7周年 | ナノ
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因果応報、地獄に落ちろ。
学生の頃読んだ小説の一節だった。好きな一節だった。
私はいま、目の前の、定時前ギリギリに、私を怒鳴りつける彼女にそれを伝えてやりたかったが、二週間前に私の前でぼろぼろ泣いた後輩のことを思い出して、あぁ今回は私がそっち側なのか、と言葉を飲み込み自己解決した。そもそも上司に暴言を吐くほど、狂ってはいないと自負している。いや、吐いたことあるか。いつの間にか狂ったんだ、私。
入社して初めて、群衆の前で泣いた。落涙した瞬間、私に罵声を浴びせていた悪口のボキャブラリーが豊かな彼女はぎょっとし、言葉をつまらせた。周囲からの好奇の視線も、痛いほど感じた。

「……すみませんでした」

謝罪の言葉と共に、腰を九十度に折った。悪いと思ったわけではない。泣いた顔を見られたくなかった。それが理由だった。
決して謝るものか。そもそもその案件、私の担当じゃない。叱られる理由がないから謝ってやらない。
彼女が憤怒したのは、私のその態度だろう。声をかけてきた時の怒りのボルテージはそんなに高くなかった。私が「いや知らないよ、なんてったって私の担当じゃないし、それにいま私、仕事ができない貴方が押し付けてきた書類の作成で忙しいんですよ、定時退社が私のモットーなのに」を滲ませたせいだ。「あぁそれですか、仰る通りですねスミマセンデシタ」って適当に謝っておけばこうはならなかっただろう。
でも私、嫌なのだ。もうそれなりにキャリアを積んで、せっかくバカな上司とバカじゃない上司の見分けもつく様になったのに、バカな上司にバカの一つ覚えみたいに謝るの、本当に、大嫌いなのだ。

「……もういいから。週末までに貴方が修正して。修正、仮提出、最後にもう一度直して本提出。ここまでを今週末に。わかった?」
「はい」

え?いやいやいや、無理ですけど。残業不可避コースじゃないですか!冗談よしてくださいよ!は飲み込んだ。しかし締めの言葉として適切であろう「大変申し訳ございませんでした」も飲み込んだ。決して吐き出してやるものか、バーーーカ!と思った。

「ミョウジさん、帰れますか?」

化粧ポーチにはお気に入りの口紅を二本。気分で色を選ぶのが好きなのだ。そしてそれを塗布するリップブラシ、目薬、綿棒、小さな鏡。あとポケットの中に薬用のリップクリーム。それだけ。
お手洗いの個室に引きこもって、ふうっと息を吐いた。もう泣けなくて安心した。怒りに近い感情の方が込み上げてくる。同時に、選手層の薄い自分のポーチを恨む。ここ数年、会社で泣くことなんて想定していない私だ。下瞼の可愛いラメも、時間のない中根気強く塗った下睫毛専用のマスカラも、あの女のせいで台無しにされたのだと思うと腹立たしくて仕方ない。せめても、と綿棒にリップクリームを付着させた。それで下瞼を綺麗に拭う。乾いた方でもう一度拭うと、ほぼまっさらになる。顔のバランスがイマイチだが、そんなことを嘆いたってどうしようもない。上のアイラインは瀕死だが無事だ。上睫毛はウォータープルーフのマスカラを使っていたのでいまだに元気で感謝した。ごめんね、落とすの面倒くさいと思っていて。涙が伝った頬だ、チークやファンデーションが気にならないわけではないが、私のポーチのメンバーではどうしてやることもできず「仕事をバリバリこなす格好いい私」の修復は叶わなかった。さて、一時間……二時間残れば終わるか、お腹空いたなあ、引き出しの中に飴かチョコレートくらい入っていないだろうか。そんなことを思いながらデスクに戻った時、彼が声をかけてきたのだ。

「今日残るよ、私」

私とあの上司のやりとりを見ていなかったのだろうか、と疑問に思う問いかけだった。

「それ、明日僕やります。だから帰れませんか?」
「赤葦くんの担当じゃないでしょ」
「ミョウジさんの担当でもないでしょう」

正論ではあったので一瞬黙ってしまう。その隙を突くように、彼が畳み掛けて言う。

「僕、いま余裕ありますし、比較的。今日は帰りましょう」
「昨日残ってたじゃん」
「それは今日終わったので」
「へぇ、仕事早いんだね」
「ありがとうございます、でもミョウジさんには負けますよ」

着席。スリープ状態のパソコンを叩き起こし、ディスプレイに向き合った私を怪訝な顔で彼は見た。話聞いてんのか、ふざけんな、が喉元まで来ている様子だが私もだいたい同じことを思っていた。君、さっきまでこのフロアで起きていた惨事の記憶、喪失した?と。

