新開隼人 | ナノ
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「主任、もう大丈夫なんですか?」
「あぁ、うん、大丈夫。悪いな、心配かけて」
「お忙しいですか?私たち何かできます?」
「いや、平気だよ。みんなも忙しいのにありがとう、大したことないんだ、本当に」

新開が出社した途端、煌びやかな女たちはあっという間に彼に駆け寄って次々に、可愛い声で呼びかける。大丈夫ですか、心配しました、ちゃんと食べてますかって、数えきれない優しさをプレゼント。これが以前この部署を仕切っていた新開の倍近い年齢の、草臥れたあの男だったらどうだったろうか。悲しくなるので想像するのはやめておこう。

「何か変わったことはない?大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「それならよかった。みんな悪かったな、ありがとう」

にこりと微笑む男のせいで、女どもからビビットなピンク色のハートマークが舞い踊る。彼女たちは「ここはなんて素晴らしい職場だろう!」と感動せざるを得ない。今日も一日頑張っちゃおうと、あからさまに張り切っている。昨日とは比べものにならないテンションだ。
新開はわかっていた。女たちは自分が柔らかく笑いかけてやれば大抵のことは許してくれるし、こちらの要望以上のことを自ら進んでやってくれることを、もう随分前に心得ている。それが仕事で役立つならそれは素晴らしいことだと割り切っているわけだが、正直なんと言うか、はっきり言ってしまえば、そこに対する感情は無なわけで。彼女たちが自分に色目を使ってきたとしても、心や欲が動かされることなどあるはずもない。

「…おはようございます」
「あぁ、おはよう」

昨日はありがとう、本当助かった。
そう付け足したかったが、まつ毛を扇のように美しくカールさせている女たちの聴力を恐れ、飲み込んでおく。昨日、なまえは家に着いた後、新開の言いつけ通り彼に一報をした訳だが、短い文章を送るや否や、着信。早く休んでくださいという意見は一刀両断され、しばらくそのまま、お互いの声を耳にたっぷりと浴びせてやる。うっとりと微睡んだ素晴らしい時間。新開は電波でつながっているこの地味な女を一刻も早く自分の彼女にしたくて堪らなくて、やっぱり帰さなきゃよかったって、後悔みたいなこともしていて。

「話せる?」

何でいつもここなんだろうか。なまえは疑問に思っていた。新開がチラチラ、こちらを見ているのには始業早々気付いていた。終わらせなければならない仕事があるのだからやめてほしい。恥ずかしくて、くすぐったくて、集中できないから。ファックスを送るためにコピー機の前、周りに人はいない。今日は金曜日、そう、約束の日だ。一昨日…になるだろうか、ここで、このコピー機の前で新開に言われた台詞を、毎夜、眠る前、ベッドの中で思い出さずにはいられない。冗談に決まっていると言い聞かせているのに、勝手に嬉しくなってもだもだと考え込んでしまうのだ。

「昨日はありがとう」

話せる?という問いになまえは何も答えなかったが、新開は勝手に話し始めたし、なまえもそれについて何とも思わなかった。ただ、周りに気付かれやしないかとハラハラするもので。

「いま、5分だけいい?」
「…だい、じょうぶです」
「資料室にしよう。先に行ってるから、数分時間置いて来て」

新開は彼女とこうして、コソコソやっていることがあの女どもに周知されたところで困りはしなかったが、万が一のことがあった時に一番被害を受けるのがなまえだとわかっているから、少し離れた狭苦しい部屋に彼女を呼びつける。左手に巻きつけた腕時計の長針が数ミリ動いた頃、扉がゆっくり、開いた。

「お疲れ。悪いな、忙しいのに」
「…いえ、」
「今日なんだけど」
「あの、それなんですけど」

狭い部屋だ。資料室と言う名の物置。三畳から四畳ほどの広さだろう。そこに無機質なラックと何年もページを捲られていないであろうぶ厚い本、背中がボロボロになったファイル。小さな窓から光が降り注ぐが、全体的に埃っぽくて居心地がいいとは言えない。

「あの、新開さん、体調崩されたばかりですし、安静にしていた方がいいかと、」
「え?」
「今日だって、本当は来て欲しくなかったです、昨日あんなに辛そうだったから」
「…電話でも言ったけど、もうすっかりいいんだ、本当に」
「それはそうかもしれないですけど、でも、心配なんです。またあぁなったら大変じゃないですか、それに」

新開さん、私のこと頼ってくれないし。
声は文末に近付くとキュッと絞られ、殆ど聞き取れないような声量だった。

「頼ってるだろ」
「私が連絡してなかったら?」
「え?」
「私が昨日、連絡してなかったら…新開さん、あのまま病院も行かずに使用期限切れた薬飲んで何も食べずに寝てましたよね?」

こんなことが言いたい訳じゃなかったし、今日を楽しみにしていたのに、自分の声帯からは可愛げのない声色で思ってもみない言葉が勢いよく飛び出してくる。今朝のあの光景のせいだろうか。見たくないのに、自分よりもずっと美しく気高い女たちが、彼のそばに寄って心配してましたって、そう思ったことを真っ直ぐに口にしているのが羨ましくて、妬ましくて、それにぽかぽかと暖かく言葉を返す新開を見ていると、何を逆上せているんだと、情けなくなったりもして。
目の前の色男は新開隼人なのだ。あの、社内にいる人間なら誰でも知っているほどのいい男で、その男が、自分のような地味な女と2人で食事なんて、やっぱり冷静に考えたら、どうかしているわけで。

