7周年 | ナノ
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帰ってもいいかな。
映画館のロビー。ひとり、マスクの中で小さく声にしてしまった。ため息もおまけでやってくる。
彼がお手洗いに立った今がチャンスでは?と思うが、自分の中の「まともな大人」が作用して、腰を上げることができない。よかった、まともで。いや、よくないが。
事情を端的に説明しようと思う。今日はマッチングアプリで約束をした男性と映画を観て食事をする予定だった。その予定はきちんと遂行され、私と彼は無事、顔を合わせたわけだが、私は動揺が隠せなかった。たぶん、この人、身長詐欺してる。ヒールを履いた私と目線がほぼ一緒だ。それだけならまだいい。服装。どこで買ったんだその服。いや、どこに売っているんだ。今日これから私たちはハイキングにでも行くのか?と問いたくなる大きなリュックサック。なんで?今日、映画観てカフェでお茶するだけだよね?財布あれば良くない?
そしてサッと外されたマスクの下。人のことを言えないかもしれないが、マスク詐欺もいいところだ。今後はプロフィール写真にマスクを外した写真がない人とはマッチングしないことにしよう、あぁ、いい勉強になったなぁ。
さあ、やばい、そんな悠長なことを考えている場合ではない。これはまずい。どうしよう、帰りたい。ものすごく、帰りたい。

「ナマエさん?」

恋人と別れ、恋人の溝は恋人でしか埋められないような気がして、それをスマートフォンに落とし込んだのが先月。たぶん、オーソドックスな手順を踏んで、今日がやってきた。こうやって顔を合わせたのはこれが人生で初めてだった。あぁ、こんなにも知能が必要なコンテンツなのか、マッチングアプリってのは。ちょっと舐めていたな。最近はこれをきっかけに出会い、交際に至る男女が多いらしいが、正気の沙汰じゃないと思った。私はもう、今回のこの件でかなり、心身ともにやさぐれていた。

「なにしてるの?」
「……まつかわくん」

アプリを覗いていると、確かに比喩でもなんでもなく、男は星の数ほどいると思った。この世にある星の数、幾つか知らないが。八千億とかだったらどうしよう。
でも、いないんだよなぁ。いま私の目の前に現れたメサイアのような男性って、あのアプリの中にはいない。どんなに探したって、きっと、いない。可愛い彼女がいるからだ。もしくは、あんなものに頼る必要がないから。放っておかないのだ、世の中の女たちが。

「え、なに?だいじょうぶ?」

私が困窮していることを目元と声色だけで察したのだろう。お心遣いありがとうございます。

「ねえ、どう思う?」
「……なにが?」

私は事情を掻い摘んで話す。そろそろ彼がお手洗いから戻ってくるかもしれない。どうか混んでますように、並んでますように。真剣に、真面目に祈る。

「あはは。なに、大変なんだね」
「笑い事じゃないんだけど……」
「いいでしょ、帰って」
「でも……なんか、大人として……いや、人としてどうかと思って。あと映画は普通に観たかったやつだし、この週末で公開終わっちゃうし」

一通り話を理解してくれた松川くんは目をくしゃっと細め、楽しそうに笑っていた。他人事だと思って、と不貞腐れて言う。彼は職場の先輩だった。私は一昨年、転職した。そこにいたのが松川くんだ。私よりも年齢は下だが持ち合わせた雰囲気も話し方も顔立ちも大人っぽい人だった。キチンと仕事はこなすが、力の抜きどころを知っているのかサボるのも上手だった。それでも仕事の教え方は丁寧で、特に女の子に優しい。そんな人だった。

「そしたら、こうしません?」

俺と映画観ることにしましょうよ。それ、次の回もあるでしょう?俺もそれ、観ようと思ってたんです。これからナマエさんが入る予定の回にしようか迷ったんですけど、買い物もしたくて。ちょっとこの辺ふらっとして飯食ってからもう一個後のヤツで観ようと思ってて。

「どう?」
「どう、って」

思ってもみない提案に面食らう。松川くんは「早くしないと戻ってきちゃうよ、その人」と私を急かす。

「何がだめ?俺?」
「ちがっ……それは、ぜんぜん、」
「じゃあいいじゃないですか、付き合ってくださいよ」

その言い方、ずるい。私がいま立ち上がらないと、ここから去らないと、松川くんの誘いを断ったみたいじゃない。
葛藤はあったが、ソファに張り付いていた腰を無理やり自分で引き剥がし、エントランスへ向かう。隣には身長を盛る必要なんてない、スタイルのいい男。

「めっちゃ困ってるんじゃないですか、お相手」
「っ、やっぱり、」
「ナマエさんのこと探し回ってるかも」
「……戻った方がいいよね?それか、」
「えぇ、俺を一人にするんですか?」
「……そういえば、松川くん今日一人なの?」
「一人ですよ、寂しい男なんです」

