新開隼人 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
約束の前日、始業時間、新開の姿はなく、なまえは困惑していた。体調不良らしいよ、という噂はすでに充満している。ついでに「大丈夫かなぁ」と色男を心配する声もセットで聞こえてきた。もちろんなまえも同様の気持ちを抱いているので、スマートフォンの中に記憶されている、昨日教えてもらったばかりの、憧れの上司の連絡先と睨めっこする。だが、もちろん、こちらからアクションを起こすことなどできず。一人暮らし…だろう、食べるものは家に常備されているのだろうか。医者には行ったのだろうか。そもそも彼が体調を崩しているのはあの、雨の日のせいなのではないだろうか。悶々と考え込んだ末、駅に着いた時に彼のYシャツがぐっしょり、濡れていたのを思い出したら短い文章を送ってしまった。昼休み、随分思い悩んだが、結局「おはようございます、体調いかがですか?」というつまらないとしか言いようがない単語の羅列だ。返事がこないことに不安は募るばかりで、電話をしてみようかとも悩んだが、眠っているところだったらどうしようかと、余計なのかなんなのかよくわからない気を遣ってしまい、そうするには至らず。結局就業の時間になった頃にようやく、返信。大丈夫だよって、それだけ。

「もしもし?」

自分のせいだと、そう謝りたかったってそれは、電話をかけて男の声を聞く口実になるのだろうか。なまえは勢いのままに電話をかけた。返事がきてまだ15分ほどしか経っていない。若干中途半端ではあるが仕事を追いやってお疲れ様でしたとオフィスを後にする。駅に着く少し前に発信ボタンを押せば、ツーコールで新開に繋がる。

「っ、あ、新開さん…お疲れ様です、みょうじです」
「お疲れ、仕事終わった?」
「はい、今…あの、具合、どうですか」
「ん?あぁ、」
「今日、体調優れなくてお休みしてるって、」
「あぁ、うん。大丈夫、寝てれば治るだろ」
「…病院、行きました?」
「いや、」
「ご飯は?」

あはは、と。まさに苦笑、という感じで電話の先の男は笑う。熱のせいか珍しく食欲もないし、そもそも自宅の冷蔵庫には日頃からほとんど、食べ物は保管されていない。今現在そこには水とアルコールが数本、入っているくらいだろう、ここのところ外食ばかりだ。キッチンをしっかりと使用したのは随分前に家に上がり込んできたあの女が最後。湯を沸かすことくらいはあるが、自身が料理をすると言う目的で利用したとなると、もう遡ることさえ面倒に感じるのでいちいち考えたりしない。そんな生活を送っている日々なので、何も胃に入れず、しばらく眠っていれば治るだろうと、いつ頃購入したのかサッパリ思い出せない常備薬を服用し、今の今までベッドの中だった訳だ。こうやってなまえと話していると気付く。腹も減っているし喉も渇いている、と。

「主任、」
「怒らないでくれよ」
「怒ってないです」
「大丈夫だから、ただの風邪だし」
「あの、私、行きます」
「え?」
「迷惑ですか?」
「いや、迷惑というか」
「迷惑でないなら、行きます。何か食べられそうですか?」

あのなまえが、自分の言葉を遮るように問うので、新開は少々面食らっていた。大人しいと思っていた彼女が連絡を寄越した時点で驚いた…というか、意外ではあったが、弱っている時に好きな女の声が聞けたのだ。久しぶりに体調を崩してしまったが、案外悪くないかもしれないと、そんな呑気なことを考えていたのに、なまえの真剣な声を聞くと申し訳なくなってくる。

「新開さん?」

本来、言わなければならないのだ。絶対に、そうしなければならない。うつると悪いから来るなと、そう伝えなければならないのに、会いたいというその単純な感情が先に声となって電話の向こう側の女に届く。

「食べ、られる…かな、」
「苦手なものとかあります?あと、住所送っていただけますか?一旦切るので…着く頃にまた掛けます、辛かったら寝ててくださいね」
「…大丈夫、」
「何か必要なものあります?」
「いや、…ごめんな」
「え?」
「ごめん、」
「何で謝るんですか」
「いや、…着いたら710号室だから、インターホン鳴らしてくれるか?住所はこの後送る、わからなかったら連絡して」
「はい、それじゃあ後ほど」
「あぁ、」

