さよならナイトウォーカー
 
荒んでいる自覚はあった。
荒むというか、ただ現実を受け入れられないだけだ。友達の両親と血の繋がった親子になるだなんて早々受け入れられるものじゃない。

肉体年齢と同じ友人ができても、そいつらと俺は考えられることが違う。俺が嫌だからといって泣かないが、年相応のそいつらは泣き喚いたりする。精神は肉体に引きずられるとは誰が言ったのか。
流石に傷ができたりだとか、あまりに耐え切れないことだったりすれば俺も感情を爆発させることもできたが、やはり俺が見て感じることは周りとどこか違っていた。

その分自分がおかしいこともわかっていた。普通、前世の記憶があるなんてことはありえない。
だから拭えない違和感と戦いながら周りの子供と反応を合わせ、自分を取り繕ってなんとか普通のように見せて、平気だの大丈夫だのと嘘を吐きながら、記憶に対する鬱屈を発散することさえできず耐えていた、が。

正直に言えば、限界だった。

「きえたい」

口に出した言葉はあまりにも軽く、重く、両親の耳に届いてしまったようで。

昼ご飯の一つだった、艶のある白米を入れていた茶碗が音を立てて落ちた。それと同時に頭の中を駆け巡る考えに、ああそうだ、消えてしまえばいいのだという声がぐらぐらと俺の脳髄を揺さぶる。
伸ばされた手を無意識の内で弾き、けたたましい音を立てて座っていた椅子を転がした。身を翻して握っていた箸も投げ捨て走り出したのを見て我に返ったのか、両親が俺の新しい名前を叫ぶ声が聞こえた。

鍵もない物置部屋に引きこもり、どんどんと騒がしく叩かれる扉を無視して隅でうずくまる。上から埃をかぶった布が落ちてきて俺の姿を隠した。
うるさい声が頭を叩く。外からかけられる声と混ざってどちらが現実なのかさえわからなくなってきた。

名前、ユウキ。二つの名前が天秤にかけられてぐらぐらと揺れる。
俺はユウキだ。でも今は名前として生きている。ユウキの記憶は全部要らないもので、だから俺はちゃんとあの人たちの子供にならなければいけなくて。でも、じゃあ、

名前がユウキの記憶を持って生まれたのは、周りから見れば全くの無駄だったということで。

埃を吸い込みすぎたのか、喉が少し痛みを訴える。普段は目をそらしていた問題を考えることで、オーバーヒートした脳が視界を揺さぶってきて気分も悪い。知らずのうちに口から出た咳がどこか遠くに聞こえる。
元来それほど体が強いわけではないのだ。早く外に出て新鮮な空気を吸い込まなくては、この新しい小さな体は壊れてしまうかもしれない。

でも、出たくない。新しい両親が要らないわけじゃない、単純に会いたくない。快活な友達にも、理知的な先生にも、優しい近所のおばさんにも、名前に関わる人間全員と顔を合わせたくなかった。
鍵がかかっていない物置に二人が入ってこないのは、きっと俺の自主性を重んじてだろう。俺がいきなりあんなことを呟いてしまったことも原因なのかもしれない。きっと扉の向こうの人たちは傷ついている、でもその行動が今は一番ありがたいと思った。

誰か、ユウキは要るんだって言ってくれ。
いつの間にか流れていた涙は腕を伝って薄汚れた布を濡らした。


―――
――――
どれくらいの時間が経ったのか、外から聞こえていた名前を呼ぶ声はいつの間にかやんでいた。
扉を叩く音も聞こえない。耳障りなのは最初より酷くなった自分の咳の音だけで、頭でぐるぐると弧を描いていた言葉も消え失せていた。

二人はどうしたんだろうか。俺のことなんて放ってご飯を食べて寝てしまったのかもしれない。明日はみんなで出かけようって言っていたから、それも二人で済ましてしまうんだろう。
考えてみれば少し寂しかった。寂しかったが、その光景を想像してみれば、俺がいない方がよっぽどしっくりきた。

だってあの二人はユウキの両親じゃない。本来ハルカの親になるはずだった人たちだ。
俺と一緒に遊ぶ友達も、色んなことを教えてくれる先生も、優しくしてくれるおばさんだって、本当はハルカが持つべきものだったんだ。俺なんかがその立ち位置を奪ってはいけない。