「ナマエさん」

ぎょっとする。彼が私たちの職場でのルールを破ったからだ。
そして言う。話あるので付き合ってもらえませんか?今日俺、車なので家まで送ります、と。
彼を睨む。赤葦くんの顔に「申し訳ない」は浮かび上がってこない。どちらかというとムスッとした態度だ。なんでこの人まで怒ってんの、意味わかんないんだけど。気圧?気圧のせいなのか?
私は仕方なしにパソコンをシャットダウンし、荷物をザッと適当にまとめる。はい、帰れますよって表情で引き続き彼を睨む。

「行きましょうか」

私のそんな視線を微塵も気にしていないような声がやってくる。苛立つ。あぁやっぱり気圧のせいか。納得する。

「すみません、急に」
「それよりも先に職場で下の名前で呼んだ件を謝罪して」

こちらのわかりやすい依頼を堂々と無視されたが、入社したての彼に「自分が悪くない時にへこへこ謝らなくていい」と伝えたのは私なような気もする。つまり、彼は自分が悪いと思っていないのだろう。
車は滑らかに街を走る。流れる東京の景色をぼうっと眺めた。車内は赤葦くんの車でよく流れている音楽が流れていた。ナビのディスプレイにアーティスト名と曲名が表示されているが、疎い私はどちらがアーティスト名でどちらが曲名なのか、判断できない。

「何飲みます?」
「え?」
「お腹空きませんか」

スターバックス、ドライブスルー。
この人、私のこと、慰めようとしているのだろうか。薄々気付いていたが、確信に変わった。いい気分ではなかった。

「……いい」
「甘いのでいいですよね。なんか食べます?」

話が噛み合わなくて、返事をするのをやめた。もうやめて欲しかった。これ以上泣いてしまったら、私はすでにどうしようもなくなっているメイクを修正する術を持っていないから。

「すみません、トールのカフェミストをください。あと、」

思い出す。赤葦くん、入社した頃、よくあの上司に叱られてたっけ。しかもかなり、理不尽な理由で。彼は私と違って立派なので、言い訳もせず泣きもせず、すみませんって謝っていた。新入社員の登竜門だ。勤続が長くなり、冷静な判断ができなくなりかけていた私はそう思っていたが、暫く経ってもそれは続き、盗み聞きで話を聞く限り、彼の仕事ぶりを見る限り、彼に非はない気がして、首を突っ込んだ。

御指導中すみません。私、赤葦くんに頼みたい案件あって、彼と話したいんですけど、いつまでかかりますか?

しんと、オフィスが凍ったのがわかる。彼女に楯突く人間など、ここには存在しなかったから。でも変なスイッチがオンになった私は怯まずに続けた。

あと、それ、話聞いてる感じ、赤葦くん悪くないですよね?

なるべくポップに、嫌味っぽくないように伝えたつもりだが、彼女はそういう受け取り方をしなかったらしい。耳を、顔全体を真っ赤にして怒り狂った。比喩でもなんでもなく、茹で蛸のようだった。そんな茹で上がった彼女を見て、あーあ、やっちゃった、と思った。でも、反省はしていなかった。全く、これっぽっちも。その証拠に「話を盗み聞きする暇があるなら手を動かしなさい」という教えには「隣の席で十五分もガミガミやってる方が問題なのでは?そちらが場所を変えたらどうか?」と、「彼に用があるなら順番を待ちなさい」には「私と彼が話している最中に割って入ってらっしゃったのはそちらですよね?」と、「言い訳ばかりして!」には「言い訳をされるような言い分を述べないでください!」と元気よく返した。
あぁ、だから私、嫌われているのか。振り返ってみれば当たり前のことだ。いくら好きではないとはいえ、上司にあんな風に逆らったのだ。二週間前のあの子の分じゃない。きっとそれはまた別でやってくる。今回は二年前のあの時の分が自分に回ってきだのだ。「因果応報、地獄に堕ちろ」だ。

「すみません、ありがとうございます」

彼がにこやかに、丁寧に商品を寄越す店員に礼を言う。冷たい風が車内に流れ込んでくる。暖房でほてり始めた頬に心地よかった。

「はい、熱いかも。気をつけてください」
「話って何?慰めようとしてる?」

怒られてる時、何考えてるの?
まだここまで距離が近くなかった彼に、問うたことがある。普通に落ち込んでます、と思ってもみない方向からの言葉がやってきて、驚いたのを覚えている。顔に出ないね?と聞けば「それでまた怒られるんですよ。本当に悪いと思ってんのか、反省してるのかって。幼少の頃から言われますね」と。
その後で「まぁ職場であの人に叱られている時は悪いとも思っていないし反省もしていない」が付け足されて、私はポカンとした後で勢いよく笑ったのも、はっきりと覚えている。

