黒尾とルームシェア | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
「どうした?」

そんな温和な声出せるんですね。揶揄いたいのにそれすらできなくて、ゆっくり彼から離れた。手を後ろで組む。ごめん、と呟く私は私からしたって異様だったから、黒尾さんからしたら意味がわからないの一言に尽きるだろう。帰ってきて、インターホン鳴らして、急に抱きついてきて。今までそんなこと一度もなかったもんね。

「なまえちゃん」

言えば彼は私が望むよりも多くを提供してくれるだろう。駅までの送迎くらいは容易にするだろうし、あの女の子にも釘をさすはずだ、警察がどうこうって話もしてくれるのかもしれない。
でも言えない。なんとなく、彼が傷付きそうだから。私の手のひらと右手首が痛いくらい、そのくらい、どうってことない。

「…ごめん、酔っ払って」
「え?」
「あのね、赤葦くんと駅で偶然会って」
「赤葦?」
「そう、それでせっかくだし、ちょっとだけと思って駅前の居酒屋で飲んだの。久しぶりに外で飲んだからさ、なんか、っ」

どいつもこいつも、なんで手首掴むのかな。ずきん、と鋭い痛みは一瞬でその後は鈍く締め付けられるような感覚。目の前の男は困惑した表情を捨てて、冷淡な視線を私に。どうした?って、あのふわりとした優しい声は数分前のものなのに、もうすっかり思い出せなかった。向けられた視線の鋭さに、もう全部、わからなくなっている。

「俺の連絡気付かなかった?」
「痛い、」
「なぁ」
「気付いた」
「何で返信しないの」
「さっき気付いたの、さっき、」
「…なに泣いてんの」
「っ、て、痛いから、」

そんなに強く掴んでねえよ、と。そう彼が言おうとしているのにも気付いたし、実際力を振り絞っているわけでもない。わかるけど、先ほどの衝撃がそこそこに強かったようで、微弱な力にさえ大袈裟に反応してしまう。母指球の擦り傷が熱くなった彼の目にとまったようで、込められていた力がすうっと抜ける。柔弱な彼を見るのは初めてかもしれない。

「コンビニ行ってくる」
「え?」
「冷凍庫に氷あるから、袋に入れて水も入れて、氷水で手首冷やしといて」
「…大丈夫だよ、転んだだけだし」

咄嗟の嘘は…いや、転んだというのはあながち間違いでない。ニュアンスの差だ。押し倒されて、転んだわけだ。ニュアンス、で片付けるかどうかも各々の判断基準だろう。ただ、こんな口から出まかせが大人な彼に通用するのだろうか。いいや、多分しない。しないけれど、するりとうまれたその言葉はきっと意味なんてない。黒尾さんは大抵をもう、察している。だからもう私の方を見ないのだ。連絡なんて今までだって散々無視してきた。仕事の帰りに醤油買ってきてとか、遅くなるから先寝ててとか、先週一緒に見たあのドラマ録画しといてとか。読んで、彼の指示通りにして、毎回それで。なのに、叱られたのは今日が初めてだ。あの子がいるかもしれないからって、私にそう忠告したかったんだろうな。多分、何となくそんな気がした。だってあんなに怒っていた彼が、急に泣きそうな顔をするんだから、そういうことでしょう?あぁ間に合わなかったか、みたいな。そんな様子がひしひしと伝わってくるものだから。

「ごめんなさい」
「…なんでなまえちゃんが謝んの」
「連絡、」
「とりあえず待ってて。すぐくるから」
「黒尾さん」
「待ってて」

ごめんと、そう独り言のようにぼやいた彼。私1人になった部屋はしんと静寂に包まれる。怒るんだ、悲しむんだ、あんな顔するんだ。そんな当たり前のことにあっけにとられている自分が情けない。一応彼女なのに、なーんにも知らない。いや、それなりにはわかっている。わかっているけれど、理解しようとしていない。理解しようとして考え始めるとぐるぐるぐるぐる、後ろ向きな考えばかりが頭を巡って、嫌になるからしない。ああ、だからダメなのか。こんな時に頭をよぎるのは彼の台詞だ。あの、見かけによらず割とズケズケ言う、彼の言葉。
正直に言わないで離れた後にメソメソ泣いてる方がかっこ悪いと思うけど。
それがふわっと浮かぶから、私はさして酔っ払ってなどいないようだ。

