約束の十四時まで後十分。昨日、電話口で違和感を感じた『風見』という人物が来るまでのカウントダウンだ。事務所には笠原君が淹れてくれた珈琲の香りが漂っている。電話越しでも分かるほど、風見という人物は規律正しい人間であった。でないと、あのようなテンプレートのような会話は成り立たない。それならそろそろ事務所に来るだろう。

その時、事務所のインターフォンが鳴った。このビルはエントランスにインターフォンがあり、それに用のある部屋番号を押し中から開けてもらわないと入る事が出来ないのだ。宛ら、オートロックのマンションと同じである。


「苗字法律事務所です」
『昨日連絡させて頂いた、風見と申します』
「只今開けます。そのまま十階の事務所までお越しください」


笠原君は事務的に言い、玄関ドアのロックを解除した。ここ迄来るのには五分ほど掛かる。昨日感じた違和感は何だったかのか。正しかったのか。しっかりと確かめなければならない。





「初めまして、苗字名前と申します。彼は私の秘書の笠原です」
「笠原と申します。本日はご足労ありがとうございます」


目の前に座るのは眼鏡を掛けた、厳格そうな男性だ。年齢は二十代後半から三十代前半か。スーツは一流ブランド、がっちりとした体型をしている。恐らく、柔道か何か武術を身に着けている筈だ。


「お忙しい中、お時間を取って頂きありがとうございます。私、風見裕也と申します。早速ではございますが、」


「――風見さん」と彼の言葉を遮ったのは笠原君だ。一体どうしたのか。すると笠原君は眼鏡のブリッジを上げ「お話の前に、その襟元に付いている盗聴器を外して頂けますか?」と言った。驚いて風見さんを見ると、罰が悪そうな表情をし、襟元からシルバーの小さな機械を取り出した。


「いただきます」


そう言い笠原君はそれを受け取り、ぱきん、と指で壊した。盗聴器を仕込むなんて、矢張りただの依頼者では無い。いや、そもそも依頼者では無いのかもしれない。視線を笠原君から風見さんへ移す。


「盗聴器まで準備されて、一体どんな情報を横流しさせようと?」
「いえ、そういう訳ではございません」
「では、何を?」


すると風見さんは、キッとした目付きで私を見る。思わず動揺しそうになるが、ここで隙を見せたら私の負けだ。いつでも堂々として、人と向き合わなければならない。ポーカーフェイスは大学時代に何度も練習したじゃないか。


「警視庁公安部から参りました」
「公安?また何故」
「単刀直入に申し上げます。私どもの協力者になって頂きたいのです」


耳にした事はある。一般市民に協力者を作り、多方面から様々な情報を仕入れる。噂程度だと思っていたけれど、水面下では本当にそんな事が行われていたのか。机に置かれた名刺を見ながら、そんなことを思う。


「答えがすぐに出るとは思いま――」
「お断りします」


高圧的な態度は崩さない。私はまだ湯気の立つマグカップを手に取り、ほろ苦い珈琲を喉に通した。それを机に置けば、硝子テーブル特有の音が響く。風見さんは眉間に皺を寄せ「何故?」と聞いた。


「協力者になる事のメリットは何でしょうか?」
「、それは」


風見さんは言い淀んだ。彼は想像していたより、癖が少ない人間かもしれない。これなら私でも何とかなりそうだ。笠原君は何も言わず、私の隣で静かに座っている。


「私はメリットの無い事はしたくありません。それに協力者は確か番号で呼ばれるんですよね?そんな人扱いもされない事を、進んでやる訳無いじゃないですか」


言葉に強弱を付けないよう、淡々と口を動かす。目の前の風見さんには焦りの表情が見えてきた。――焦り?何故?彼が個人的に頼みに来たのであれば、焦る必要など無いはずなのに。


「風見さん、一つ条件があります」
「条件…とは」
「私に協力者になるよう指示を出した、貴方の上司を此処に連れて来て下さい」





空はあっという間にオレンジ色に染まっていた。今日の仕事は終わった為、帰宅する準備をする。こんな早くに家路につけるなんて、いつ振りだろうか。それに明日はやっと休みだ。この溜に溜まったストレスを発散させなくてはならない。


「あ、笠原君。さっきはありがとうね」
「さっきとは?」
「盗聴器」


片づけをしていた笠原君の手が止まった。するとジッと私を見て「あれぐらい気付かないと、いつか刺されますよ」と世にも恐ろしい事を言い出した。


「いや、普通の人間は気付かないって」
「自分も警察齧ってなければ気付かなかったかもしれませんね」
「そう言えば警察学校卒業してたっけ」
「随分前のことで、当時得た知識なんて忘れてしまいましたけど」


確かに今思い出せば履歴書には警察学校卒業と書かれていた。だからと言って、此処では必要な情報では無かったから忘れていたけれど。わざわざ学校を卒業して所謂「キャリア組」として就職出来た筈なのに、彼は何故就職先を此処に選んだのか。聞く必要は無いけれど、ほんの少しだけ気になる。


「警察学校って倍率高いんでしょ?よくご両親許してくれたね」
「卒業時にはいろいろ言われましたけど、弁護士秘書に就職するって言ったら、小言は無くなりましたよ」


子どもを思う親の気持ちを考えると、頭が痛くなるとはこういう事だろう。結果として私は笠原君が此処に来てくれた事には、何よりも感謝している。だからこそ、これ以上過去の事を聞くのはやめた方がいいのだろう。





家に帰ってすぐ、浴槽にお湯を沸かした。ボタン一つで勝手に溜まってくれるなんて、本当に良い時代になったと思う。その間に堅苦しいジャケットやストッキングを脱ぎ、ピアスを外す。だらしなくソファーに座り、スマホを開けばコナン君からメールが来ていた。

『明日推理カフェ連れてって!』シンプルだけど可愛らしいメールだ。すぐに返事をすれば、まるで待っていたかのように返信が届いた。可愛い顔文字がひとつだけ。どんなに大人びていても矢張りまだまだ子どもだ。そんな事をしている間にお風呂は溜まった。私はスマホをテーブルに置きお風呂場へ向った。

その日の夜は何となく小説が読みたくなった。大学時代によく読んだ本だ。ここ数年は全くと言っていい程、仕事以外に活字を見なくなっていた。一ページ、二ページ。ゆっくりと捲っていく。丁度中間地点を捲った時、何かがひらりと落ちた。拾い上げると、ずきり、心臓が痛くなった。

私と男性――当時付き合っていた彼氏との写真が落ちてきた。満面の笑みで写る私達は、数年後こんな事になっているなんて思ってもみなかっただろう。

ぽたり、ぽたり。水滴が写真を濡らしていく。吹っ切れたつもりだった。もう過去の恋愛だと思っていた、つもりだった。あれから三年経っても、私の心は彼――松田陣平に縛られたままだ。

彼はこんな事を望んでいない。彼からの最後のメールでは、私の幸せを願っていた。分かっている。分かっているけれど、陣平は私の全てだった。将来を誓った、最愛の相手だった。写真の中の私は陣平に寄り添い、頬を赤くして左手を見せている。その薬指には、シルバーの指輪が光っていた。


「、会いたい…陣平、会いたいよ…っ」


私の声も、涙も、気持ちも。どうやったって陣平には届かない。


2018/05/04

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