「俺なんかに慰められて、ナマエさん元気出るんですか」

彼は情けなく笑い、温かい飲み物を私に差し出す。「いいって」と断る。

「これ美味しいらしいですよ、限定だし。ドーナツは?抹茶とチョコレートどっちがいいですか?あ、飲み物も甘いですよね。甘い甘いだとしんどいですか?カフェミストにします?」

私が上司に喧嘩を売ったあの日から、赤葦くんは私に近付いてくるようになった。近付いてくるようになった、なんて言い方は適切でないかもしれない。そうだな……慕ってくれるようになった。私も彼を慕うようになった。職場では呼ばないでよね、赤葦くんモテるから。私、女の子に僻まれちゃうんだよ。その条件付きだが、職場外では下の名前で呼ばれるようになった。さっき彼が破り、私が怒ったルールはこれだ。
そんな感じで親しくなった私たちだ。叱られて無駄な体力を使った彼を、いまみたいに、無理矢理スターバックスに連れ込んで温かい飲み物を飲ませたりした。
寒いとそれだけで気が滅入るでしょ?お腹空いてると尚更。だから温かくて美味しいもの食べて、お風呂浸かって早めに寝なよ。
以前私が言った口煩い母親のような発言を、彼は覚えていて、こうしているのだろうか。

「……いらなかったらそのままにしておいていださい。運転できないからとりあえず受け取ってもらえますか?」
「……ねえ」
「はい」
「何で?」

両手に熱がやってくる。ほっとする。いただきます、とそおっと口を付ける。

「何がですか」
「なんで、こんなことするの」
「好きだからですかね」

もう、恥ずかしいなんて微塵も滲ませず、彼は言った。
初めて好きと言われたのは、いつのことだったろうか。赤葦くんとは片手以上歳が離れていたわけだが、あんなことがあってからたまに仕事終わりに食事をするようになっていた。そんな何度目かの帰り道、言われたのだ。その時は気付いていなかったが、いま考えるとあの日、彼は飲酒していなかった。今日は疲れているから飲むと酔いそうなんで。そんなことを言っていたのを「好きです」と言われ「何言ってんの酔っ払っちゃって!こんな歳上の女を揶揄わないでよ!ハハ!」とあしらい、じゃあね!と勢いよく別れ、部屋にへたりと座り込んだ後でそういえば赤葦くん今日は飲んでなかったな私はかなり飲んだけど……と思い出し、困惑し、その後でどうしようもなく恥ずかしくなった。でも、だからって、歳下の、職場の可愛い後輩に「さっきの本気?私も赤葦くんのこと気になってるの。だから好きって言われたらそんな、意識しちゃって、好きになっちゃうよエヘヘ」と素直に伝えられない馬鹿な女が私だ。
そのまま時は流れ、今でも彼は不意に、定期的に「好き」を訴える。
そしてそれは、毎回、彼が酔っ払っていない時だけだった。酔った彼は私に愛の告白をしてこない。それに気付いてからはなるべく、居酒屋で食事をするようにしていた。定食屋に入った時も、生ビールを勧めるようにした。
何度も届けられたら、正常でいられなくなるから。
そして私は彼の真面目な告白がやってくる度に「またまたぁ!」みたいな最低な態度をとる。
間違いなくこの世で最も、救いようのないバカだ。

「お世話になっているので、ってのもありますけど」

好きだから、の割合の方が大きいような気がします。
この人、本当に感情、表に出ないな。甘ったるい台詞を無表情で淡々と告げる彼を横目に、そんなことを思った。

「災難でしたね、今日は」

いつの間にか彼は私から「好き」の返事を貰うことを諦めたようだ。そんなことより、というテンションできっと本題であろう話題がやってくる。

「……私が、わる「くないでしょ、絶対に」

声が、怒っていた。引っ込めた涙がじわっと浮かび上がってくる。いいって、もう。いいから、もう。私のために怒ってくれているみたいで、嬉しくなるじゃん。

「ナマエさん、いつからそんな腑抜け野郎になったんですか」
「……腑抜けてません」
「みんな引いてましたよ?」
「私が泣き出したことに?」
「はい?なんでそうなるんですか?あの人の横暴さに、でしょ。モラハラパラハラのオンパレードですよ?訴えたら飛ぶんじゃないですか?」
「……いいよ、因果応報だから」
「え?」
「元々、私が逆らったから。あと二週間前に狭山さん泣かしたし。因果応報、地獄に堕ちろって思ってたんだよ、向こうも」
「…………何言ってるんですか、あと狭山さんは自分が仕事できなさすぎて情けないのにナマエさんがフォローしてくれてアドバイスまでくれて優しくて嬉しかったって言ってましたよ」
「狭山さんと仲良いんだ」
「普通です。ていうかそれ、ナマエさんがあの人に逆らったのは」

