■ 今はまだ遠い宙
「ねー、お腹空いてない?お菓子あるよー」
紫色の大きな男の人がさっきまで私が寝かされていた部屋に顔を出したのは、桃色の髪の女の子が部屋を飛び出して行ってから少し経ったときだった。のしのしという効果音がぴったりの歩き方で近くまで寄って来た彼は呆気に取られて呆然とする私をいきなり肩に担いで部屋から連れ出して。
それまで無言だった彼はとある部屋で私をソファーに下ろして、冒頭のセリフを口にしたのだった。
「…えっと、」
「何がいい?かえでちんのためにたくさん作ったんだー」
クッキー、ケーキ、タルト。いろんなお菓子が目の前のテーブルに並べられている。おいしそうだけどこの状況で食べろと言われましても。戸惑う私を余所に彼は手近にあったクッキーを口に放り込んだ。
「あ、の」
「んー?」
「私、名乗ってません…よね?どうして私の名前をご存知なんですか?」
「えー?だってかえでちんは赤ちんの「敦」
第三者の声が割って入った。ケーキに手を伸ばしかけていた彼はその瞬間ビシリと固まって、うげ、と顔をゆがめる。
「一応聞いておこうかな、敦。僕の、何?」
「…何でもない…」
私の背後から誰かが歩いてくる。足音は絨毯に吸い込まれていってあまり聞こえないけれどその誰かが私に近づいてくる気配が何だか怖くて、私はソファーの上で縮こまった。
「かえで」
ぽん、肩を叩かれる。肩を揺らしながらゆっくりと振り返ると、赤い髪の男の人が優しげな目で私を見つめていた。
「何も説明せずにこんなところに連れてきて悪かったね。僕は赤司征十郎だ」
「え、と…。縹木かえで、です…。ご存知みたい、ですが」
「…ああ、知っているよ」
そう言った赤司さんはなぜかとても悲しそうな顔で微笑んで、私の頬をするりと撫でた。
「大丈夫、怖がることは何もない」
赤い髪の男性はそう言ったけれど、私は頷くことはおろか指一本動かすことすらできなかった。この人は怖い、危険だ。頭の中で警報が鳴り響く。
「わたし、生贄って」
「……ああ」
彼はそこで言葉を切ると、少しだけ躊躇するように視線をさ迷わせて再び口を開いた。
「僕は吸血鬼だ」
吸血鬼。それは私の住む村では有名な伝説だった。
森の奥には吸血鬼が住んでいて、森の中に迷い込んだ人間を吸い殺すんだって。森に入り込んだ村人が行方不明になったのは事実らしいけど私にはそれはただの作り話にしか思えなくて。
小さい頃大人たちから再三言われ続けた"深い森に住む危ない生き物"とは吸血鬼のことだったけれど、私はそんな噂を信じてなどいなかった。だから私をこんな見知らぬ場所の連れて来た彼が"自分は吸血鬼だ"とか言い出してもイマイチ納得できなかった、けれど。
「……」
彼が口を開くたびに彼の口から覗く、人間ではあり得ないほど鋭い犬歯。ここに来る前に読んだ手紙に書かれていた、"生贄"という文字。
「や、だ」
「かえで、」
「やだ、嫌です怖い…!私生贄なんて、」
「かえで落ち着いて。僕は君を食べたりなんてしないから…」
「うそ、そんなのうそでしょ?お願い、家に帰して…お願い!」
赤司、と名乗った彼が私に手を伸ばす。その手を叩き落としながら私は、止まらない涙を流しながら部屋を飛び出した。
title/秋桜
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