どこがだ、と思う。貴方は自ら「ひとり」を選択しているだけじゃないか。「ひとり」しか選択できない私とは違うじゃないか。

「まずいよね、やっぱり」

私って私が思うより善人らしい。スマホ片手に、未だ彼のことを考えている。彼の言う通り、あの人はロビーで私を探し回るのだろうか。映画の上映まであと十分だ。

「ブロックでよくないですか?ナシだったんでしょ?」
「……ナシでした」
「ナマエさんマッチングアプリとかやるんですね。意外」
「言っておくけど初めてだからね、使ったの」
「あぁそうなの。あのね、そんな真剣にならないで、違うなーと思ったら適当にブロックしておけばいいんですよ、マッチングアプリなんて。女性は尚更。男なんて山ほどいますから」

スマホ触っていいですか?
松川くんが私に問う。アプリを開くよう言われる。指先で操って、パパッと彼をブロックする。ざわざわしていた心が落ち着く。もう連絡を取りたくてもあの人とは繋がることができないのだ。なんというか、凄い時代になったもんだ。

「それはそうなんだけど」
「ナマエさんなんて綺麗なんだから、こんなの使わなくたって引く手数多でしょう。親切だし、上品で」

彼が私を褒めた。久しぶりのデートだから、朝からパックなんかしちゃっていつもよりもコンディションの良い肌に「諭吉ファンデーション」なんて品のないあだ名を付けられた一万円越えのファンデーションを塗布する。真っ赤な練りチークは手の甲で濃淡を慎重に調節した後で極薄く頬にのせた。じわっと滲んだ血色感が綺麗でお気に入りなのだ。面倒だし指先が汚れるので、普段はほぼ、出番がないが。手持ちのアイシャドウを頭の中で思い浮かべ、誰に頑張ってもらおうか吟味する。昨日クローゼットから取り出しておいたワンピースは誰からも嫌われないであろう無難で、落ち着いた品の良いベージュだ。瞼に何色を使ったって馴染むだろうから余計に悩む。友人から誕生日プレゼントに貰ったブラックのパッケージのそれに手が伸びた。ザ・王道の上品なパレットだ。チョコレートのようなブラウンはほんの僅かをアイラインのように。パールが美しいコーラルカラーを瞼全体にふわっとのせた。大好きなザクザクとしたらラメを瞼の中央に足したかったが、一応、今日はやめておく。男の人、こういうの嫌いそうだし。代わりに、目頭にハイライトをちょこっとのせる。光が集まって可愛いのだ。マスカラはブラウン、アイラインもブラウンで弱い私を演出する。どうせマスクを付けるし、とサボりがちな口紅だが、今日はベースを塗って、リップライナーで輪郭を整え、落ちにくいとバズったリップをリップブラシで丁寧に。
そうやって、時間を掛けた私だ。それを職場の色男が称賛した。擽ったい。満たされる。

「普段もお綺麗ですけど、今日は特に。いっしゅん、声掛けるの躊躇いました」

浮かぶような感覚にハッとして、否定をする。

「そんなことないよ、このザマだし」
「あはは、そうね、見る目はないかもしれないけど」
「……松川くんは、使わないでしょう?マッチングアプリなんて」
「はい、まだ使ったことないですけど」

ナマエさんがやってるなら俺もやろうかな。
いやいや、貴方ような色男には必要ないでしょう。そんなことしなくたって女の子、夏の街灯に群がる害虫のように、いや、それ以上に激しく寄ってたかるでしょう?
そう伝えようとする前に、彼が言葉を続けた。

「ナマエさんとデートできるんでしょ?」

思っても見ない角度からの言葉に狼狽え、なにも反応できずにいる。

「ていうか、恋人いませんでしたっけ?別れちゃったんですか?」

もっと早く教えてくださいよって、彼が言う。
えぇ、ちょっと、なに?なに、なに、なに。
思わず足が止まる。ぼおっと彼を見つめる。いったい何を言われているのかわからない。もちろん、理解もできない。あと八回、ゆっくり伝えてもらえればわかるような気がしないでもない。

「え、ナマエさん、俺がナマエさんのこと好きって知らなかったんですか?俺、めちゃくちゃ職場の人に聞かれるんですけど。好きなんでしょ?バレバレだよって」

そんなことはお構いなしで、松川くんは私の顔を覗き込み、続けて言う。相変わらず何を言っているのか、やっぱり全く、全然理解できない。

「ナマエさん?ねえ、聞いてる?」

さっきまでマスク着用のこの情勢を恨んだが、やっぱりこの世界でよかった。いま私、たぶん、頬は真っ赤で、口元は緩んでいて、少なくともこの目の前の色男には見せられないような、凄い表情をしてるから。

2023/02/11