雨が降るとトタン屋根の隙間から落ちた雨粒がベンチを濡らす。だから私は端っこに立って、次を逃したら三十分後にしか来ないバスを待っていた。


この春に初めて袖を通した制服はすこし前まで半袖であり、そして今は黒のカーディガンを羽織っている。

高校一年生、秋。自宅から徒歩二十分ほどの地元の公立高校に進学した私は相変わらず取り留めのない日々を送っていた。けれど本を読むことや誰かの作品に触れて自分の世界を構築することは相変わらず好きだった。

高校は別段進学校でも柄が悪い訳でもなかったけれど、ほんの少しだけ退屈に感じていた。幼なじみの信ちゃんはと言うと、なんと中学三年生の時にバレーの強豪である稲荷崎高校の監督からスカウトを受け、自宅からバスで三十分ほどの街中にある学校へ通っている。


今日は雨なので定刻の十分前にバス停へやって来た。バスが到着したのは五分過ぎ。開いた扉に余裕を持って乗り込む。

放課後のバスの中は病院へ向かうのだろうか、お年寄りや、街へ買い物へ向かう主婦の方が数人乗っていた。太陽は沈みかけているが、まだ夜ではない。車内の蛍光灯は灯されておらず、加えて窓の外に広がる曇天が心をざわつかせた。雨と湿り気と秋のにおいがする。


先月の終わりに収穫を手伝った信ちゃんのおばあさんの作った新米は涙が出るほど美味しかった。ああ、雨が降らなくてよかったなあ、と思う。時には恵の雨だが、時には人の心をも曇らせる。



「………ごはん、美味しかったなあ」



去年も、その前も、きっと来年も、再来年も美味しい。それは喜ばしいはずなのに私の胸の中にひとつ大きなしこりを残している。



「すごいね、信ちゃん。強豪からスカウトなんて」


「ありがたいことやけどな。でも別にすごいことやあらへん。たまたま必要な人材と、俺の性質が合ってただけや。運が良かったんや」


「信ちゃんってたまに自信家なのかネガティブなのかわからへんなーー」


「俺は普通やよ」


「高校出てもバレー続けるん?」


「いや、ばあちゃんの田んぼ継ぐ」


「…………え?」


「ずっと決めてたことやからな」



信ちゃん、そんなん私なんも聞いてへんで。バレー始めた理由も、農業継ぐて決めたことも、今何を思うのかも。


そっかあ、それ以上言葉が出てこなかった。あの美味しいお米が来年も、再来年もなくなることなく食べられるのは幸福だ。信ちゃんのご両親はもしかすると大学への進学を勧めるかも知れないけど、私は信ちゃんが選んだ道は彼に合っていると思う。大学も、きっと彼は自分には必要ないと言うと思う。シンプルな人だから。


「………」


何も心配はいらない。すべては滞りなく巡っている。なのに、胸にもたげるどす黒い塊はもう見て見ぬ振りをすることはできない。


私は父を尊敬していた。ひとつの言葉を積み重ねて、幾重にも幾重にも積み重ねて、まるでそこが世界のすべてであるかのように錯覚させる。言葉足らずで対人関係にも疎い父が、雄弁に語る、あの人の中にこんな感情が眠っていたのかと身震いするほど、人を惹きつける、圧倒的な世界を構築する。


きっと彼に魅せられた人は数多くいる。読者、出版社、同業者、そして私の母親。どの糸がどう絡まって、縺れて、収拾がつかなくなって、最後にはちょん切るしかなかったのか。それは本人たちにもわからないのかも知れない。


