車の運転は性格が出るというが、笠原君の運転は穏やかで心地良い。もちろん大金払って買った車の性能もあるとは思うが、それを引いたとしても全力で身を預けれる程だ。

彼の運転に身を任せ、私はバッグから書類を取り出し目を通す。次に取り掛かる依頼の細かな詳細がびっしりと書かれている。目を通せば通すほど頭が痛くなる。これだけ見れば依頼主に勝ち目は無いだろう。けれど自分は無罪だと主張している以上、それを信じるのが私の役目だ。どんなに完璧な資料だとしても、必ずどこかに穴はある筈だ。それさえ分かれば、無罪は難しくても減刑は…。いや、矢張り無罪で無いと意味が無い。


「先生、唸るのは構いませんが着きましたよ」


事務所からここ迄は車で二十分程掛かるのに、あっという間についてしまった。それ程集中していたのだろう。書類はまたバッグに仕舞う。時間はそんなに掛からないはずだから、車は邪魔にならない場所に止める。もちろん、路上駐車が問題にならない場所にだ。

私が車から降りると、笠原君は既に開いた扉の横に立っていた。そして上から下へ私の身嗜みをチェックすると「さあ、さっさと行きましょう」と言う。笠原君はどんな相手でも、どんなに短い時間でも、私が仕事中に人と会うときは必ず付いてくる。きっとこれは、彼なりの気遣いなのだろう。

喫茶店ポアロの扉を開けると、ふわり、珈琲の香りがした。可愛らしい女性の店員が席へ案内してくれる。けれど肝心の安室さんがいない。私は窓際に座り、その隣に笠原君が座った。


「失礼ですが、此方に安室という方はおられますか?」
「安室さんですか?今買い出しに行ってます。たぶん、そろそろ帰って来ると思いまが…」


口を開いたのは笠原君だ。私は黙って出されたお冷を飲む。自分から呼び出しておいて、買い出しに行っているとは一体何事だ。私だって暇じゃないのに。そんな悪態をついていた時、外と繋がる扉が開く。店内に入ってきたのは、本日この場でのお目当ての人だ。


「こんにちは。もう来られてたんですね。梓さん、すみませんがこの荷物お願いしてもいいですか?」
「はい、分かりました」
「あの方にお返しする物がありますので、バックヤードに取りに行ってきます」


そう言い、安室さんはまた姿を消した。マイペース、というか何と言えばいいのだろうか。ぼんやり彼を待っていると「お待たせしました」と安室さんがやって来た。左手には私の携帯が握られていた。


「携帯電話、昨日僕の車の中に忘れていましたよ」
「そうでしたか。ご迷惑おかけしました」
「いえ、またこうしてお会いする口実ができましたし」


恐らく、この人は分かっててやっているのだ。綺麗に微笑む安室さんは、全て計算尽くだと私は感じた。彼は私達の目の前に座ると笠原君を見て「彼は?」と聞いた。


「ご挨拶が遅れました。笠原と申します。苗字弁護士の秘書をしております。この度は先生がご迷惑をお掛けいたしました」


堅苦しい言葉は他所行用の笠原君の十八番ではあるが、この口調からして本当に早く終わらせたい時だ。端々に棘を感じる。失礼を承知で私は右手を差し出し「携帯をいただけますか?」と聞く。すると安室さんは、私の掌に携帯を置いた。


「ところで、連絡先は矢張り教えていただけませんか?」


私の右手は安室さんの左手に掴まれている。これは教えるまで帰さない、という事だろうか。それにしても安室さんが私に拘る理由は何だろうか。自問自答するけれど、答えは出ない。


「こちらが先生の連絡先になります。御用があれば、24時間365日こちらへどうぞ」


笠原君がそう言って机の上に置いたのは私の名刺だった。すると安室さんは困ったように笑い「今日は立派なボディーガードがいるようなので、この辺にしておきますね」と言い手を離した。そして机に置かれた名刺を受取る。


「また連絡しても良いですか?」
「ええ。ご依頼でしたら、何時でもお待ちしております」





疲れた。どっと疲れた。事務所に戻って来た頃には、何より精神的に疲れていた。時間にすれば十分はあの場に居なかったはず。けれどその間、腹の探り合いであった。笠原君がいなければ、私は今もまだあの場にいたかもしれない。

けれど矢張り、私は安室さんが気になって仕方ない。何処か分からないけれど、何時だったか会った事がある気がするのだ。ここ迄記憶に残っていないという事は大した要件ではない場所。どんなに頭を捻っても答えはまだ出て来ない。


「先生、紅茶をどうぞ」
「…ありがとう」


笠原君が淹れてくれる紅茶は、何時でも私の口に合う丁度良い甘さだ。それをゆっくりと喉に通す。鼻から抜ける香りが、私の心を落ち着かせる。


「あ、そうそう。笠原君にちょっと調べ物をして欲しいんだけど」
「分かりました。希望日時は?」
「明後日昼までにお願い」
「次のボーナス、楽しみにしてます」


そんな事を言いながら、私の手元から書類を取る。笠原君はそれに簡単に目を通すと「明日の出勤までには終わりそうです」と言った。相変わらずの優秀さに脱帽である。


「そういえば先程、その携帯はあの男性の車の中にあったと言っていましたが」
「あ…あー、うん」
「先生の交友関係に口を出すつもりはありませんが、あの人胡散臭くないですか?」
「やっぱりそう思う?」


引き出しの中から判子を取り出し、署名が必要な書類に次々に押していく。もちろん、笠原君も口と手が同時進行に動いている。私のような個人事務所はどこもスタッフは少人数だ。けれど大体は秘書とパラリーガルなど分かれている。しかしこの事務所は私と笠原君の二人。とにかく休む暇が無いのだ。


「…笠原君、電話だよ」
「先生の方が暇そうですけど」


暗にこれは私に出ろ、という事か。事務所の電話が切れる事なく鳴り響くので、判子を片手に私は子機を取る。「苗字法律事務所です」と言えば、受話器越しに低い男性の声が聞こえた。


『お忙しい所、申し訳ございません。苗字先生に相談させて頂きたく、連絡させていただきました』
「ありがとうございます。当事務所では必ず一度事務所にお越し頂いておりますが、可能でしょうか?」
『はい、もちろんです』
「ご希望の時間はございますか?」
『明日は空いておられますか?』
「明日ですと…午後二時からでしたら可能です」


この感覚は違和感だ。大体、こうして相談の電話をしてくる人は声や言葉に焦りや動揺が見える。それなのにこの電話相手は淡々としていて、まるで業務連絡をしているかのようだ。私の表情を見たからか、笠原君の耳にはイヤフォンが入っていた。それは固定電話に繋がっている。


「恐れ入りますが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
『風見と申します』


私はスケジュール帳の明日の予定に、〈午後二時、相談、風見〉と書き加える。相手方が電話を切ったのを確認し、私も受話器を置く。「何か嫌な予感がしますね」笠原君の言葉に私は頷く。

その時、私のプライベート用のスマホにメールが届いた。液晶画面が明るく光る。その待受には今よりも少し若い私と、少し癖のある髪の毛の男性が幸せそうに腕を組み笑っていた。


2018/05/02

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