通話を遮断すると、女は勢いよく最寄りのドラッグストアに駆け込んだが、新開は起こしていた身体に力が入らず、ぐったりとベッドに横たわってしまう。はぁ、と漏らして自分の情けなさに落胆した。ずるい、なんて言葉では表現できないくらい、よくない選択をしてしまった。誰だって体調を崩していると、それを餌にされたらこうせざるを得ないだろう、優しい彼女なら尚更だ。そんなところに漬け込んで、自宅に招き入れる自分はなんて非道なんだろうかと、新開は自分自身にうんざりするのだ。ハマると周りが見えなくなるのは己の悪い癖だと、随分前からわかっていて、視野を広くせねばならないと意識はしているはずなのに、行動に反映することができない。良くも悪くも、馬鹿正直な男だった。年齢を重ね、少しは改善している。だが、どうしても、本能的に、こうなってしまうのだ。

「みょうじです」

電話を切ってから、どれくらい時間が経ったのだろうか。会いたいという、とてもシンプルな感情がパチンと、弾けてしまいそうなくらいに膨れ上がったところで、インターホンが鳴る。凛とした女の声。古ぼけた体温計は正しい体温を測定しているのか否かさえ不明だった。38度3分、低くはない体温のせいかいつもよりも重い身体。どうぞ、と言う自分に失笑。

「主任、」
「ごめん、」
「…謝らないでください、謝らなきゃいけないのは私なので…具合いかがですか?」

弱った男に、色っぽさを感じてしまう自分は、なんて浅はかで、低脳で、欲深いのだろうか。部屋に入った瞬間、この男独特の煌びやかな花々のような、でもどこかスパイシーな香りが鼻に届き、くらくらしてしまう。

「あの、寝ててください、スポーツドリンク飲みます?汗かいてませんか?」

ちゃきちゃきとこちらに質問を寄越す女は、オフィスでのあの、細々と生きる草食動物のような女と同一人物だとは、なかなかに思いにくかった。新開は圧倒されつつ、女に手渡されたスポーツドリンクを受け取る。それを胃に流し、渇いた身体を潤していると着替えられますか?と聞かれたわけだが、その質問にはいよいよ笑いそうになった。一人では何もできない子どもだと思われているのだろうか。そのくらいはできると返事をし、湿った衣服を洗濯機にぶち込んで、乱雑に畳まれていたTシャツとハーフパンツを身につける。

「寒くないですか」

女にそう聞かれたものの、暑いのか寒いのか、それさえもよくわからないのだ。彼女の滑らかな手が自分の額に触れたのは、問いの答えを探している時。ひやりと冷たくて一瞬うっとりしてしまうが、なまえのピシャリとした声に引き戻される。

「…熱、何度あるんですか」
「え?」
「微熱じゃないでしょう」
「だから、そんなに怒らないでくれよ」
「怒ってなんかないです、何度ですか?」
「…38度と、少し」
「もう、何で病院行かないんですか」
「ごめんって」
「薬は?もしかしてこれ?使用期限切れてますけど」
「なぁ、頼むから…」
「怒ってません、食事用意するので…キッチン、使ってもいいですか」
「いいけど、何もないぞ」
「お鍋は?」
「鍋はある」
「包丁」
「ある」
「じゃあ、大丈夫です。これ額に貼って…ちゃんと水分取ってくださいね」

冷却シートを押し付けられ、またベッドに追いやられるが、すぐに彼女の姿が見えるリビングへ、ひっそりと。女はキッチンで、何やら大急ぎで拵えていたが、新開としてはこの味気ない部屋に可憐な女がやって来ただけで随分、気が楽になっていた。男の一人暮らしには十分すぎる1LDK。ソファに腰を落として小さな背中をぼんやり眺める。そうしているだけで随分と気が休まるのだ。
なまえは何がどこにあるのか全くわからないキッチンで、実は半分泣きそうになりながら煮麺を拵えていた。思っていたよりも辛そうな男の姿に、思っていたよりも責任を感じた。あの日、自分が就業時間内に業務を終わらせていたら、こうはならなかっただろう。主任の提案に甘ったれた自分のせいだ。そのせいで彼の、引き寄せられるような奥深さのある瞳は、煮詰めたようにとろりとしていた。ぜんぶ、自分のせいなのだ。唇をきつく噛んで、ぐちゃぐちゃの感情のまま、涙を落とさないように味付けをし、寝室へ…と思いきや、リビングに新開がいるものだから、驚いて素っ頓狂な声を出してしまう。色男はそれを見て、声を聞いて、ケラリと笑っていた。