だから、私は怖かった。父の世界に足を踏み入れる勇気がなかった。心のどこかで違うと言い訳をしながら、他の誰よりも父と似ているのは紛れもない私自身であるから。

雨の中、スニーカーをずぶ濡れにしながら、来るはずないバスをずっと待っている。そんな気分。



『稲荷崎高校前ーー。お降りの方はムラサキの停車ボタンを押してください』



土砂降りの雨の向こう、彼の通う高校が見える。私は人差し指で降車ボタンを押すと、ムラサキのランプが仄暗い車内に点滅した。雨はまだずいぶん止みそうにない。











大きな体育館、シューズのグリップ音。まるでボールが打ち付けられたとは思えない激しい音。いつもこの体育館に入るのは緊張する。設備も大きさも、この学校がバレーボールに力を入れていることをまざまざと見せつける。信ちゃんはこんなところでいつもバレーをしているんだなあ。この迫力を目の当たりにするたびに思う。


今年の春、二年生に進級した信ちゃんはいつもと様子が違った。すこし高揚したような、楽しそうな雰囲気。
何か変わったことあった?と聞くと、初めはべつに……と普段の淡々とした返事だったが、思い出したように手を打って、出て来た言葉は『一年にバケモンみたいな双子が入って来よった』、だった。


話を聞くとジュニアバレー時代から有名な双子だったらしい。宮兄弟。彼らもまた監督の熱心なスカウトの末、強豪ということもあり稲荷崎への進学を決めたようだった。今まで取り留めて部活の話をすることもなかった信ちゃんが、ずいぶんおもろそうにバケモンや、と言う。興味を持たない筈がなかった。



お互い高校に進学すると余計に会う回数は減っていった。中学とは比べ物にならないほど高校でのバレーは厳しいようだ。信ちゃんは筆まめではあるけれど、メールやチャットなどの電子媒体を介してはめっきり消極的になる。かく言う私も苦手である。


そんな私たちが数日前、久しぶりに顔を合わせた時、今度の金曜日練習試合あんねん。よかったら久々においでや、そう珍しく誘ってくれた。今までも何度か試合や練習を見に行ったことはあったけれど、信ちゃんからそう言ってくれたのは初めてだったかも知れない。


体育館の周りには相変わらず稲荷崎、そして今日の練習相手の身内やファンなどがちらほらと黄色い声を上げている。そんな光景にどきりとしながら隅っこから中を覗くとちょうどアップをしているところだった。


信ちゃんは中学時代も、そして今も試合に出たことはないのだと言う。ならばなぜ稲荷崎の監督は彼をスカウトしたのか、と素人考えで思ってしまうけれど、そんなことは信ちゃんには関係なかった。
毎日早起きして、誰よりも先に部室へ行って、掃除をして、勉強もしっかりして、挨拶と、後片付けと、俺がやることはなんも変わらへんよ、とそんな姿をいつだって眩しさと尊敬の念を抱いて見つめてた。


アップが終わると休憩に入り、こちらに気づいた信ちゃんに小さく手を振ると飲んでいたドリンクボトルを置いて来てくれた。なんだか久しぶりに正面向って会う気がする。加えて部活中の信ちゃんはいつまで経っても新鮮で変に緊張してしまう。


「ナマエ。来てくれておおきにな。雨えらかったやろ。濡れてへんか」


「う、うん。全然大丈夫………あ、おばあちゃんが新米でおにぎり結んでくれてん。みんなで食べてって持たせてもろた」


「おーバァちゃんのおにぎり最高やんか。みんなも喜ぶわ。ありがとうな」


首にかけたタオルで汗を拭いながら笑う信ちゃんはなんだか知らない人のようで心臓が高鳴った。背後から聞こえる土砂降りの雨の音と、湿った体育館のにおい、すこし肌寒い秋の風。
おにぎりの入った風呂敷を手渡す時に触れた指先から彼の肌の熱さを知って思わず俯いた。近くでは宮兄弟やっぱりカッコイイね、なんて女の子たちの内緒話が聞こえてくる。どうしよう、なんか、目合わせられない。



「………ナマエ?どおしたん、腹でも痛いんか?」



鋭いくせに、変なとこ鈍かったりする。私の様子がおかしいのに気づいてすこし屈んで覗き込んでくる信ちゃんは、いつの間にこんなに背が伸びたんだろう。どんなに仲が良くても、幼なじみでも土足で踏み込まれたら嫌なスペースもある。私たちはその距離感を大切に付き合ってきた、と思っていた。けれど今、私の知らなかった信ちゃんのこれまでのすべてを、知りたいという欲求に駆られている。


