「…………乱歩、さん」


私は誰もいなくて薄暗いこの部屋でぽつり、と彼の名前を読んだ。力なく呟いた声にならない言葉は、ひっそりとした部屋に微かに反響し、闇に溶けて消える。ただ、さわさわと揺れる葉の音──わざわざ賢治くんに頼み込んでまで用意してもらった笹の音色が、虚しく私の鼓膜を振動させるだけだ。


震える私の手に握られているのは、長方形の形に切られた水色の折り紙。所謂、短冊と呼ばれているものである。


そして、自らの膝を抱いて深くうなだれた私の周りに転がっているのは、ぐしゃぐしゃに丸められ、所々が千切れた色とりどりの折り紙。


そこに書かれている、自分が綴った拙くて馬鹿馬鹿しいにも程がある願いごとを見るたび、私はまた胸が押しつぶされそうになる。そしてまた、今転がっている紙切れと同じ言葉が書かれたこの手の中の紙を、ぐしゃぐしゃに握り潰して、できることならばらばらに破り捨ててしまいたい衝動に駆られて仕方がなくなるのだ。


ずっとずっと、不安だった。不安で仕方がなかった。


私が勤めている武装探偵社の捜査員──「超推理」という超人的な異能と頭脳を持った、正に本物の名探偵と呼ぶに相応しいあの人物。名前を江戸川乱歩というその人のことが、私はずっとずっと好きだった。あの水晶玉のようにキラキラと美しく輝く瞳も、いつもはねている癖毛気味な黒髪も、あの子供のような自由奔放さも。全てが眩しくて、ずっと見ていたくて。


でも、元々小心者で勇気など一欠片もない私には、思いを伝えることなんてできなくて。ただ、他の社員の方に囲まれている彼を遠くから見ていることで精一杯だった。でも、私はそれで満足だったのだ。勇気のない私には、乱歩さんと同じ職場で働くことができて、彼を眺めていられるだけで十分に幸せだと、確かに思っていたのだ。


しかし、その生活が一変したのは、それから1、2年ほど経った時のことだった。私はその日も、いつも通り事務員として出勤して書類を仕上げ、そして仕事の合間に、駄菓子を食べる乱歩さんをこっそり眺めて幸せな気分に浸っていた。そんな時だった。彼が私に、色々な意味で爆弾を落とす発言をその口で紡いだのは。


『──ねえ、なまえくん……なんか、僕、君のことが、好きみたいなんだ……付き合ってくれない?』


私は、仕事終わりに声をかけられて言われたその言葉に、正直私の耳が可笑しくなったのではないかと耳を疑ってしまった。そう本気で思わせてしまう程に、彼の言葉は唐突だった。

しかし──普段は絶対に見せることのないばつの悪そうな乱歩さんの様子、ほんのりと赤く染まった頬や耳が、嘘だとはどうしても思えなかった。否、思いたくなかった、の方が本当は正しかったのかもしれない。

でも、私はここでみっともなくも舞い上がってしまい、彼の言葉に辿々しくOKの返事を口にした。



しかし、それが今となっては私にとって心の中にずっしりと重くのし掛かる大きな不安要素になったというのだから、とんだ大馬鹿者だと自分でも思う。



私は黙ったまま短冊から手を離してそっと目を瞑り、そのまま横に体重を移動させて、ダルマのようにごろんと寝転がってみた。その姿勢からゆっくりと目を開けて、窓の外を見てみるとベランダに立てかけてある笹の葉とその飾り、そしてこの季節と場所にしては珍しい満点の星空が目に入る。

ああ、何年振りだろうな、夜空を見上げて星が綺麗だ、なんて思ったのは。だけど、できるなら、あの人と一緒に見たかったな、なんて。誘う勇気がなかった自分が全て悪いのに、いつまでもそんなことを考えてしまう自分が嫌になって、再び目を閉じた。


本当は、疑問だったのだ。どうして、乱歩さんは大した魅力なんかない私なんかのことを、好きだと言ってくれたのか。本当に、好きだと思ってくれているのか。

あの時から今まで、何回かデートのようなものをしたり、一応彼のお家に一回だけ遊びに行ったこともあったけれど、ずっと分からないままだった。


いや、そもそも私は彼のことを何も知らないのだ。一番好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな場所、家族のことや、探偵社に入った経緯とか。本当は誰よりもたくさん乱歩さんのことを知りたいのに、勇気を出そうとすれば最初の疑問がどうしても頭の中にちらついて、出した勇気が途端に萎んでなくなってしまうのだ。


当然、そんな私がその疑問を彼に直接尋ねることなど、到底できないままだった。


気が弱くて、言いたいことを素直に声に出せなくて、彼のように社の役に立てるような能力や異能もない。そんな私はせめて、あの人と、乱歩さんと、七夕を一緒に過ごしたかったと、暗い部屋の中で一人啜り泣くことしかできないのだ。


もし、あの星空の中に織姫と彦星がいるなら教えて欲しい。どうすればあなたたちのように、障害を乗り越えて大切な人と幸せになることができますか。こんな自分を変えて──乱歩さんに愛されるような人に、なれるのですか。

もし、この短冊がこんな私の願いを叶えてくれるというなら、私は、私は──


星が瞬く七夕の夜。織姫と彦星が、一年振りの再開を果たしているであろう夜空の下で私は一人、叶うわけがないと何度も破り捨てた願いが綴られた短冊を持って、ゆっくりと立ち上がった。そして、窓を開けて笹の前に立ち、高い場所にそれを結びつける。ベランダを吹く生暖かい夜風を頬に感じながら、あの人へ幾度と無く思いを馳せて。




『いつか、乱歩さんの一番特別な存在になれますように』




天の川は、まだ見えないまま

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