弁護士になると決めたあの日から、机に向かい文字と睨めっこする時間が増えた。だからか万年肩こりが酷く、眼精疲労も笑えない位だ。頭痛を感じない日はまず無い。

今日も今日とて、仕事が終わる頃には酷い頭痛がやって来た。ただでさえ今日は安室さんというイレギュラーな存在に出会った事によって疲れが溜まっているのに。私のデスクの前、右側。そこにいる笠原君は疲れをしらないかのように、テキパキと自分のデスクを片付けていた。


「先生、大丈夫ですか?いつも以上に目が死んでますよ」
「…いつも以上に疲れたからね」
「自宅まで送ります」
「ありがとう」


笠原君は本当に良く出来た子だ。だからこそ、その芽を潰さないように気を付けないといけない。部下の長所を伸ばすのは、上司の役目なのだから。





外は雨が降っていた。車に打ち付ける雨は秒を追うごとに段々と強くなっていく。窓硝子から見える風景は、外の光が滲み幻想的だ。そうだ、あの日もこんな雨が降っていた。彼と出会った頃はまだ私は高校生だった――


「――先生」


その声に驚き思わず肩が跳ねる。どうやら思い出に耽ってしまっていたようだ。笠原君を見ると、彼の瞳は眼鏡越しに強く私を見ていた。「どうしたの?」と聞けば、まるで演技のように態とらしい溜息を吐いた。


「先生、今日みたいな雨の日はいつもそうやって阿呆面晒してるの自覚してますか?」
「阿呆面って…凄い言われようだけど」
「…何か思い入れでもあるんですか?」


笠原君のその言葉は私にとって、とても重たかった。思い出すのはあの日の事。今でも鮮明に思い出せる、彼と初めて出会った日。私の人生が三百六十五度、変わった日だ。


「笠原君は運命の出会いって信じる?」
「急に何を言ってるんですか」
「私はね、信じてるよ」


昨日、安室さんにされた質問。あの時は答えなかったけれど、返答はイエスである。バッグからプライベート用のスマホを取り出す。電源を付ければ、液晶画面に光が灯る。


「私はね、初めて会った日に"この人と結婚するんだな"って感じたの」
「嗚呼…待受の男性ですか」


人差し指で私の隣で腕を組んでいる彼をなぞる。屈託の無い笑顔は、何年経っても色褪せる事が無い。彼の隣で写っている私も、とても幸せそうな表情をしている。いや、この時は本当に幸せだったのだ。


「でも先生、いまフリーですよね?」
「そうだね」
「と言う事は、その写真の男性と別れたんでしょう?いつまでも未練たらしいですよ」


その言葉に思わず苦笑が溢れる。未練たらしい。正にその通りだ。けれどそれも仕方がないでは無いか。未だに彼が私の心を掴んで離さないのだから。


「その人と寄り戻す話とか出てるんですか?」
「えー、そんなの無いよ」
「連絡取ってるとかは無いんですか?」
「連絡取れないよ。死んだから」


私の隣で、息を呑む音が聞こえた。スマホのディスプレイは暗くなり、車内もまた外からの光だけになってしまった。雨音と一緒に車内に流れるクラシックが、やけに頭に響いてきた。





今日は仕事に遅刻しなかった。理由はいろいろあるけれど、一番は珍しく車で通勤した事かもしれない。朝の通勤ラッシュには、何年経っても慣れることは無いだろう。事務所に入って来た笠原君が「今日は隕石が降ってきますね」と言っていた。


「今日は十時から接見要望がありましたので、拘置所へ向かいます。十一時半からは先週連絡を頂いた依頼者との打ち合せがあり、十四時からは昨日電話連絡を頂いた依頼者との打ち合せです」


毎朝こうして笠原君と一日のスケジュールを確認する。私達弁護士にとって、その日を把握する事は何よりも大切なのである。時間が乱れる事により、自分自身はもちろんすべての関係者に迷惑をかけてしまうのだ。


「先生、昨日頼まれた書類です。出来る限りは調べておきました」
「ありがとう。本当、仕事が早くて助かる」
「しかし…調べれば調べるほど、」
「それ以上は言わない約束」


笠原君の言葉を遮るように、勢い良く自分の手を叩いた。するとはっとした表情をし「すみませんでした」と呟いた。正直、私だって今回のこの依頼で無罪を勝ち取るのは難しいと思っている。でももしそうだとしても、最後まで弱音を吐かずに走りきるのが私達弁護士の役目だ。私達が先に折れてしまっては、元も子もない。


「さあ、今日も一日頑張ろう」


うん、と思いっ切り背伸びをする。心地良い太陽の光が、ビルの窓から部屋を照らす。昨夜の雨は行方知れず、今日は一日良い天気になるそうだ。





休む暇なくテキパキと仕事をこなし、気付けばあっという間に時計は十二時半を指していた。次は十四時から事務所で依頼者と打ち合せだ。時間はまだあるから、ランチにしよう。


「笠原君、私外に食べに行ってくるけどどうする?」
「自分は出前を取ります」
「分かった。じゃあ行ってくるね」
「次の打ち合せに遅刻しないようにして下さいね」


私が今まで打ち合せに遅刻した事があっただろうか。そんな事を思いながら、デスクに置いているノートパソコンとスマホをバッグに入れ、事務所を出た。さて、今日のランチは何にしよう。

東京の街は相変わらずごった返していた。特に此処は企業が集まるビルの街。どこの飲食店も行列が出来ている。けれどそんな店に見もくれず、私は少し路地に入った所にあるカフェに足を踏み入れた。心地良い珈琲の香りが鼻孔を掠める。すっかり顔馴染みになった店員に、いつもの場所に案内される。


「今日の日替わりランチはおろしハンバーグと唐揚げの甘酢かけです」
「じゃあ、それにスープセットで」
「かしこまりました。いつもありがとうございます」


この店員もここで働き始めて長くなる。何せ、彼と此処に通い始めた頃から働いているのだから。店員の背中を見ながら私はジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。バッグからノートパソコンを取り出し、スタートボタンを押した。

クラシック音楽に混じり、人の話し声とキーボードを打つ音が聞こえる。その時、ちりん、と来店を告げるベルの音がなった。自然と音が鳴る方へ視線が向く。そこには安室さんと外国人の女性がいた。あの人、あんなに綺麗な彼女いたんだ。

二人は店の中心の席に座った。ちょうど私の席は大きな柱の影になり、他の客の刺客になる為気付かれていない。正直、好都合だ。私は見て見ぬふりをして、また視線をノートパソコンへと戻した。

相変わらず此処の食事は頬が落ちそうな位に美味しい。手と口は止まることなく動いていく。すると、店員の「ありがとうございました」と声が聞こえた。何となく目線を外が見える窓辺と移す。そこには安室さんと金髪の女性が仲良さ気に歩いていた。窓硝子越しに青い瞳と視線が混じり合った。





満足なくらいお腹を満たした私は、あとは事務所に帰るだけだ。時間は十三時十五分。まだもう少し時間があるから、少しばかりゆっくりと帰っても平気だ。

膨れたお腹ではタイトスカートが苦しくなる。前にこんな私を見て笑われたなあ、なんて昔の事を思い出す。彼との想い出は、日常の至るところに落ちているようだ。


「勝手に死なないでよ…陣平の馬鹿」


私の小さな独り言は、この賑やかな東京では簡単に掻き消されてしまう。その時、私の目の前を金髪の彼――安室さんが通っていった、そんな気がした。


2018/05/03

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