似ても似つかない、優しくて大きい手。とても暖かくて私に安らぎを与えてくれる。
なのに、私はそれを。
なんであんなことしちゃったんだろう。
なんてことをしてしまったんだろう。
頭から離れない、傷ついた顔。戸惑ったようにさまよう瞳。労るような声。もう何年も前のことだ、大丈夫だと思っていたのに。未遂だった、そんなに気にすることもないはずなのに。
「………っ、【千手の涯 届かざる闇の御手 映らざる天の射手 光を落とす道 火種を、】」
「まてまてまてまて!!」
詠唱途中に突然腕をとられ、せっかく集めた霊圧が散ってしまった。ハッとして閉じていた目を開ければ、そこには焦りを滲ませた尚の姿があった。
「おっお前は!馬鹿なのか!?馬鹿だよな!?」
「なんて失礼な」
「うるせえ!断空の修行中にいきなり九十番台の詠唱始める奴を馬鹿と言って何が悪い!!」
「……あいやー」
「あいやー、じゃねえ馬鹿!!」
俺が今どんだけ怖かったか分かるか!?とギャースカ訴えてくるのを見て、ペロッと舌を出せば問答無用で拳が飛んできた。流石にごめん。
そうだった、今は尚に頼まれていた断空の強度を高める修行中だった。確かに、いくよーと声をかけといて九十番台である千手皎天汰炮の詠唱始めたのは私が悪い。
「お前、今日どうしたんだ?…いや、今日だけじゃねえな。ここ一週間、いつも通りヘラヘラしてるかと思いきや上の空だし、今みてえに突拍子もないことやるし」
「ヘラヘラって酷くない?」
睨んでも尚は「真実だろぉが」なんて言ってあしらう。コイツも段々私の扱いが雑になってきたな。
「で?」
「……別に、なんでもないよ」
「嘘こけ。短ぇ付き合いだけどそんくらい分かんだよ」
何があった?なんて真面目な顔で心配してくれる尚。ありがたい。素直にありがたいが、こんなこと言える訳がない。
恋人に触られると、他の男に犯されそうになったことを思い出して拒絶してしまう。
だなんて、相談できるはずもない。
一週間前の夜のことがまた蘇ってくる。あれから真子とは一度も会っていないし、話してもいない。私が避けてしまっているのだ。なんて言われるだろう、嫌われてしまっただろうかなんて考えると、どうしても勇気が出せなくて足が動かなくなる。私はいつからこんな臆病者になってしまったんだろう。
「……尚はさ、恋人いる?」
「居ないって知ってるだろ、喧嘩売ってんだな?」
「もしもさ、好きな人に拒絶されたら、辛いよね」
「聞けよ。……なんだ、平子副隊長と喧嘩でもしたのか」
喧嘩、だったらどんなに良かっただろう。なんだか段々、すごく惨めな気分になってじわりと目頭が熱くなった。おい!?なんて慌てる尚が背中を擦ってくる。が、
「っ!」
「…………はーん、なるほどな」
びくっ、と過剰に反応したことで、尚は悟ったようだ。彼は元々他人の感情の機微に凄く敏感だし、観察眼も鋭い。正直、まさかこれだけで察してくるとは思わなかったが、「同じ反応を平子副隊長にもしたんだな?」と聞いてくるあたり正確に理解してしまったらしい。
「怖いのか?平子副隊長のこと」
「ちがっ!…ちがうよ、そんなんじゃないよ」
むしろ、彼に触れたくて、触れられたくて。夢にもみたような瞬間だったのに。どうやら、自分でも気づかないうちに蛆虫の巣は私のなかで、かなりの傷になっていたようだ。なんでだろう、喜助さんや大鬼道になら、頭を撫でられたって私から突進したって大丈夫なのに。
「まあ、お前がしたことは平子副隊長を傷つけることだったと思うよ」
「っ、うん」
でもよ、と、尚はしゃがみこんでる私に目線を合わせるように屈んだ。
「お前だって、こんなに傷ついてんじゃねえか」
尚の声が、私の弱さを肯定してくれるかのように耳に入ってくる。本当は、私が傷つく資格なんてない。それでも弱い私は誰かに慰めてほしくて、だけどその誰かは私の中で只一人なのだ。
「苦しいだろ?」
「うん、」
「なら、誰かに取っ払ってもらわねえとな。お前のなかじゃ、もう決まってんだろ」
「うんっ…」
零れかけた涙を裾でグシッと拭った。顔を上げたらニヤニヤしてる尚が目に入って、思わず下段蹴りをしてしまう。
「うおおお!?おまえっ!この恩知らず!」
「ふふ…ありがとう、尚」
「…おう」
「なんで尚に恋人ができないんだろうね?」
「友達としか思えないの、と言われ続けた俺の気持ちがお前に分かるもんか」
「あっはっはっはっ!」
「テメエ!!!」
友達、そっか、友達か。尚は私の同僚で、だけどとても大切な友人だ。私はこの頼れるけどちょっと残念な友人を、ずっと大切にしていこう。
尚に追い出される形で修練場をあとにした私は、既に業務が終わってるだろうことを見越して五番隊へと駆け出した。
ああ、今はとにかく、真子に会いたい