どうしよう。満員電車の中で私は冷や汗を流す。誰かの手が私の太ももを撫で、ゆっくりゆっくりと上へ上がっていく。気持ち悪い。けれど恐怖で声が出ない。棒を持つ手が震える。あと二駅我慢すれば…!そう自分に念じる。

私が抵抗しないせいか、私の下半身を撫でる感触は段々とエスカレートしていく。今ではもう下着の境目を行ったり来たりしていて、気持ち悪さより恐怖が増していく。誰か助けてと祈りながら、生唾を飲み込んだ。


「おい、おっさん。こんな真昼間から盛ってんなよ」


急に消えた生暖かい手の感触。それは私の隣にいた人の手にしっかりと掴まれていた。少し癖毛の男性だ。私と年齢が変わらないだろうか。その人に腕を掴まれていたのはスーツ姿の中年男性だった。


「もう大丈夫だ」


低くて優しい声が、私の心を震わせた。それと同時に安心感と緊張が解けたからか、気付けば涙が次々に零れ落ちる。癖毛の男性の大きな掌が私の頭に乗った。「怖かっただろ」その言葉にまた涙が溢れた。





私を痴漢していた中年男性を警察に引き渡す間、癖毛の男性はずっと私の隣にいてくれた。何を話す訳でもない。ただ隣にいるだけだった。初めて会った人なのに、私はこの男性に対して安心感を覚えていた。


「本当にありがとうございました」
「どうも。じゃあ気を付けて帰れよ」


そう言って気障に手を振り、その場を立ち去ろうとする男性の服を慌てて掴む。頭一つ分上にある男性の顔は驚いたような表情をして私を見た。「お礼をさせて下さい」私がそう言うと男性はニカリと笑った。





「そもそも電車に乗るのに、そんな短いスカートを履くな。お前も悪い」


痴漢から助けてくれた男性はそう言い、ブラック珈琲を飲んだ。年齢が一つしか変わらないのに、あんな苦いモノを飲めるなんて凄すぎる。「…すみません」と小さく呟いた私は、砂糖たっぷりのミルクティーを飲んだ。


「自分、高校生?」
「四月から大学生になります」
「どこの?」
「東都大学です」
「じゃあ、俺の後輩」


お礼がしたいと言い連れてきた駅前のカフェに着いて約三十分。この男性について分かった事が少し。年齢は私の一つ上の十九歳で、東都大学に通っている。以上、終わり。私には色々なことを質問する癖に、自分の事は話すつもりはないようだ。


「学部は?」
「法学部です」
「ふーん」


自分から聞いておいて、興味があるのか無いのか。砂糖が入っている訳でもない珈琲カップを、スプーンでくるくるとかき混ぜていた。何を考えているのか全く分からない。不思議な人だ。


「あ、あの」
「何?」
「自分で誘っておいて、あれなんですけど…。お礼って何をしたらいいか…」


とりあえずカフェに連れてきたものの、ここからは全くのノープランだ。すると彼は表情一つ変えず、珈琲を飲んだ。その表情がとても綺麗で思わず見惚れてしまった。慌てて視線を反らす。


「お礼したいなら連絡先教えて」
「え?」
「連絡先」
「分かりました!ちょっと待っててください!」


バッグから慌てて携帯を取り出す。それを彼は私の手の中から簡単に取り上げ、凄い速さで文字を打ち込む。一分もしない内に携帯は戻って来て「俺の電話番号とメアド、登録しといたから」と言われた。


「えっ、と」
「連絡して来いって事。餓鬼じゃねぇんだから分かるだろ」


…優しいのか、優しくないのか。慌てて返事をすると、満足げな表情を見せた。その表情はさっきまでの大人っぽいものとはうって変わって、まるで子どものような可愛らしいものだった。


「じゃあ、俺帰るわ」
「あ!私が払います」
「当たり前だろ」


そう言って席を立ち、彼はさっさと店を出て行ってしまった。そういえばこんなにも長い時間一緒にいたのに、名前を聞いていなかった。それに気付いたのは、財布から千円札を取り出した時だった。慌てて店から出るとそこにはもう彼の姿は無かった。