「黒尾さん、」
「っ、なに、びっくりした」
「黒尾さん…!」
「声でけえよ」

右手が痛むことは念頭にあるはずなのに、そんなことよりも先に身体が動く。静かな部屋は一瞬、静かでなくなった。私が勢いよく飛び出したからだ。そのままほとんど走るようなスピードで足を動かし、せかせかと歩く彼に追いつく。とろいエレベーターを待っていたようだ。鈍いそれに感謝感服。

「待って」
「なに、部屋にいろって」
「なんなの」
「は?」
「なに、ムカつくんだけど」
「なにが」
「なんで勝手に決めるの」
「声がでけえよ」

到着した四角い箱に彼を押し込むようにしながら乗り、尋問を続ける。主語が見当たらないので、彼はほとほと困り果てていたし苛立ってもいた。うるせえ近所迷惑だろ、とも言われるがエレベーターに乗り込めばこっちのもんだ。閉、のボタンを強めに押す。

「ついてくんなよ」
「なにそれ」
「いや、だから」

ついてくるな、なんて今1番言われたくない言葉だった。勿論、彼にそういった意図がないのはわかる。けれど私はまるで「俺は新しい家に引っ越すけどお前はついてくるなよ」と、そう言われているような気分なのだ。不愉快以外の何物でもない。

「ついていくよ」
「いやだから、」
「ねぇどうする気なの」
「コンビニで消毒液と絆創膏買ってくんだよ」
「そうじゃなくて、私たち」
「あ?」
「一緒にいないの」

彼の胸を叩いた。グーで。どんどんって扉をノックするみたいに、とんとんって叩く。私のこともここにいれてよ、一緒にいさせてよ、そばに置いてよ、ねぇお願いだからもうひとりにしないで、こりごりなの。特に、あんなに広い部屋に置いていかれるのは嫌だよ。特にあの部屋は嫌。黒尾さんのことしか思い出せないよ、あの部屋じゃ。

「ねぇ」
「…今探してんだろ、もうちょっと待てよ」
「私も一緒に探す」
「うん」
「いいの?」
「うん、つーか、そのつもりだし」
「え?」
「大抵わかるだろ、こんだけ一緒にいりゃあ」
「そんなに一緒にいないよ」
「そ?」
「うん」
「あー…不安にさせました?俺」
「させましたね」
「申し訳ない、それは」
「うん」
「置いていかねえだろ、置いていけねえし」
「なんで?」
「好きですからね」

サラリと舞ったその言葉にとくんと胸を高鳴らせたのもほんの一瞬。一階についたと思いきや黒尾さんはまたエレベーターを閉めて私たちの部屋があるフロアへ。ちょっと、と声をかけたところであの冷たい目。

「捻挫ってわりと長引くから、頼むから部屋で冷やしてて」
「…大丈夫だってば」
「俺が嫌なの」
「嫌?」
「ごめん、」

俺のせいだからってそう言う彼がそこそこ弱っているので、私はおとなしく部屋で彼を待った。10分くらいで戻ってきた彼は息を切らして、じわりと汗を滲ませているからこちらも申し訳なくなる。多分、風呂上がりだったと思う。まだほのかに、私の所持品であったシトラス系のボディソープの香りが彼から漂うから。

「手首どう?」
「うん」
「痛い、よな。ごめん」
「そうでもないよ」
「ごめん」
「いいって」
「ごめんな」
「うん、わかったから」

手際が良かった。ほんのり擦りむけた手のひらをパパッと消毒。手首の状態も彼が確認してくれる。幾つか質問をされたので思うがままに答えた。そんなに酷くはなさそうだね、という言葉が彼から出たのでこちらも一安心。実際我慢できないほどの痛みではなかったし、泣きわめくほどでも痛い痛いと呻くものでもなかった。

「ありがとうございます」
「いや、全然」
「そんなに落ち込まないでくださいよ」
「落ち込みますよね、普通に」
「なんで」
「可愛い彼女が自分のせいで怪我したら、そりゃ落ち込むでしょ」
「可愛い?」
「…あのねぇ」

可愛いに決まってんだろって、そう言った彼はサラリと髪に指を通して、ふっと抱き寄せて。

「ごめんな」

もういいから。そう言う必要もない気がして、ぎゅうと彼を抱き締める。暫くそのまま一時停止。互いの体温をしっかりと共有しあったところで「あとさ」と彼。赤葦と飲んだの?ってちょっと睨んで聞いてくるものだから愛おしくてたまらない。あの人結構面白いね、と言えば彼はどこがだよって素っ気なく返した。嫉妬もするんだね、なるほどね。

2017/08/24