ハルカがここにいてくれたらどれほど良かっただろう。俺がいなければきっとこの場所は変わらずあいつのものだったはずなのに、どうして俺はこの場所にいるんだろう。
また同じ場所を回り始める思考にストップをかけることなく、ひたすら悲劇のヒーローのように何度も同じ問いかけを自分に返した。口に出すことは許されない、内に秘めるべきことを頭で考えるだけでもまだ気持ちに整理がつく。

ぐう、何も入れていない自分の腹が空であることを訴えた。別に腹が鳴ったからといって何かを食べに外へ繰り出す勇気も気力もなく、ただできるだけ小さくなって陰鬱な気分を誤魔化して終わる。

俺がここで餓死をしてしまってもきっとあの二人は悲しまないし、近所のおばさんも先生も友人も、何事もなかったように日常を過ごすんだろうな。
考えてみれば何とも呆気ない終わり方だが、中途半端な俺にはお似合いの最後だ。ユウキを否定も肯定もしない世界に居続けることはとても息苦しいし、つらい。

このまま寝てしまって、それで全部終わりだったら良かったのにな。

目をつむった俺の耳にその音が届いたのはちょうどそのときだった。
ピアノの音だ。単調でゆっくりとした音で、少し薄いとはいえやはり壁越しで聞いているので途切れがちだったが、曲は俺も知っているような単純なもので。

ふらふらと何かに手を引かれるように入口に向かい、誰にも触れられず冷え切ったドアノブを回して廊下に出る。音は隣の部屋から聞こえてきていた。
なるべく音を立てずにドアを開き、隣の部屋を覗く。

普段あまり使われていないグランドピアノ。その鍵盤の前に、今まで見たことのない人物が座っていた。

「あ、」

あの二人の客だろうかと思考を他所に飛ばしていたのが悪かったのか、ご飯を食べずふらふらになった体はバランスを崩して前のめりに倒れた。鼻を打った。
存外俺は燃費が悪いらしい。

俺が倒れるのとほぼ同時にやんだ音。慌てて顔をあげれば、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした年上の少女の姿があった。
盗み聞きしてしまった手前、こちらとしては大変気まずい状況だった。普段使っていないピアノで遊んでいたかもしれない彼女の邪魔をしてしまったことは明白、どう言い訳をしたものか。

気まずさから目線を下に、あ、ともう、ともとれる音を口から漏らす俺の前に少女が座り込む。

「初めまして、名前くん。私はミハルっていいます」

怒られるかもしれないと少し構えたが、聞こえてきたのは想像していたものよりずっと優しい声だった。
それが自己紹介だということに気づくのに時間を要し、ようやく理解できたときに思わず顔が跳ね上がる。黒髪の優しい顔つきの少女は俺に笑顔を向けていて、邪魔したことを怒る様子は全く見られなかった。

名前くんのこと、お父さんとお母さんが心配してたよ。会いに行こう。柔らかい声はそう言葉を吐いて俺の頭を撫でた。

「…会いたくない、です」
「なんで?」
「なんででも、」

あんなことを言ってしまった手前、会いに行けるわけがない。それにあの二人のことを、

「…おやだと、おもえない、から」

本当の子供になりきれない自分がそばに行ったら迷惑がかかる。近づきたくない。
目の前で俺の顔を覗き込んでいた少女、ミハルは、俺の言葉を聞いて少し驚いたような顔をしたが、やがてゆっくりと笑んでもう一度俺の頭を撫でた。

「それなら余計に会わなくちゃ。お父さんとお母さんをよく知らないと、本当の家族にはなれないよ」

ふと、頭を撫でる手にいつの間にか油断していたのか、ミハルは俺の手を掴んで勢いよく引っ張り上げた。バランスを失って倒れそうになるも、体格差か少女が受け止めても倒れる様子はない。
いきなりの事態に困惑する俺を引きずり、いこう、と彼女は開かれたドアの向こうへと足を踏み出した。

「大丈夫。怖くないよ」

なんのことかもわかっていないだろう、何でもない彼女のその言葉は、不思議と俺の心を軽くした。



さよならナイトウォーカー
(ごめんなさいって謝って)
(それからまた新しく始めよう)


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ミハルさんと名前の出会い話


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