「それなら携帯の連絡帳見てみれば?」
「連絡帳?」
「だって、その人名前さんの携帯に自分の連絡先登録したって言ってたんでしょ」


そう言ったのは以前父の弁護をする際にお世話になった、妃英理弁護士の娘さんのお友だちの工藤新一君だ。なんやかんやあって時々先生の娘の蘭ちゃんと、そのお友だちの新一君のお世話をする事がある。今は新一君の家で一緒にお留守番中だ。

そんな新一君のご両親は、かの有名な推理小説家の工藤優作と元大女優の藤峰有希子なのだ。正に生まれながらのサラブレッドである。


「新一君って本当に凄いよね。小学校一年生だとは思えないよ」
「これぐらいの事なら誰でも分かるよ」


新一君の推理力は優作さんのものを強く引き継いだのだろう。確かに携帯の連絡帳を見れば、相手が誰だかすぐに分かるはずだ。携帯で連絡帳のページを開く。身内や友人にまぎれて一つ、知らない人がいた。


「"助けた男"…だって」
「なんだそれ」
「名前ちゃんが必ず連絡するようにだろう」


私と新一君が携帯を覗き込んでいるその後ろで聞えた低い声。二人同時に振り返ると、そこには優しく微笑んだ優作さんがいた。「そういう風に書かれたら、相手の事が気になって仕方ないだろう?」優作さんはそう言い、ぱちりとウインクをした。


「キャー!もしかして相手の彼、名前ちゃんに一目惚れしたのかしら!」
「名前ちゃんは可愛いし、あり得なくは無い話だろうね」
「ね、ね。相手の人どうだった?イイ人だった?」


優作さんと有希子さんは、いつの間に出先から戻って来たのだろうか。そしていつから話を聞いていたのだろうか。恋バナが大好きな有希子さんは綺麗な顔を遠慮なくグイグイと近付けてくる。甘い香水の香りに頭がクラクラしそうだ。


「とりあえず連絡してみましょうよ!会うのが嫌なら私が代わりに会ってきてあげる!」
「そんな事はさせられませんよ!」
「そうだよ、有希子。それなら私も一緒について行くよ」


いや、そういう事じゃないんだけれど。そう思うけれど、高校入学と同時に東京で一人暮らしを始めた私は、この暖かさが嬉しかった。「もう名前ちゃんは娘みたいな存在だから、変な男には渡せないわよ!」と有希子さんは言葉を強めて言った。


「アパートに戻ったら電話を掛けてみます」
「ここでかけたらどうだい?」
「日時聞かれたら本当に付いて来そうなのでやめておきます」
「あら、残念」


有希子さんはそう言うと、絵に書いたように肩を落とした。優作さんはそんな有希子さんを慰め、新一君はじっとりとそんな二人を見ていた。


「じゃあ、お二人が戻られたので私も帰りますね」
「夕飯食べて行かないの?」
「先日、妃先生に頂いた本でまだ読み切れていないものがあるので。大学に入る前に読んでしまいたくて」
「そうなのね…。なら、次は一緒に食べましょう?名前ちゃんがいると、新ちゃん嬉しがるのよ」
「そうなの?」
「そんなことない!」


新一君は顔を真っ赤にさせると、何処かへ走り去ってしまった。この広い家では隠れる場所がたくさんあるから、見つけ出すのは困難だ。すると優作さんが「今月の給料は振り込んでおいたからね」と言った。


「私が好きでしているの事なのに、気を使わせてしまってすみません」
「いや、私達は本当に感謝しているんだよ。新一も名前ちゃんが帰る度に次いつ来るか聞いてくるしね」


優作さんの暖かい掌が頭に乗る。優しく微笑む優作さんと有希子さんを見ながら、人に恵まれているなあ、と常々感じた。とりあえず帰ったら一番に連絡してみよう。痴漢から助けてくれたのだから、悪い人ではないはずだ。


2018/05/13

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