すこし困った様子の信ちゃんがそっと肩に触れようとした、ところでコートの奥から監督が彼の名前を呼ぶ声がする。信ちゃんはハッとしたように顔を上げるとはっきりとした声で返事をした。


「今行きます」

「信ちゃんごめん、なんもないねん、ちょっと目にゴミ入ってもうただけ、もう取れたわ」


「………ほんまかいな。ほやったらええけど………とりあえず俺ちょっと行ってくるけどなんかあったらすぐ言いや。勝手に帰ったらあかんで。終わるまで待っとけ」


「う、うん………(オカン………)」


そう言って呼ばれた方へ走っていく信ちゃんを見送ってひとつため息をつく。練習応援に来てんのに困らせるんは最悪やろ。信ちゃん基本読心術使えるんかってくらい鋭いんやから気ぃつけんと。そう自分に口酸っぱく言い聞かせてもうひとつため息をつくと、今度はそのため息すら吹き飛ばすような黄色い声が隣から上がった。


「オイ、治、北さんちゃんと体育館でてったんやろな?ほんまにおらへんか?」

「何回も聞くなうっといわ。相手校の身内が迷ったとかでこの雨ん中迎えに行ってくれやと。災難やなあ…」


信ちゃんが何やら監督に言付けを頼まれて体育館を去った後、息つく暇もないまま今度は嵐がやって来た。明るい金髪、アッシュカラー、身長180cmは超えてるだろう大きな体、そして瓜二つの顔。話に聞いてたバケモン宮兄弟だ。私がごくりと唾を飲む中隣の女の子二人は黄色い声を上げる。それに金髪の方はひとつ舌打ちをすると不機嫌そうに彼女たちを一瞥した。こぼれた悲鳴に私も心の中で同情する。


「な………なん、でしょうか………(信ちゃん傘持っとったかなあ)」


「なあなあ!自分あの北さんの幼なじみなんやって!?さっきアランくんに聞いてん!」

「え、あ、うん………そやけど………(アランくんて、あのハーフの人やんなあ?)」

「俺宮治。こっち侑。名前なんて言うのん?」


「ミョウジ、ナマエ、です」


「よろしゅうな〜〜ナマエちゃん」


「ナマエちゃん北さんといつから知り合いなん?」


「小二からやけど。私が引っ越してきてそれで………て、なんで?」


金髪の方はにこにこと笑顔を浮かべて、アッシュの方は無表情で淡々と質問攻めをしてくる。え、なにこの状況。なんか私興味持たれとる?
双子の背後ではそれとなくこちらの様子を伺う切れ長の目の黒髪の男の子や、色素の薄い髪色の子もいる。ほんとになんだこの状況。



「俺らさ、北さんが子供の頃どんな子やったんかなーーて知りたいねん!なんかおもろい話とかない!?」


「あ、もちろん北さんには双子に聞かれたとか言うたらあかんで」


「(やめとけてお前ら去年それでしぬほど怒られた赤木さんを知らんのか)」

「(バレたら俺までとばっちりだけどおもろそうだから撮っとこ)」


「子供の頃の信ちゃ………し、信介くん?」


「「「「(信ちゃん!!!!!)」」」」


「べつに、今と変わらんけどなあ……」


「今と!?!?小学生とかの話やで!?」

「え、うん………」


「こっわ!!!!どんな子供やねん!!!治、やっぱあの人バケモン………」



「なんやおもろそうな話しとんなあ。俺も混ぜてぇや。」



ひゅっ、と体育館の温度が一度下がった気がした。後ろを振り向くと出入り口から迷っていたらしい相手チームの身内の方と信ちゃんが傘を閉じながら入ってきた。よかった、ちゃんと傘持ってたんやな。そうほっとする私をよそに先ほどまであんなに大きく見えた双子が固まって口を噤んでいる。え、信ちゃん一体どんな恐怖政治をしとんの。