「じゃあ明日は?」

そんな醜い心境のなまえのことなんて、放ったらかしの一言。女はわけがわからず、彼から発せられた言葉をそのまま繰り返す他ない。

「明日?」
「土曜日。確かにみょうじさんにうつしても悪いし、今日は大人しくしてるからさ。だめかな、土曜に、デート」
「デートって…」

新開はある程度、わかっている。状況が少し複雑なのは理解しているし、この類の、女からの嫉妬的なものが一番ややこしいことも知っているが、何てったって、自分が好きなのは目の前のこの、可愛げのたっぷり詰まった女だけなのだ。何が何でも、会社の外で、2人きりで、周りなど気にせずに過ごしたい。だってもう何度も我慢しているのだ。昨晩なんていい例だろう。どう考えたってあのまま部屋で熱があることを理由にしたりしてどうにかベッドになだれ込むべきだった。なのに、何もしなかったのだ。何も、しなかった。自分で自分に感心するレベルである。

「迷惑?」
「迷惑とかじゃ、」
「ごめんな、せっかく今夜予定空けてもらったのに。今日はみょうじさんの言う通りにする。だから、土曜日はだめか?」

もうすっかり、新開のペースだった。だって、いつもよりも2人の距離は近いし、それはいつの間にか、この僅かなやり取りの中で新開がじりじりと縮めたもので、なまえは完全に、飲み込まれてしまっている。言うまでもないが、もうとっくに、新開の目を見ることなんて出来なくなっていて。

「なぁ、みょうじさんの週末、俺にくれよ」

とどめにそう言われてしまえばなまえに残された選択肢などひとつ。首を縦に振ること。それ以外存在しなかった。やった、と喜ぶ新開にまた嬉しくなっている自分がいて、うんざりするが、天秤にかければ完全に、嬉しいに分配が上がるのだ。

「今日行こうと思ってた店が…みょうじさんと一緒に行きたい店がディナーだけなんだ。明日の18時頃に待ち合わせられるか?詳しいことはまた連絡するから」
「…はい、わかりました」
「ありがとう。ごめんな、いつも俺、振り回してばっかりだ」
「振り回してるなんて、そんな」
「みょうじさん先に戻って。俺もすぐ戻るから」
「いえ、あの…あと、これ…昨日ありがとうございました、返します」

もう、終業までずっとこうして、この古ぼけた部屋で2人で過ごしたいと、新開も、勿論なまえもそう思ったりするがそんなことは許されない。そろそろ戻らないといけない。周りをよく見ているあの女たちが掻き集められた部署だ。長くこうしていることはあまり利口とは言えない。

「何?手紙?」
「タクシー代、」

なまえが新開に差し出した白い封筒には、昨日、彼に無理やり握らされた現金のお釣りがきっちり入れられている。まさか、返されるとは思ってもみなかったので先ほどの余裕のある声とは全く異なる、焦ったような、驚いたような声がこの、狭い部屋によく響く。

「はぁ?いいってそんなの」
「よくないです、」
「ほら、色々買ってきてもらったし」
「それは私が勝手に買ったものですし、なお言えばそれを足したとしても多すぎます」
「今日だって急に予定もずらしてもらったし」
「いいんです、いいから…受け取ってください」

早く戻らないといけないし、と女は付け足すが、新開はどうも、それを受け取る気になどならなかった。だって本当は、呼んではいけなかったのだ。それを自分の我儘で呼びつけて、食事まで用意させて…。なのになまえは一歩も引こうとせず、それを受け取ろうとしない新開に対して、強気にこんなことを言い出すものだから。

「…受け取ってくださらないのなら、今の…明日の約束はなかったことにしてください。受け取ってくださるのなら明日ご一緒します」

そんな有無を言わせぬ提案をされたら、新開に残された選択肢はひとつ。溜息を吐きながら女の手にあったものを自分の手に。にこりと笑う彼女を見て苦笑してしまう。何と言うか、敵わないと思うし、満足げに頭を下げてくるりと背を向け出て行こうとするし、ちょっと待ってくれと、声に出さずにはいられない。やられっぱなしは、性に合わないのだ。

「っ、」

掴まれたなまえの右手首。新開はそのまま自分の腕に力を込めて衝動的に女を引き寄せ、後ろから抱き締めてしまいたかったが、そうしてはいけないような気もして、掴んだその手をパッと解放する。だいたい、そもそも、彼女は自分を好いているのだろうか。確信もないのにそんなことをしてはいけないと、そう瞬時に判断して、引き寄せることもぎゅっと包み込むこともしないでおく。キョトンとする彼女に一言、ずるいなって、それだけ言うと女はもっと、目をまあるくして。

「…主任の方が、ずっとずるいです」

色男に掻き乱されてばかりの女はもう、たまったもんじゃなかった。重い扉を開けて、閉めて、来た道を戻る。もちろん、振り返ったりしない。一瞬、掴まれた手首。じんじんと残る男の熱に蝕まれていく。この間、あんなこと言ったくせに。あの状況で手首掴んで終わりって、ちょっと…いや、かなり拍子抜けだ。なんかあるんじゃないかって、期待して、もしかしたらって。そう思ってしまったじゃないか。

2018/08/23