四
私はコツコツと階段を登り、社員寮の『ノエル・キャリー』という表札が掛けてある部屋の前まで辿り着いた。そして鞄の中から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでガチャリ、と回す。少し遅れてしまったけれど、あの人はどんな反応をするでしょうか。そんなことを思いながらドアノブを回して扉を開ける。
「只今戻りました、御免なさい、少し遅れ……」
「ほうらルナ!其方じゃなくて此方だよ此方!そうそうそう………よし、捕まえた!!」
部屋に入った途端に耳に入ってきたのは、バタバタと室内を走り回る音。そしてフニャーッ!という猫の鳴き声。
……私は暫し沈黙した後、すうっと息を吸い込んで少し大きめの声を出した。
「……あの、乱歩さん、済みません」
するとくるっと此方を振り向いたのは、嬉しそうに猫を抱き抱えているもう一匹の大きな猫――ではなく、いかにも探偵といった風貌の男性。
私が今までずっと「あの人」という風に形容していた人物だ。
「あ、帰ってたんだノエル、それより一寸見てよ!!ルナが、抱っこしようとしたら逃げるから追いかけてたんだけど、漸く捕まえてさ……って、あっ!」
興奮ぎみに話す乱歩さんの腕から、じたばたと抵抗していた白い毛並みの猫がするりと居なくなる。そして、てくてくと私の方へと駆け寄ってきて足下で立ち止まり、にぃ、と鳴いて私の足にすりすりと頬擦りをした。とっても可愛らしい。
「只今、ルナ。ご飯、買ってきたからね」
私は此の白い毛並みの愛猫――ルナにそう呼び掛け、屈み込んでふわふわの毛並みを撫でる。顎の下の方を撫でてやると、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
それが嬉しくて白い毛のいたる処を撫で回していると、今度は乱歩さんが此方へ歩いてきて私の隣にしゃがみ込んだ。自分の顔のすぐ横に、乱歩さんの顔がくる。
「…………ッ」
……す、少し近いです、乱歩さん。
なんてことは言える筈はなく、私は顔が赤面するのを止められないままその場で固まった。
「狡いなぁ、ノエルにばっかり懐いて。僕が撫でようとしたら直ぐに逃げるのに」
そう言って彼の方もルナに手を伸ばそうとすると、ひらりと身をかわして逃げてしまう。
ほらね?と乱歩さんが肩を竦め立ち上がるが、私は動揺し過ぎて立ち上がることができない。ルナを撫でる手も動かさずに固まる私を見て、乱歩さんは不思議そうに私を見下ろした。
「どうしたの?ノエル」
「……えっ、ああ、いえ、何でもないです」
問うてきた乱歩さんに、私はお茶を濁すことにして慌てて立ち上がった。そう?と乱歩さんは特に気にする様子もなく、部屋に置いてあるソファへ移動して上に寝転んだ。
……乱歩さんは、相変わらず遠慮というものを知らない。仮にも女の子の部屋に来て此の行動。
まあ、乱歩さんらしいといえば乱歩さんらしいですが。
「そういえば、お菓子早く作って!僕ルナと遊んで走り回ってたから腹が減って…」
「……あ、済みません、今作りますね」
乱歩さんの言葉に、私は作りかけのお菓子を放置していたことに気づく。早足で台所に向かい、行程を見返した。少し遅れてしまったけれど、此の調子なら日が落ちる前までには完成しそうだ。そう確認して一安心し、手を動かし始めた処で、ねえノエル、という乱歩さんの声が飛んできて耳を傾ける。
「今日は災難だったよねえ、ノエル」
「え?どうしてですか?」
乱歩さんの言っている意味が判らず聞き返すと、だってさあ、と乱歩さんが何時もの調子で言う。
「今日、久しぶりの休みなのに仕事の手伝いしてさ。僕なら絶対御免だねそんなの」
「……ああ、今日のことですね」
この言葉で漸く合点がいった。恐らく今日の鶴見川付近での出来事のことだろう。乱歩さん程の頭脳ともなれば、此れ位のことはお見通しらしい。
「あの銀髪の少年君に、人食い虎捕縛の依頼――太宰さん達は如何やって解決するんでしょうね」
「おお、中々鋭いねえノエル。」
其処まで見抜けるのは、探偵社でも太宰とノエル位だよ?と語る乱歩さんに私は
「いいえ、全然そんなことありませんよ」
と返す。別に謙遜でも何でもなく本当だ。確かにノエルさんの推理力って凄いですよね、言われたことはなくはないが、後から入ってきた太宰さんや、乱歩さんの能力――超推理に比べれば、天と地程の差があるのだ。此れ位で自分を信じるなんて恐れ多すぎる。
「まあ当然、僕の方が凄いけど!此れ位なら超推理を使わなくたって解るし」
「流石ですね、私なんかには到底敵わないです」
「はっはっは、当然だな!!」
高笑いをする乱歩さん。更に誇らしげに乱歩さんは続ける。
「まあ確かに僕はものすご〜く凄いけど、ノエルだってもっと誇って貰っても良いんだよ?」
だって、ノエルは僕の唯一の探偵助手なんだからね!と語る乱歩さん。
――そうなのだ。私は何故か――乱歩さんの探偵助手を務めさせて貰っている。
最初に言われた時は本当に驚いたし、何より他の探偵社員の方が一番驚いていた。与謝野先生は「明日は槍でも降るンじゃないかい…?」と本気で心配していたし、座っていた社長が飲んでいた緑茶を吹き出した光景は今でも鮮明に覚えている。
「まぁそんな凄い僕だから、今から起こる出来事も大体解ってしまう訳なんだよね!僕が思うに、あと数秒位かな」
「……………えっ」
若しそうならお菓子は一体如何すれば………
頭に過った不安は、プルルルル、という携帯の着信音の鳴る音で掻き消される。遠くからは、ほらね!という自慢気な乱歩さんの声。
……嗚呼、矢っ張り中たってしまいました。当たり前だけれど。
私は作りかけのお菓子の行方を案じながら、着信音の鳴り響く携帯を手に取ったのだった。
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