7周年 | ナノ
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地獄のような光景にうんざりしたし、そそっかしい自分を恨み、卑下し、泣きたくもなった。暫く立ち尽くしていたが、私は魔法使いではないから時を戻すことなどできるはずもなく、指先で大きな欠片を拾い集め、無事だった部分をケースの中にしまい、砕けてどうしようもなくなった破片は掃除機で吸い込み、最後に布巾で水拭きをした。床は元の美しさを取り戻したが、そんなことは胸の喪失感を埋める材料にならなかった。ドレッサーにそれをしまう。ごめんね、と声に出して謝ったら、本当に申し訳なくなって、彼の顔が浮かんで、鼻の奥がつんとした。
銃兎さんからプレゼントで貰った、お気に入りのチークを落として割ってしまった。
限定で、もう手に入らないものだ。フリマアプリに出品されているだろうかと確認したが、soldの文字が多い。販売されていないわけではないが、新品未使用など存在はせず、その割に法外な価格で、購入するのボタンはタップできなかった。出社後、落ち着いて考えたら、そうしたところで、同じものが手に入ったって自分の心が満ちるわけでもないと気づいた訳だが、それでも気分は落ち込んだままだった。
銃兎さんから初めて貰ったものだった。

「え?」

どうしたらこの気分が晴れるのだろうか。
銃兎さんに謝れば、多少紛れるのだろうか。

「チーク?」

透けるような、ライラックカラー。ちょうどだいたい、一年前だったと思う。まだ凍えるほど寒いというのに、百貨店のコスメフロアは浮足だったように軽やかなカラーを続々と売り出す。その中の一つだった。繊細なパールがぎっしり詰め込まれているのに、肌にのせてもいやらしさはなく、じゅわっと滲むような艶。頬がほんのり色付いて、肌に透明感が生まれる、そんなカラー。

「チークって……あぁ、化粧品の話ですか」

お持ちのチークの上に重ねてニュアンスチェンジにも使えますよ。
化粧水を買いに行った際、そう紹介され、グッと心を掴まれた私は、予約がしたいと隙のないメイクを施した美しい店員に伝える。予約の定数を迎えていることを伝えられる。それならと発売日を確認する。次の金曜、開店時間の十時から販売開始。どう考えたって会社にいる時間だ。なんなら会議中であるような気までした。どうしよう、と困り果てる私に彼女はとても親切で、他店舗やオンラインでの予約を提案してくれたが、最中とても申し訳なさそうな表情だった。こうなることがわかっていたのだろう。家に戻る電車の中でオンライン。帰ってからいくつかの店舗に品番を伝え確認をしてみたが、彼女が提案の最初と最後に忠告してくれた通りの展開だった。
大変人気のカラーなのでもしかするとどこも予約を締め切っているかもしれません。
おっしゃる通りだった。これが予想できるなんて、彼女はとても仕事ができるらしい。

「ごめんなさい、一昨日の朝、割ってしまって」

早く終わったので会えませんか?
珍しい連絡だった。だいたい「悪い、仕事で遅くなるから会えない」なのに。私がチークを粉々にしてしまったことを知っているのだろうかと疑いたくなる。

「そうですか」

限定品のチークが欲しいけど手に入らなそうなんだよね。
こんなにどうでもいい話を銃兎さんにしたのは、なんでだっけ。なんで私はこんなにも他愛のない話を、関係を持って間もない銃兎さんに伝えたのだろうか。一応あれこれ考えてみたが、多分沈黙を、気まずさを埋めたかっただけだ。

「……そんな、泣きそうな顔で謝るほどのことですか?」

いまはもう、沈黙など気にならなくなった。銃兎さんは言葉数が多いわけではない。多分、私と楽しくおしゃべりがしたいわけでもない。そもそも、おしゃべりが好きなタイプでもない。一方私はおしゃべりは大好きだし、相手が意中の入間銃兎な訳だから、たくさん彼の声を、言葉を聞きたいが、つくりもののように美しい彼を前にすると驚きなのか、感動なのか、とにかく未だにどうしようもない感情に包まれて何も言えなくなる。

