新開隼人 | ナノ
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駅に到着した頃、漸く二人の手は、ほろほろと解けた。正直に言うとまだ離したくないのは当たり前なのだが、ガヤガヤとした雰囲気と昼も夜も変わらない明るさになまえはもちろん、怖気付いていた。終電の時間はまだほど遠く、帰りたくなどない二人は、コーヒーショップでたいして飲みたくもないアイスコーヒーを口にする。何をどうしたらいいのかわからないー…ということもないのだが、声に出せないのだ。これからどうしたいのか、新開もなまえも同じことを思っているというのに、果たして相手も同じことを考えているのだろうかと、そんなことばかり気にしてこの、あと一歩が踏み出せない。焦ったさに苛立って早くしろよと囃し立てたくもなるが、「お互いに気があるみたいだし、デートも食事もしたし、ホテルにでも行ってセックスしますか」と。その正直な心境をこの場で発言するのはムード不足だし、そもそも大人としての配慮が欠けている気がするので、二人のこの状況は理解できなくもない。

「さっきの話なんだけど」

沈黙を破ったのは新開だ。もうほとんど酔っ払っていない女はゆっくり、彼の方に視線を。繋がっていた手の熱さが、まだ身体中に蔓延っている。

「好きだから、みょうじさんのこと」

何度か言われている言葉だが、ヘリウムガスでも注入されているのだろうか。ふわふわと浮かんで飛んでいってしまうのだ。なまえの中に留まることなく、遠くへいってしまう。新開に問題があるわけじゃない。なまえは信じられないのだ。新開が自分のことを好きになるだなんて、そんなの、信じられるはずがなくて。

「なんで、ですか」
「ん?」
「なんで私なんですか」

なまえは言うまでもなく、新開のことが好きだった。もっと言うのならば、大好きなのだ。言葉にするのは簡単だが、じゃあ仮に恋人同士になったとして、一体それで、何をどうすると言うのだ。彼は職場の上司で、そうなったとしたらこれは社内恋愛な訳で、じゃあ行き過ぎた話だが結婚するとしたら?周りの反応など、想像しなくともわかる。自分と新開主任が、釣り合うはずなどない。彼は“みんなの”新開主任なのだ。独り占めなんてしたらあの、元々ほとんど居場所のないオフィスで息ができなくなる。こうやってアイスコーヒーを飲んでいる今だって、誰かに見られたりしたらどう言い訳したらいいのだろうか。だいたい、言い訳する猶予を与えてもらえるのかさえ疑問だ。すぐさま処刑されてもおかしくない。

「好きになるのに理由って必要?みょうじさんが何か挙げろって言うなら何個か言うけど」

まずー…なんて、新開がなにか続けて話そうとしたので、女は黙っているわけにはいかず、よくある恋愛ドラマみたいな一言を。とてもじゃないが恥ずかしくて聞いていられない。

「主任には、わかんないですよ」
「私の気持ちなんてー、って?」
「…バカにしてます?」
「ごめんごめん、そうじゃなくて」
「もうやめてください、これ以上、」

好きにさせないでください。なまえの、こんな言葉を聞いたら。この男にブレーキを踏む理由などなくなる訳で。残り少ない黒い液体を飲み干し、騒がしい心臓にうんざりしながら、精一杯格好つけて女を誘う。都合のいい状況ではない。電車はまだまだたくさん走っているし、雨に降られた訳でもない。知り合いに貰った上等なワインは先日一人で飲み干してしまった。まっすぐに、言うしかないのだ。口実はない、君と一緒に居たいって、それだけでごめん。

「ごめん、今日、帰したくない」

女の表情を気にしながら、新開はそう告げた。とても優しい彼女のことだ。こちらの意見を尊重してくれるのは嬉しいが、それによって好きな女を苦しめることはしたくない。いまの言葉を耳にした女は、何か言いたそうにしているような気がして、黙っておく。艶々とした唇が、ゆっくり、戸惑いながら開いて、閉じて、紡いで。

「私で、いいんですか、」
「うん、みょうじさんがいい」
「…新開さん、」
「みょうじさんのことが好きなんだ。悪い、しつこくて…、迷惑だったら、」
「迷惑なんて、そんな」
「でも、困ってるだろ?」

困ってなどいない。なまえはただ、少し前の自分には想像もし得ない状況になっている今が、どうやっても信じられなくて。本当に、いいのだろうか。ただの職場の後輩。それだって自分には勿体無いくらいだった。誰もが目を奪われるようないい男が直属の上司なのだ。おはよう、お疲れって、そう言葉を交わせるだけで、それで充分、贅沢だったのに。

「帰りたくないです、わたし、」

相変わらず周囲はとても喧しいのに、か細い女の声がやたらクリアに聞こえた。新開はたくさん恋愛をしてきて、そのてっぺんを把握していたはずだった。ドキドキすることなんてもうめっきりなくなっていたのに、この女に恋をしてから、このザマだ。こんなの、どうしたらいいのか検討もつかない。羞恥心からか緊張からか、俯いて半分泣いている女を抱きしめたくて仕方ないが、まだそうするには少し早い。出ようか、と短く告げて女の小さな手を包む。

「俺の家でいい?」

特に用のなかったカフェを出る。ぐしぐし鼻を啜っているなまえは、新開に手を引かれるがままだ。言葉は聞こえているようで何度か首を縦に動かす、電車?そんなもの待っていられない。まだ比較的空いているタクシー乗り場。一台がちょうど、ロータリーにやってくる。乗り込んで、行き先を告げて、二人の手はずっと繋がっていて。

「主任、」
「ん?」

女の声のボリュームがまたひとつ絞られたような気がした。狭い車内、運転手もいるからだろう。聞き逃したくないので、元々遠くはなかった彼女との距離を詰め、耳を近付ける。まだ弱く泣いていているせいか唇はぽそぽそとしか動かず、微かに音が聞こえるがワードが聞き取れない。震える声で、何か伝えようと必死なのは汲み取ってやれるので、新開はなるべく柔和な声で聴き返す。

「ごめん、なに?」
「すきです、すき、主任のこと、」

ずっと欲しかった言葉が突然降ってきたので、驚いてパッと、女の目を見てしまう。しっとり濡れた瞳が自分を捉えていて、ブワッと、込み上げるものを押さえ込むのに集中せねばならない。車内には明日の天気予報を伝えるラジオがちょうどいい音量で流れている。彼女の前では紳士な上司でいようと思ったのに、なんでこう、乱されなくてはならないのだ。漏れ出した衝動から、先ほど大役を終えた唇に触れる。塗られていたグロスが男の指に付着し、女の唇はほとんど、裸になっていた。なまえは突然のことに身を強張らせ、俯いて、でも新開からはもう逃げられないし、逃してももらえないし。

「…なんでいま言うかな」

それから新開は、タクシーの中で欲を抑え込むので必死だった。数年前の自分なら人目など憚らなかったからこの場ですぐに唇を重ねていたはずだ。いや、時の流れの問題でもないのかもしれない。相手がなまえだからだろう。そんなことしたらちょっと、突き飛ばされそうでもあるし。仕方がないので繋ぎっぱなしの手をぎゅうぎゅうと握る。こういう時に限って、道は渋滞しているし信号には次々と引っかかるし、そんなこんなで、なかなか目的地に着いてくれないのだ。世知辛い世の中である。

2018/10/26