「ききききたさんえらい戻ってくんの早いすね」


「迷った言うても校内でやからな」


「そ、そっすか」



「ナマエ、そこおったら寒いやろ。向こう座っとき」


「う、うん」


「あとこれ羽織っとき」


「あ、ありがとう……(オカン……)」


「(オカン……)」

「(オカンや……)」



迷っていた方はひとつ頭を下げて相手チームの方へ駆けて行った。信ちゃんは私の方を一瞥するとそう言って着ていたジャージを脱いで私に手渡してくれた。まだほんのりとぬくもりの残るとそれを抱えると胸がすこし締め付けられる。練習がんばってね、と伝えるといつものようにおん、と淡々とした返事が返ってきた。それを聞いて言われた通りコートの反対側へ移動する。



「お前ら練習戻んぞ」

「イッッッッス!!!!」

「シャーーーース!!!!!」


「あとナマエにいらんことしたらしばくぞ」



「「サーーセンッッッッシターーー!!!!!」」












呼吸を、忘れるってこういうことなんだと知った。

シューズの爪先が力強く体育館の床を蹴ったと思うと、刹那、火花が散ったような豪快なスパイク。鮮烈。練習試合が始まってものの数分の出来事だった。静まりかえった体育館の中は、再び時が動き出したように歓声に包まれる。私は羽織ったジャージの袖を無意識に握った。コートの中ではどんな素晴らしいプレーも反芻されることなく試合は慌ただしく進んでゆく。遠く離れた位置から的確なセットアップ。一体彼に目は幾つあるんだろう。置いていかれるのはいつも、コートの外の人間。


不意に、コートの向かい側にいる信ちゃんと目があった。腑抜けた顔をしているだろう私にどこか得意げな顔ですこし笑った。

どや、俺の仲間すごいやろ。





書きたい。



勢いよく立ち上がるとパイプ椅子がすこしバランスを崩して音を立てた。周りにいた観客は数人、一度こちらを見たけどすぐに試合の熱狂の渦へ飲み込まれた。コートの向こうの信ちゃんはどんな顔をしているだろう、そんなこと、確認する間もなく体育館の外へ走り出した。



書きたい。今、鮮烈に、書きたい。


今まで散々多くの物語を読んで作品に触れて、自分の世界を構築してきた。様々な物語を書いた。その度に自分の中の知らない感情に出会うのが楽しかった。けれど、母の気持ちに報いることができず、娘の私にも自分の心の内を晒さず、ただひたすらに、自分と自分の作品にだけ向き合ってきたあの人を、私は心底尊敬しながら許すことができなかった。


私が同じ道を選んだとして、それが正解かなんて分からなかった。今も、おそらくこれからもずっと分からない。



けれど、負けたくない。何億光年先を生きる信ちゃんや、彼が尊敬する双子や、そして私の父にも。
書きたい。私にすこしでも持てる力があるのなら、その全力を振り絞って、世界を、読む人が呼吸を忘れるくらい、そこが世界のすべてであると確信させるくらい、鮮烈な私の作品を。



お気に入りのライムグリーンの折り畳み傘は学生鞄の中に鳴りを潜めている。折角借りたジャージ、びしょ濡れにしてしまった、信ちゃん、帰る時寒くないだろうか、ちゃんと上着を持っているだろうか、頭ではきちんと考える、論理的に、筋道立てて、けれど体が思考を追い越す瞬間というのは確実に存在する。


土砂降りの雨の中、濡れたスニーカーで来るはずのないバスを待ってた。けれど今、傘もささずに飛び出した、足が竦むような、怯えるほどの雨の中。もう待つのは止めた。どれほど困難で、時間がかかっても、自分の足で必ず辿り着いてみせる。



帰ったら信ちゃんにしこたま怒られるんだろうなあ、と想像してすこし笑った。



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