「だって」
「また買えばいいだろ」

よかったら部屋に来てください。
私も今から帰るので。
二つのメッセージ。何か買っていきましょうか?と提案したが、「私が適当に買って帰ります」とすぐに返事をくれたのでお言葉に甘えた。彼の部屋で向き合い、食事をした。彩の美しいデパ地下のお惣菜は豪勢で、当然ではあるので言うまでもないが、どれも味が良かった。半分くらい食べ進めたところで、切り出してみた。

「あれ、限定品なの。同じの売ってないんです」
「似たようなのがあるでしょう」
「そうかもしれないですけど……銃兎さんが買ってきてくれたのに」

あの、一年前の落胆した日からほんの数日後、彼と顔を合わせる機会があったので「私の最近あった悲しかった話、デパートのコスメ編」を話した。ふうん、そうですか、残念でしたね。そんな風に適当に相槌を打って聞いてくれた。彼に傾聴してもらい、私の心は多少穏やかになっていた。あの可愛らしい春色のチークの存在は心の隅に追いやって、また彼に会える日を楽しみにしながら日々を消化していた。まだ心が「充電してください」を訴える前に、その日はやってきた。金曜日、あのチークの発売日だということを、彼の右手にある紙袋を見て思い出した。今日、会議が始まる前に思い出し、あの無駄としか表現できない会合を恨んだが、それが済んでしまってもう、忘れていたのに。
なんで、と問うた。
銃兎さんは「ちょうど店舗の近くを通りかかったので」と告げた。
そんなわけはない。私が黙って、彼を見つめていると、ふっと、力なく笑う。

いけませんか?恋人が欲しいと思っているものをプレゼントして、喜んでもらいたいと思っては。

あ、どうしよう、嬉しい。私の様々な感情の中で「嬉しい」というそれがぶくぶくと膨らんで、あっという間に破裂したのがわかった。泣いてしまそうだった。唇を噛んで、首を横に振り、彼の発言を否定した。消えるような声で「いけなくないです」と「嬉しいです」と「ありがとうございます」を伝える。
銃兎さんは少し時間を置いて「そうですか、よかったです」と私に紙袋を渡すと、それだけで帰っていった。寄っていかないかと問う。そうしたいんですが、と私を見て、うんざりしたように言う。
仕事、抜けてきたんです。貴女と違って不真面目なので。でも戻ります、と。
その後で「おやすみ」と短く告げ、彼は冷たい空気に溶け込んでしまう。
よくよく調べたら、その日、そのブランドの店舗はどこも朝早くから行列で、開店時間に訪れたってお目当ての品を手に入れられなかったほどらしい。そして紙袋の中にはアイシャドウとリップも一緒に包まれていた。
一緒に発売するアイシャドウとリップも可愛いんですよね。でもあのチークを合わせて使いたかったから見送ったんですけど。
私は一生、この人のことが好きだろうな。
あの日、あの時、浅はかだがそう思った。そしてそれは一年経った今でも変わらずに抱いている感情だ。そんな私だ。銃兎さんが大好きな私だ。あのチークが割れてしまったのは、彼とのこの思い出が割れてしまったようで、本当に悲しかったのだ。

「わざとじゃないんでしょう?」
「でも、私がそそっかしいから」
「まあ、そそっかしいですよね、貴女は」
「ごめんなさい」
「いいって、謝るなよ」
「並んだでしょう?あの時」
「いや、たまたまですよ。近くを通って、そういえばそんなこと言ってたなと思い出して」
「あの日、関東の店舗、どこも行列だったんですよ」

SNSでちょっと調べればわかるんですよ、そういうの。東京の店舗じゃ買えないからって、ちょっと離れたところまで買いに行く人もいたくらいで、それでも買えなかったりして、トレンドに上がってたんですから。
しらを切る彼に付け足すと、表情がやや固くなった。あー……と、声にならない声で沈黙を埋め、言葉を探しているようだった。

「どうでしたかね、覚えてないです」
「私は覚えてるんです」
「そうですか」
「嬉しかったので」
「ナマエ、あの頃全然話さなかったろ」
「え?」
「何か言いたいことがあるような顔をするのに何も話さなかったんですよ。どうかしました?って俺が優しく聞いてやってんのに」