「なんで、」
「こうしてた方が楽なんだ」
「そんなわけないです、寝ててください」
「随分いいよ、さっきまでもっと怠かったんだけど」
「気のせいですよ」
「美味そうだな」
「…私の話、聞いてますか?」
「あぁ、聞いてる。それより、食べてもいいか?」
「…どうぞ、」
「ありがとう、いただきます」

生姜をたっぷりと入れたそれを、新開は幸福そうに胃におさめていく。美味しい、とほとんど独り言のように発して、フゥフゥと麺を啜る男を見ていると少しばかり安堵できるのだ。無理に食べなくていいと声を掛ける準備をしていたのだが、その心配はなさそうだった。あっという間にそれを平らげ、器を空にし、胸の前で両手を合わせる男に、惹かれずになどいられない。

「薬、市販薬ですけど…飲んでください」
「至れり尽くせりだな、ありがとう」
「…すみません、私」
「ん?」
「私のせいで」
「…何だ、急に」

つっかえていたものを吐き出すように、なまえは言葉を漏らす。新開は本当に、ふざけているわけでもいい人ぶっているわけでもなく、純粋に女が何に対して謝罪をしているのか、さっぱり、検討がつかず困惑してしまう。

「主任を、巻き込んでしまって」
「何に」
「私がもっとちゃんとしていれば、体調崩すことなんてなかったのに」
「いや、だから、」
「申し訳ないです、迷惑ばかりかけて」
「だからさ、ちょっと待ってくれよ、俺は何に巻き込まれたんだ?」
「…この前の火曜、」

火曜、と言えば一昨日で、一昨日と言えば、彼女に図々しく相合傘をしようと強請った日だ。それはそうだが、それが何だって言うのだろうか。数時間前に比べるとクリアになった右脳と左脳で必死に考えてみるが、導くには至らず。

「一緒に帰った日だろ?」
「雨、」
「雨?」
「主任、随分濡れてしまったので」
「俺が傘忘れたのが悪いだろ」
「私が定時で仕事終わらせなかったから、」
「…まぁ、…うーん、そう言われると…どうなんだろうな。でも俺、みょうじさんと帰りたかったし、…巻き込んだのはどちらかと言うと俺だろ」

白い錠剤を水で流し込み、彼女の表情を伺えば今にも泣き出してしまいそうで。あぁ、もう、何でそうなるんだろうか。そんな風に思っちゃいないのに。寧ろ自分が志願したことなのだ。なまえに文句を言うとか恨むとか、そんなものは断固、筋違いである。

「優しいんだな」
「優しくなんか、」
「そんなにさ、責めないでくれよ、自分のこと。悪いのは俺だから」
「新開さんは、何も…」
「みょうじさんのこと、好きだから…俺はそうなればいいと思って…って、そう言うと聞こえが悪いな、何て言うか…」

あっさりとした告白を、流せばいいのか、反応をすればいいのか、そんなことなまえにわかるわけがなかった。変なことを口走ってしまったと、そう気付いた新開はちょっとだけ慌てて、話題を転換する。

「なぁ、それよりさ、なんで来たんだ?」
「え?」
「…いや、ごめん。俺が来いって言ったんだけど」
「心配、だったので」
「なんで?」
「…理由、必要ですか?」

片付けちゃいますね、となまえは器を手に取ってキッチンへパタパタと消えていく。あぁ、帰したくないなぁと、新開はそう思ってしまうが、たくさん葛藤して電車で帰れると駄々をこねる女を自宅前に呼んだタクシーに半ば無理やり乗せ、無理やり金を押し付けて見送った。おとなになったなぁと自らに拍手。風邪薬のせいか、彼女の恥じらいを含んだ言葉のせいか、身体はかなり、楽になっていた。夜空には夏の大三角が輝くが、正直に言うと星座には詳しくないのでそれくらいしかわからないからそれくらいしか見つけられない。そうだ、まだ、ぜんぜん、子どもだ。グツグツと煮えたぎる欲に気付きつつ、余裕のある紳士な大人を演じたくてスマートフォンで彼女に連絡を。今日のお礼と、家に着いたら連絡が欲しいと言うわがまま。好きだってそれを文末にくっつけたかったけれど、自分の中に閉じ込めておくことに。暑苦しい夏がもう、すぐそこまで迫っていた。

2018/08/10