新開隼人 | ナノ
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約束の時間に約束の場所へ行くと彼がいて、つまり、それは、私を待っているということで。その事実がなまえは信じられなかった。こうやって待ち合わせ場所にたどり着いたと言うのに、まだ理解しかねるのだ。あの、主任だ。フロアの女全員から色目を使われているあの男が待っている。まだあと10分も早いのに、なまえのことを、私のことを、待っている。

「なぁ、手、繋いでもいい?」

帰り道、突然の提案になまえは面食らっていた。こちらは二時間、この色男と対面して小洒落た料理を胃に収めた訳だが、何を口にしたのかなんてほとんど、いや、全く覚えていない。アルコールのせいじゃない。だってほとんど飲んでいないから。単純に、とても、緊張していたからだ。どの瞬間を切り取っても目の前の男はこれでもかと美しく、なまえをどんどん引き込んでいく。わかっていることだった。新開はとても華やかな顔立ちで、自分はもちろん、大半の女たちを魅了する。そんなことは、この部署に移動してきた頃からずっと、わかってはいた。もっと言えば移動して来る前からわかっていた。そう、わかっていても引き込まれるものだし、耐えられないとも思う。なまえだってちゃんと、綺麗な女だ。三日前には急遽予約を入れた美容院に駆け込んでいつもよりも値の張るトリートメントで髪を潤わせ、給料日前だというのにダークグレーのタイトスカートをカード一括で購入した。来月の支払いはどうするのかって?だって、レースが緻密で、身体のラインが綺麗に見えて、とても気に入ったのだから仕方ないとだけ、コメントを出しておこう。ノースリーブのトップスは薄手のカーディガンとセットだが、まだ日中の暑さが抜けない今時期に羽織は不要。剥き出しになる二の腕は昨晩たっぷりとボディクリームを塗り込んだおかげで、とてもふっくらとしているから嬉しくなる。

「え?」
「手、」
「…いやです」

新開はもう、ちゃんと大人だった。順番を知っている。好きだ、なんてほざくのは簡単だし、何人もの女に何度も言い放った言葉なので恥ずかしさもない。ただ、いきなりぶつけられても困るだろうと、今日という日を設けているのだ。好きだよと、そうアピールをする時間だ。食事をとったのはちゃんと雰囲気のいいレストランで、ほどほどのカジュアルさもあり、それなりに浮かれた男女が蔓延っている。もちろん、自分たちも含め、だ。会話はよくあるものだった。仕事の話はそこそこに、休日の過ごし方とか、学生の頃の話とか…恋愛の話もしてみたが、なまえはあまり多くを話してはくれなかった。新開が朗らかに話すのを、女が楽しげに聞いている、という時間が多かった。言うまでもないが、なまえはやっぱり、何を話したのかほとんど記憶にない。

「なんで?」
「なんでって、」
「だめ?」

6センチのポインテッドトゥ。つま先が少々痛むがほんの少しでも新開に近付く為ならなんでもない代償である。いつもに比べれば縮まった身長差だが、微々たるものだ。顔を覗き込まれたかと思えば、すでに右手と左手は触れ合っている。何のための言葉のやり取りだったのか、新開にとってもなまえにとっても愚問であることに違いない。だって、ずっと、ずうっと、こうしたいと思っていたのだから。雨に振られたあの日も、新開が発熱したあの時も、昨日も、ずっと。手なんかつないで何がどうなるというのだ。もう二人はとうの昔に、いつの間にか大人になっていて、こんなことじゃたじろいだりしないはずなのに。

「主任、近いです、顔」
「ん?」

一時間ほど鏡と向き合って、いつもの何倍も丁寧に化粧をしたから、顔を覗き込まれたって平気…なんてことはなく。見ないで、と思うのは単純に恥ずかしいからか、それともこの美しい男に引け目みたいなものを感じるからか、とにかくそんなことを考える余裕もない。

