弐
「げほっ、けほっ、けほっ」
――男性を川岸に引き上げること数分。
ものすごい空腹の中助けたのもあり、僕の体力は既に底をつきそうだった。
水に濡れて寒いし、正直気分は最悪である。屈んで息を整えていると、先刻の女性がしゃがみこんでハンカチを差し出してくれた。
「すみません、私、何もできなくて………」
碧い瞳に申し訳なさそうな色を宿して告げられる。
表情は分かりにくいけど、矢っ張りいい人だ。でも流石に女の人にあまり無様な姿を見せるのは情けないので、起き上がってははは、と笑顔を作る。
「あ、いいえ。自分で何とかするので僕は大丈夫です」
そして横に倒れている男性の方に目をやる。
「大丈夫ですかね……この人」
僕が呟くと、女の人は何故か曖昧な表情をした。
「ああ、それは……大丈夫です、多分」
「え?……うおっ!」
僕が聞き返したその時、突然男性がむくっと起き上がってかなり驚いた。男性は自分の状況を確かめるように辺りをキョロキョロと見回す。
「あ、あんた川に流されてて……大丈夫?」
疑問が残る中男性に尋ねると、思いもよらない言葉を発した。
「――助かったか………ちぇっ」
ちぇっつったかこの人!?
「君かい、私の入水を邪魔したのは」
えっ、しかも邪魔って言われた!?
「邪魔なんて、僕はただ助けようと…!……入水?」
聞き返した僕に、男性が先刻と同じ調子で説明する。
「知らんかね入水。つまり自殺だよ」
え?自殺?
僕の頭の中が、非常に沢山の疑問符で埋め尽くされる。
「私は自殺しようとしていたのだ。それを君が余計なことを……」
そう堂々と言い切って、頭を抱えブツブツと文句を言い始める男性。
その光景はかなりイラッときたが、先刻から膨らみ続けている混乱の方が勝った。
……何で僕、怒られてるの?
「あの、何も知らないのにその言い方は…一寸酷いと思うのですが」
すると、先刻の女の人が助け船を出してくれた。なんて良い人なんだろう。
ところが、男性が女の人の方に目を遣ると、予想だにしなかった言葉を発した。
「あれ、ノエルちゃんじゃない!奇遇だねえ、こんな所で会うなんて」
――ん?
あれ、今、なんて?
「はい。偶然、この方が此処に倒れていたので。其処を、太宰さんが流れてきて……」
「あ、あの、一寸待って下さい」
思わず話を遮った。ごく当然のようにに話していた二人が一斉に僕の方を向く。
「お二人は、知り合いなんですか……?」
すると、男性は一瞬考えた後ああ、といった感じでぽん、と手を叩いた。
「ああ、そうだよ。彼女と私は、会社の同僚なんだ」
多分彼女、自己紹介していないよね、とにこやかに尋ねられる。嘘を吐く理由もないので素直に頷いた。
「済みません……名前、言ってなかったですね。私、ノエル・キャリーと申します。先刻言っていた通り、此方の、太宰さんの同僚です」
そう言ってぺこり、と一礼する、ノエルさんと呼ばれた女性。
調度吹き抜けた柔らかい風が、ノエルさんの金髪をさわさわと揺らした。
矢っ張り綺麗な髪の毛だなあ。
あらためてそう感じて、思わず見惚れてしまう。すると、太宰さん、だったっけか、が、面白いものを見つけたかのようにくすりと笑い声を漏らした。
「あれ、若しかして君、ノエルちゃんに惚れちゃった?」
「えっ!?何言ってるんですか!!僕は別にそんなんじゃ……!!」
「そうかそうか〜ノエルちゃん凄く美人だものねえ〜」
「人の話を聞いて下さい!!!!」
僕の訴えは華麗に無視され、話があらぬ方向へとどんどん広がっていく。駄目だ、この人壊滅的に人の話を聞かない。
「でもねぇ、残念だったね少年君。彼女には、ずっと前からお付き合いしている、彼氏さんがいるのだよ!」
「え?そうなんですか」
「…………ち…っ違います!あの人はただ、尊敬する先輩、っていうだけで」
そんな関係では、ないです……と繰り返し、顔を微かに赤らめるノエルさん。
明らかに怪しい反応だけど……
いつもは無表情でも、こんな表情もする人なんだな。その彼氏さん?かもしれない人って、どんな人なのだろう。
「まあそれは良いとして。確か今日、ノエルちゃん非番だったからいつもの買い出しの途中だよね。こんな所で寄り道してて大丈夫かい?」
すると、ノエルさんが少し焦ったような顔をした。
「………あっ、そうでした。私、そろそろ行かないと……」
そう言って川の向こうの道路まで駆けていくノエルさん。よく見たら、その先には買い物袋らしきものがあった。
そして一旦此方の方を向いてぺこり、と会釈する。
「…そういえば、その、貴方のお名前、聞いてもいいですか?」
「あ、僕ですか?……ええと、僕は、敦です。中島敦。」
「中島、敦さん」
ノエルさんはそう一回復唱すると、何故か何かを悟ったかのようにじっと僕を見つめた。
「?どうかしましたか?」
「あ、いえ、何でもないです。…それじゃあ、私はこれで、失礼します。敦さん、若し、
また会うことがあったら…宜しくお願いしますね」
そして初めてゆっくりと微笑んでから、ノエルさんは再び軽い会釈をして踵を返して行った。
――一体何だったんだろう。
まあ、いいか。そう独りで納得して、ノエルさんの小さな後ろ姿を見送った。
――その後、僕がノエルさんの後輩になるなんて、僕は未だ知るよしもない。
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