しかし、それから暫くの間、僕は彼女に会うことが出来なかったのです。
 雨、でした。
 もう数日は経ったことでしょう。僕の身体は随分真円に近づいています。
 彼女に会えないという、あまりのじれったさに何度目か分からない溜息を吐きました。僕の下にはまるで僕を隠すみたいに黒くて無粋な雨雲がいて。
「ねえ。君。いつまでそこに居るつもりなの」
恨めしげに零した言葉に僕の下を陣取る雨雲は困ったように顔を曇らせました。
「そんな事を言われましても、だんな。これがアタシらの仕事名わけでして。アタシらだって、別に、下界の人間が憎くって雨を降らしているわけじゃあないんです」
「それは分かっているよ。……分かっているけど」
口ごもった僕に、雨雲はけらけらと快活に笑いました。まるで心のうちのじめじめとしたものは全部、外に出してしまっているように、雨雲自身の性格はとっても明るいのです。
 しかし、今の僕にはその笑い方がどうにも気に入らなくって、むうっと不機嫌あらわに彼を睨みました。
「そう、怖い顔しなさんなって。まあ、アタシも流石に今日で引っ込みますよ。まあだいぶん出張っりましたから。そろそろ、雨も切れました」
雨雲はまるで言い訳するように、取り繕いました。
「本当に?」
「ええ。それに明日は七夕でしょう? 好んで馬には蹴られやしませんよ」
「七夕……」
そうか、明日だっけ。と、呟いた僕に、そう、明日です。と、雨雲は淡々と答えました。僕ははっと、息を呑みました。明日は、七夕。美しきあの子が目覚める日。僕はそっと雨雲を見下ろしました。彼は何も言わず、真っ黒い身体を重ったるく浮かべておりました。
「あの、ごめんなさい」
「おや、お月様。一体、なんのことです」
思わず、僕は謝ってしまいました。彼は即座にしらばっくれました。
 一瞬の沈黙が下ります。
 その後。
 雨雲がけらけらと笑いだしました。
 けらけらと笑いながら、雨雲はざざあざざああと心のうちのじめじめしたものを流す見たく、雨を降らせ続けていました。


 翌日。
 雨雲の言うとおり、すっきりと蒼く、雲ひとつ無い夜空が広がっていました。昨日までの土砂降りが嘘のよう。空を二分するようにはっきりと天の川が流れ、その岸の両端には永遠の恋人が再会する喜びに震えることとなりましょう。
 僕はぐい、と一度伸びをして、下界へ目を下ろしました。はや三日。僕は再会の約束をしていながら、彼女に会いにいけていないのです。たった三日という短い時間でこんなにも寂寥に襲われるのに、一年も会うことを赦されない彼らは一体どんな気持ちで日々を過ごしているのでしょう。
「月ちゃん、月ちゃん。なにしてるのっ」
ぼんやりと物思いにふけっていたら、ふと空から声を掛けられました。声のしたほうへ振り向けば、そこには豪華絢爛な服に身を包んだ、一人の星がこちらに笑いかけていました。夜空の中でぴかぴかと一等美しく輝く、星の名はベガ。夜空に架かる銀河に引き裂かれた恋人の片割れ。僕は織姫星という和名を下に、織ちゃん、と読んでいます。
「織ちゃん! また、この季節になったんだね」
「うんっ。昨日まで、ずうっと雨だったでしょっ? わたし、どうしようって、ずっと心配していて。でも、雨雲さんがね、今日ぐらいはって、晴れにしてくれたの! まだ、いっぱい、降らさなきゃいけない雨、残っていたのに」
本当に雨雲さんって良い人! と、嬉しそうに語る織ちゃんに反して、僕はなんとなく苦い気持ちになりました。やっぱり、と心中で呟きます。しかし、幸せそうな織ちゃんに水を差すわけにはいかず。僕はしばし考えて、
「雨雲さんにお礼、言った?」
と、だけ尋ねました。きらきらとその目を一層輝かせる織ちゃんは僕の質問に素っ頓狂な顔になって、それから、