「主任、」
「いや?」

アイシャドウはグレイッシュなブラウンを薄く透けるように、瞼と溶け合うようにのせてマスカラはサラリと。チークを耳にもほんのり塗ってやると可愛らしく見えるらしいが、それはいったいどこの誰が言い出したことなのだろうか。縋るような気持ちで実践したものの、新開を前にした瞬間にそれが無意味なことに気付くし、こうやって繋がった今、女の耳は熱湯でも浴びせたかのように真っ赤だった。先ほどの店で塗り直したグロスのおかげで艶やかな唇は、複雑すぎる心境のせいか、思うように動いてくれない。

「嫌とか、そういうことじゃなくて」
「そういうことじゃないのか」

男の視線の先には困り果てる女がいて、新開はこの辺で解放してやるべきなのか、もう少し欲をぶつけていいものか頭を悩ませる。嫌ではないらしい。頬が赤いのは舐めるほどの量しか摂取していないアルコールのせいか、疎い自分でも気付くいつもと違う雰囲気の化粧のせいか、はたまた自分が作用しているのか。色々ごちゃごちゃ考えつつ、女から何も言葉が返ってこないので、考察をするのがやや面倒になり、何となく、なまえの柔らかな手をぎゅっと、数度握って、ほどいて、絡める。新開の骨張ったごつい指と、しっとりとしたなまえの指がじゅっぽん、やっと、絡み合う。

「しんかいさん、」

たった、それだけのことだ。何度も言うが、二人は中学生じゃない。手なんか繋いだって何も起こらないはずなのに。漸く知った女の肌の柔さに新開はとても満足していたし、離したくなどないし。

「ん?なに?」
「…あの、」
「いやじゃない?」
「嫌ではないんですけど」

ぞくぞくぞくっと、身体が反応してしまう。力が全く入らなくて、新開の熱だけはこれでもかと伝わってきて、全身がぼこぼこ、煮えたぎるように熱い。やっぱり、どう考えたってカーディガンなんて不要だった。八月の末の夜、決して汗ばむような気温ではないのに、じわりと火照って、繋がっているところはじんじんと、痛いくらいで。

「こうしててもいい?」

いちいち、こちらを覗き込まないでほしいと、なまえはひたすらにそう思うのだが、新開としては何とも可愛らしい女の表情を見逃したくないから。しばらく触れ合っている指先のせいでほとんど仕事をしなくなったなまえの海馬では正常な判断が下せず、向けられる視線に反応してしまう。見たらだめだと、そんなことは考えなくたって本能的にわかるはずなのに、もう完全に、どうかしてるのだ。

「やっとこっち見た、」

パチン、と合った視線。男の大きな瞳は、一度捕らえたら離してはくれないし、なまえもそろそろ、離れられそうにもない。そんなどうしようもない熱を抱え込んだ女の目に我慢とか、理性とか、そういう類のものは全て捨ててもいいんじゃないかと新開は思って、繋がった指先に今一度力を込めて言う。好きだって、とても穏やかに言う。言った後に気付いたが、結構恥ずかしいものだった。こんなの全然、なんともないと思っていたのに照れくさくて、悟られたくはなくて、どうにか自分を繕って何度か言うが、やっぱりどうも恥ずかしい。それでも新開は言う。溢れて止まらないのだ。いいや、やっと、止めなくていいのだ。だいたい、それは別に誰の許可を得たわけでもないから、こちらの勝手な判断でしかないが、もう塞きとめることなど、できるはずもなく。

「好きなんだ」
「新開さん、あの」
「ねぇ、好き」
「わかりましたから…」
「わかってねぇだろ」
「一回言われればわかります、」
「俺も一回言われればわかるんだけど」
「…うそつき、」

言わなくたってわかってるくせに。そう言ってなまえは、新開が手を握ってきたあたりからほとんど動いていなかった駅に向かう足を完全に止めた。さてこれからどこに向かうべきなんだろうか。お互いの力がぎゅうぎゅうと込められた手をほどくには、まだちょっと、早い気がするのだ。

2018/10/02