俺を庇ったせいじゃないですか。
赤葦くんは消えるような声で言った。違うよ、と返す。ハッキリとした声で、返す。

「まだ言う?それ。しつこいよ」
「俺、しつこいんですよ。知りませんでした?」

あの日から……あの日というのは、二年前、叱られている赤葦くんを庇った……いや、庇ったわけではない。私が苛ついて、勝手にキレただけのあの日のことだ。後輩のくせに、直属の上司にキレ散らかしたあの日だ。

「私が勝手にやったことじゃん」
「俺はそれに救われたんですよ」
「よかったね、偶然救われて」
「謝りたくて」
「……何に?」
「今日、あの日のナマエさんみたいにナマエさんを救えなかったから」

信号、赤、緩いブレーキ、停車。
赤葦くんは私に抹茶のドーナツを寄越す。半分に割るよう指示する。その間に彼はチョコレートのドーナツを半分に割る。片割れを私に寄越す。そっちも半分ください、俺、両方食べたいので、と口早に言う。信号が青になる。彼がアクセルを踏む。車が走り出す。

「……何言ってるの」
「懺悔ですかね」
「言っておくけど、私、」
「そんなことされても嬉しくないでしょう?」

その通りだ。あそこで誰か逆らえば、きっと今度はその子が標的になる。だから別にどうだってよかった。自分が犠牲になるくらい、どうだっていい。赤葦くんがもう、以前みたいに標的にならないなら、もっといい。

「俺もそう思って、黙ってたんです。でも、泣いてたじゃないですか」
「……悪い?」
「……悪いとかいいとかの話じゃなくて」
「私だって人の子だからね。生まれた時はおぎゃあと泣いただろうし、今だってたまに泣くよ」
「許せないなと思って。好きな人が泣かされてるのって。で、なのに何もできなかったんでこうやって罪滅ぼし的に誘ったんです。それこそ因果応報じゃないですけど、あの日俺を救ったんだから、ナマエさんも救われるべきでしょう?でも俺、何もできなかったので……いやまぁ普通に一緒に居たいって下心もありますけど……俺はしょっちゅうナマエさんに慰めてもらって嬉しかったから、自分も同じようにしたいなと思ったんですけど」

俺なんかじゃ意味ないですよね。
この子の自身のなさは一体どこからやってくるのだろうか。綺麗な顔だ。背も高い。ウッディでスパイシーな、自分によく似合う香水を纏うセンスがあって、仕事もよくできる。身体つきだっていい。新入社員の女の子は大抵赤葦くんに一目惚れして、私に好意を向けていることを知ると「え?なんであの人?」みたいな顔で私を見るから、うんざりする。すみませんね、特別に美しいわけでもなくスタイルがいいわけでもなく、平々凡々な見た目の、可愛げのない女で。
彼は私や無能な上司たちと違ってバカじゃない。だからそれなりにモテることくらいわかっているはずなのに、なんで。なんでちょっと、気まぐれで庇ってやったくらいで、私のことなんか好きになってるの。単純すぎるよ。

「ありがとね」
「え?」
「ありがとう、気遣ってくれて」
「え、いや、はい」
「付き合ってみる?」
「え?」
「私たち」
「付き合って、って」
「私ね、好きだよ。赤葦くんのこと」

ぎゅうっと、彼がブレーキを踏んだ。突然の重力、つんのめる私を彼が左手で押さえるようにする。驚いた顔でこちらを見る。私も驚いて、彼を見る。

「どうしたの」
「っぶな……っ、危ないじゃないですか」
「赤葦くんの運転が危ないんじゃん」
「ナマエさんがっ……ナマエさんが、悪いですよ」
「……自分は散々、好きなタイミングで好きって言うくせに」
「動じないじゃないですか、ナマエさんは」
「動じまくってるよ、一人になった時に」
「……なんなんですか、その特性。俺、知らないですもんそんなの」

変ですよ、絶対。
きっと、ざわざわと心臓がうるさいのだろう。わかるよ、ソレ。私も貴方から好きを貰った後、一人きりの静かな部屋で、同じようになるから。動揺した彼を見て思う。なんだ、ちゃんと出るじゃん顔に。暗い車内、夜の曖昧な街頭でぼんやり照らされる彼の照れ臭そうな横顔を眺めながら、思う。

「……見過ぎです」

半分のドーナツを黙って胃におさめ、いつの間にか見慣れた景色。そう言って彼がじわじわ、近付いてくる。私の家の前、焚かれたハザードランプ。
ちょっと待って、私、いま、メイク崩れてるから。
そんな言い訳は通用しなかった。今更待ちませんよ、何年待ったと思ってるんですか、という当たり前の主張の後で、そおっと唇が触れた。

2023/01/26