「あったりまえじゃない。私のわがままに付き合ってくれた人よ。感謝しても仕切れないわ」
と、答えました。そっか。ならいいんだ。僕が静かに答えました。
「月ちゃんってば、変なこと聞くね」
にこにこ笑う彼女に、僕は――自分だって同じであるにも拘らず――、締め付けられるような苦しさを感じました。僕が気まずく黙り込んでいると、織ちゃんは再びにっこりと笑いました。
「じゃあ、私そろそろ行かなきゃいけないから。彦星くんを待たせるわけにはいかないもの」
そうして、ふわふわとドレスのリボンを夜空に舞わせながら、天の川の岸辺に降り立ちました。
 足元には満点の星々を湛えた天の川が静かに流れていました。
「今年もやっとこの日が来たのね。一年にたった一度。私が目覚めることが赦された日……」
静かに織ちゃんはそう呟きました。そうして、天の川へそっと足を踏み出します。
 いつもなら、満たす星の輝きで眩んでしまうその川。けれど、今日は七夕。唯一の恩赦の日。
 織姫が下ろした足が天の川に浸されるよりも早く。彼女の足元に翠交じりの黒い羽が舞い散りました、そしてふわりと羽に押し上げられるように彼女の身体が浮き、前へと進んでゆきます。一歩、一歩と彼女が進むたび、足元から羽が舞い、ふわふわと揺れるドレスのリボンと交じり合う光景はまるで一枚の絵のようでした。はあっ、と織ちゃんが静かにと吐息つくのが聴こえました。
「ねえっ、織ちゃん!」
僕は思わず彼女を呼び止めました。ゆるりと振り返った織ちゃんの頬は紅く染まっていました。
「……七夕じゃない日ってどんな気持ち? やっぱり、淋しい?」
僕の問いに、彼女は少し驚いたようでした。そんなこと聞かれるの初めてだね、と微笑まれます。
「そうだね。彦星くんに会えなくっても、楽しい日も嬉しい日もあるんだけど」
にこりと笑って、しかし、その笑みは直ぐに陰ってしまいました。
「でも、何か足りない感じ。私が笑ってるときに、彦星くんが笑ってるとは限らないんだと思うと、なんだかとっても淋しいの。欠けてる気持ちになるの。おんなじ気持ちじゃ無くったって良いんだけどね、でも私が見てる景色と彦星くんが見てる景色が違うのは悲しいの」
ごめんね、やっぱりうまく言えないや。
そこまで言って、彼女は困ったように眉尻を下げました。僕はううん、と小さく首を振りました。
「なんとなく、分かるよ。……なんとなく。だけど」
会えなくって淋しいんじゃなくて会えないと欠けてる感じ、その喪失感が心もとないそんな気持ち。君といる時間が完全で、まんまるだから、どうにも君がいないと収まりの悪いようなそんな気持ち。
 あの子と話したのはたった一度だけなのに、どうしてこんなに心もとないのか。僕はそっと胸の辺りを撫でました。今だって、こんなに締め付けられて苦しい。
 その気持ち、分かる気がする。もう一度呟けば、織ちゃんはなぜかにんまりと口角を引き上げました。
「そっか、月ちゃん。好きな人がいるのね」
「えっ!?」
「なるほどなるほど。とうとう、月ちゃんもそんな年になったんだね。そのお話、とっても聞きたいところだけど、今日の私はただ私のために生きてるから! ううん、昨日も一昨日も、きょうの私のために生きてたんだけど! だから、今度、月ちゃんの恋ばな聞かせてね。ごめんねっ!」
さっきまでの感傷を吹っ飛ばして、織ちゃんは好奇心に輝く笑顔になりました。そうして、「じゃあね」っとだけ言い残して、彼女は早々に天の川を駆けていってしまったのでした。
「あ、慌しい……」
ふわふわと夜空に浮かぶ天の川を見つめながら、僕は一人、呟きました。

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