黒猫 | ナノ


▼ 言わざる、聞かざる

起きると時計は午後8時5分を指していた。スマホを見ると何件かの着信が入っていたようで、きっとそれは全てバイト先の居酒屋だろうと確信する。
同僚にあんなことされて、行く気など毛頭無かったのだが。
明日にでも事情を説明して辞めさせてもらおう。立ち上がると脚の痛みにフラついた。筋肉痛であることを今更になって思い出す。ふくらはぎだけでなく、身体中あちこちが痛い。昨晩あんなに走った挙句、エンヴィーと…無理をしてしまったせいだろう。
猫はソファーの上で寝ている。私が物音を立てても起きる気配はしない。尻尾がソファーの淵からはみ出しているが、微動だにしない。ちょっと、疲れさせちゃったかな。
空腹感がある。そういえば、昨日から何も食べていない。
痛む脚を引き摺って冷蔵庫を開けると、以前買っていた鳥肉が一番に目に入った。あとは卵と、牛乳と、ビール。…親子丼でも、作ろうか。

二人分の丼を机に並べる。思ったより多めにできちゃったけど、今なら全然食べられる。
「……かおる?」
匂いにつられたのか、エンヴィーが起きてきた。目を擦りながら、まだ寝足りないような顔をしている。
「ご飯、できてるよ」
エンヴィーは静かにソファーから降りると、机の前に移動した。
「いただきます」
「うん」
お腹が空いていたのか、いつもよりペースが早い。卵と鳥肉しか入ってないけど、味はまぁまぁだと思う。
「おいしい」
にっこりと無垢な笑顔を浮かべるエンヴィーに、罪悪感を覚える。
さっきは、雰囲気に流されたというか、流してしまったというか。私から誘って…あんなことをしてしまった。
脚がピリッと痛んで、思わず顔を歪めてしまう。
「大丈夫?」
「うん…ただの筋肉痛だから」
「……ごめんね」
エンヴィーは少し悲しそうな表情を浮かべた。
「…え、何が…」
「かおるに…その……あんなこと…」
彼は顔を赤らめて俯いてしまった。私は思わず笑ってしまう。
「謝るのは私の方だよ」
どうして、と問いたげな彼を無視する。
「エンヴィーは“こういうこと“、他の人としたこと無いの?」
エンヴィーはさらに顔を赤くして縮こまる。黒い耳も、少し垂れ気味。可愛い。
「無いよ」
「そっか…」
「かおるは、あるの?」
少し、言い辛そうな声色だ。
「あるよ」
「誰と?」
誰と…なんて聞かれても、相手なんてエンヴィーは知らないでしょう。
「…嫌な人、だったかな」
正直、今まで付き合ってきた人は一人や二人ではない。かといって遊んでいたわけでもない。初体験の早さがその後の交際に影響したのは間違いないだろう。ただ、私が望んでしていたわけではない。私は私と交際してくれる見返りに、身体を提供していたに過ぎない。好きで行為に及んだ事など、一度だって無かったのだから。
「…エンヴィーとするの、嫌だった?」
「…そんなこと、ないよ。だけど…

エンヴィーは、エンヴィーの好きな人と、できたら良かったのにね」

空になった丼とコップを流し台に置く。蛇口を捻ると流水の音で、他の音は掻き消される。

「エンヴィーは、かおるが、好きだよ…」

だから、エンヴィーの呟き声なんて、聞こえない。聞こえない。

(私も、エンヴィーが、好き)


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