくるはずもなかった。
「いきたい、です」
「ほんまに?よかったなあ、信ちゃん」
「………」
ええですかね、おばあさんが父さんに訊ねる。私はそんな二人の会話をまるで自分に関係のないことのようにぼんやりと聞いていた。不意にこちらを見下ろすしんすけくんと目が合う。もしも、自分に何か後ろめたいことがある時、その眼差しはそれを暴いて静かに咎めているようだ。ま、ええけど。そう見捨てられる落ちもセットで。
「………(来たくなかった、こんな街)」
広い土地も、平家の日本家屋も、豊かな自然もいらない。小さなマンションでも、排気ガスと数多の情報にまみれた町でも、家族みんなで暮らせればそれでよかった。東京が私の町だった。
「いくで。」
瞳の奥に溜まった涙の気配はその淡々とした声にかき消された。私はそうして手を振る彼のおばあさんと、立ち尽くす父親を背中に目の前を行く男の子を追いかけたのだった。
◇
すぐ近く、と聞いていたから徒歩五分圏内だと思った。およそ三十分は歩いてようやく見晴らしの良い土手にたどり着いた。
斜面の上、未舗装の道に沿って桜並木が続いている。ひとつ風が吹くとそよそよと花びらが舞う。日本の桜は八割がソメイヨシノだと教えてくれたのは父さんだったか母さんだったか。見上げた太い幹の桜は、東京で見たものと同じようにきれいだった。
「桜。」
「……うん」
しってる、とは言わなかった。すこし切れ長の底の読めない目がじいっとこちらを見つめてそして桜を指差して言う。特に物怖じしないタイプに見えるけれど、道すがらも私たちは会話らしい会話をすることもなかった。今もただ咲き誇る桜とその奥に広がる見晴らしの良い、けれど私にはひとつも馴染みのない景色をぼんやりと眺めていた。
鮮明に思い出せる以前の家、学校の友達や、街の空気、空の色。数日前は私はそこにいた。もう少し前には家族三人で夕飯を食べていた。なにを、どれを、どう解いていけばこの縺れた糸は元に戻るのだろう。なんどかんがえても、わからない。
「………ないとんのか」
「ないてない」
「なんで嘘つくん」
「嘘じゃない」
「さっきも、ほんまは行きたなかったんやろ」
「………」
無口なタイプなのかと思ったら言葉はけっこう鋭い。きっと私や、そして私の父親とは正反対だと感じた。心の中は雄弁でも口から出る言葉はひとつも胸の内を語らない。
相変わらず無表情でこちらを見つめてくる彼を一瞥すると、私は静かに斜面の上へ腰を下ろした。冬を超えて短く顔を出したばかりの芝草が春風に揺れる。しんすけくんはなおも黙って私の背後で立ち尽くす。
「いきたくなかったよ。土手の桜も、この街も」
優しいオレンジ色をした夕日が沈んでゆく。すこし肌寒い風が吹くたび、芽吹いたばかりの小花が揺れて、春のにおいがする。私は、こんな街に来たくなかった。父さんと母さんに離婚してほしくなかった。誰の前でもいえなかった本音を、何故だかさっき会ったばかりの無愛想な男の子に話してしまうと、迫り上がった黒くどろどろに煮詰めた感情は熱い涙となって止めどなくあふれる。
肩が何度も小さく揺れる。嗚咽までもれてきた。そんな私の隣に丁寧に結ばれた靴紐のスニーカーが並んだ。しんすけくんは膝を折ると私と同じように斜面へ腰を下ろした。彼の透けるような白い肌を赤い夕日が照らしている。
「そうか」
「………うん」
「………」
「………なにも聞かないの?」
「なにって、なんや」
「……なんで来たのかとか、なんでお母さんがいないのとか」
「聞いてほしいんか?」
「……違うけど」
「ほんなら、聞かんよ」
なんだか駄々を捏ねる子供みたい。彼の言う通りひとつも論理的じゃない。なのにこぼした本音と涙に引っ張られて望まぬ同情を期待してしまう。
東京を離れる時、引越しの理由や母親の所在をよく訊ねられた。そうしてその質問の後、大人も子供も口を揃えて言うのだ、哀れみに歪めた表情とともに、かわいそうだ、と。
「人のいやがることはしたらあかんし言うたらあかんねんで」
淡々と正論を吐く隣に座る男の子は、触れようとすると幾重にもなる薄い空気の層をまとっているようで指先がひりつく。同情なんてひとつもない、まっさらで素直な言葉だけを紡ぐその姿に、ああ、カミサマがいるのなら、こんな姿をしてるのかも知れないとぼんやり馬鹿なことを思った。
またぽろりとひとつ、珠のような涙が落ちて春の土の中に染み込んだ。
「……ふふ、しってる」
「そおか」
小学二年生、春。ベルトコンベアーの上のように数多の情報と日々が流れてゆく可能性の町、東京を後にして私は兵庫の片田舎へとやって来た。そこで出会ったお隣に住む、ひとつ年上の北信介というこの人が、私の人生でこんなにも大きな存在になるとは、この時の私はまだ知らなかった。
春風はいつも平等に終わりと始まりを運んでくる。