銃兎さんは嫌味っぽく言った。だから私も嫌味っぽく言ってやりたくなる。
貴方の美しさに恐れ慄いて何も言えなかったんですよ、と。
それは今もあまり変わっていないので黙っておく。何か発したら嫌われる気がして、言葉を発するのが怖いのだ。
沈黙は金なりっていうじゃないですか。言わぬが花も、口は災いの元ともいうくらいだし、とにかく黙っているのが安牌なんですよ。
そんなことを頭で思ったが、口にはしなかった。やっぱり「沈黙は金なり」だからだ。

「だから……なのに、急に話し出したから。普通の雑談を。どうにかしたいと思ったんですよね、何か、よほど重要なことなんだろうと思って」

そう、重要なことだったのだ。
あのチークを塗って、アイシャドウを使って、リップで彩って、会いたかったのだ。銃兎さんに会う時、少しでも可愛くいたくて、あれを使えば可愛くなれるような気がして、彼の隣に居る時に少しでも「お似合いだ」とー……少なくとも「なんであんな女が」と思われないように、私は自分を美しくしたかったのだ。今もその気持ちは持ち合わせているが、諦めに近い気持ちもあった。銃兎さんは美しすぎるから。私がいくら着飾っても、新しいコスメを、テクニックを取り入れてみても、何かが変わるわけではない。でもそうする方が安心できるのだ。そんな自分が、いじらしくて愛おしかったりもするのだ。

「先程の発言、訂正します。覚えていますよ。よく覚えています。こんなさみい日にあんなもんの為に朝早くから並びやがって、と思ったのも覚えています。女性たちから不審者を見るような視線が刺さったことも」
「それは銃兎さんが秀麗だからですよ、私も見ますもん、こんな人、近くにいたら」
「でも一番覚えているのは」

貴女の嬉しそうな顔ですね。
銃兎さんはそう言うと、言葉を続けた。

「部屋に寄ったでしょう、夜。あんな表情が見れるなら、あれくらいお安い御用です」
「……私、そんなに」
「嬉しそうでしたよ」
「それは、銃兎さんが」
「俺?」
「銃兎さんが、私のこと、恋人だって言ったから」

そんなこと言ったか?
それが届くんじゃないかと、恐ろしくて聞けなかった。私は一言一句、覚えている。あの時の光景は、だいたい一年経った今も鮮明に、飽きるほど、狂ったようにくり返し見たMVのように思い出せる。でも、銃兎さんにしたら、なんでもない言葉だったかもしれない。だから「あの時」のことは自分一人で楽しんでいた。キラキラとした、尊い思い出。たまに両手でそおっと持ち上げて、うっとり眺めて、安堵する。あのワンシーンは、私の宝物なのだ。

「……貴女、そんなことであんな感極まった顔してたんですか」

そんなことじゃない。大事なことなのだ。これ以上ないくらい、大切なことだ。

「チークじゃねえのかよ」
「チークも嬉しかったですよ。チークも、アイシャドウもリップも。この人、さぞかしモテるんだろうなって。でもあれが欲しかったのだって、銃兎さん、に……じゅうとさんに、」
「なんだよ」
「…………銃兎さんに、可愛いって思って欲しかったんです」
「可愛いだろ」
「え?」
「別に、何もしなくたって、私の可愛い恋人ですよ、貴女は」
「…………え?」
「……え?じゃねえよ、聞こえてんだろ」

苛立ったように銃兎さんが言う。煙草吸ってくる、とベランダに逃げてしまう。頬が赤い。あれくらいぽわっと、のぼせたようなチークも可愛いかもしれないな。そんなことを彼の大きな背中を見ながら思い、少しくらい飲んだらどうですか?と彼に勧められ、注がれたシャンパンで唇を濡らした。あぁ、どうしよう。また忘れられないワンシーンが増えてしまった。好きだな、どう考えても、私、あの人のことが好きだ。
酔っ払ったふりをして、追いかけていいだろうか。銃兎さん、私のこと可愛いと思ってるんですか?って、先人たちの有難いお言葉を無視して、面倒臭いこと聞きに行っても、いいだろうか。

2023/01/22