幸せは直ぐそこの続き


「一本杉の下で、待っていますね!」
嬉しそうに口許を緩め、淡く染まる頬を隠すことなく笑ったなまえに、心臓が大きく暖かい音を発てて脈を打った。
今思えばなまえと二人で町に行くというのは初めてのことで、髪を結い直そうか、服は可笑しくないか、歯は磨いた方がよいのだろうかと、らしくない考えが浮かんだ。
「あぁ、直ぐに行くから、待っていてくれ。」
一層嬉しそうに笑うなまえを見て、今すぐにでも抱き締めてやりたい気持ちで一杯になる。
雪みたいに白い肌を淡く染めるだって、こんなに表情豊かになるのだって、何かを話そうと必死になるのだって、全部全部俺の前だけだと謂う事に優越感に浸る。
喜三太やしんべヱや平太、作衛兵だって可愛い後輩だし凄く愛しいと思うが、なまえはそれとは別に感情が溢れてくる。
「それではまた後程。」
頭一個分小さななまえが、どうしようもなく愛しい。
黒く艶やかな髪を揺らしながら四年長屋の方へ向かうなまえを見て、あの日のようにだらしなく口許が緩む。

さて、授業が終わったら直ぐに着替えて待ち合わせ場所に行けるよう準備をしなくてはいけないな。









「………っ!」

ぱちりと目を開ければ、目の前には心配そうに眉を下げる伊作の顔。あの頃よりずっと短くなった髪がさらりと揺れていた。

「どうしたんだ?」
「、いや、なんでもない。」
「…そうか。」

眉を下げたまま小さく笑う伊作を安心させるようににい、と口角を上げて笑みを作れば、伊作は眉をきゅっと寄せ何処か苦しそうに顔を反らした。

すっと視線を下げれば今ではすっかり慣れた白いシャツに黒い学生ズボン、緑のネクタイと同色の上履きが普段と何等変わり無く映った。
最初は、吃驚したとかそう謂うレベルじゃなくて、只々呆然とした。
何が起きたのか判らなくて、困惑し続けた。
見たこともない絡繰りや鉄の塊に恐怖して、まるで敵地に一人放り込まれたようにも思えた。
今思えば、此方の両親には数えきれないくらい迷惑を掛けてきたと思う。
小学校に入学すると同時に伊作、仙蔵に文次郎や小平太に長次、加えて脱落して学園を去った面々や山田先生等の懐かしい面々と出会い絶望的人生から一変した。
二年生になると元五年の後輩も入って来たし、昔と変わらないようで安心した。
三年生になると、なまえと親友と言える程親しかった喜八郎や滝夜叉丸たちも入学してきた。
ああ、やっとなまえに逢えるのだ。何年振りだろうか、所謂前世では酷い別れ方をしたし、会ったら何て言おうか。先ずは力一杯抱き締めてやろう。その後に前世で貰った恋文の返事を言おう。前世で言えなかった分、甘ったるい言葉を一杯に吐いて、なまえの恥ずかしそうに笑う顔に接吻をしてやろう。きっと顔を真っ赤にしながら、嬉しそうに笑って返してくれるだろう。



そう、決めていたのに、




「…なまえは、何処にも居ませんでした。」

喜八郎の言葉に、目の前が再び真っ暗になった。
喜八郎はなまえと特別仲が良かったせいか滝夜叉丸たちよりも悔しそうで、泣きそうな顔をしていた。

「…あの時、伝えていればよかった…っ!」

ぎゅっと握った拳とやり場の無い怒りと後悔。
ふと脳裏を過るのは思い出したくもないあの日の光景。



白い肌を蒼白くさせ、腰まであったであろう艶やかな黒髪は不規則に切られ首筋にかかる程しかなく、袖口から覗く手には掴まれたようにくっきりと残る痣。
小綺麗な顔は切り傷が出来ていて、所持品は無く、恐らく山賊に襲われたのだろう。

運が、無かっただけなのかもしれない。
山賊に襲われたのも、髪を切られたのも、心の臓を刺されてしまったのも、只、運が、無かっただけなのかもしれない。
六年にもなれば同輩が死ぬのだって別段珍しいことではない。
実習中に敵方に殺られたり、不注意で命を落としたり、身代わりとして命を落とすことなんてこの六年間で何回もあった。
最初は嘆き悲しみ、目を真っ赤にするまで泣いた。次に伊作たちと一緒に暫く泣いた。その次に一人で嗚咽を洩らすだけだった。その次は拳を握り締めて涙を一つ流しただけ。その次は、一言、花を供えただけだった。
忍者ならば死に恐怖してはならないし、一々悲しんでいたら切りがない。慣れなきゃいけない、慣れなきゃ生きていけない。
六年になる頃には涙なんてすっかり枯れてしまった。
だから大丈夫、なまえが死んでも涙なんて溢れない。枯れてしまったものは二度と溢れない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、なんだ。
だから、冷たくなったなまえの頬を濡らす水はきっと雨で、俺の頬を伝う滴もきっと雨だ。

「…っ、なまえ…!」

人が死ぬのって、こんなに辛いものだっただろうか。





思い出も全て灰になる
あの日から幾度も季節は巡り、今は君の愛した桜の季節です。
君の好きな僕よりもうんと大きくなった僕が今は此処に居ますが、君は現在(いま)は何処に居るのですか?
僕は君に逢いたくて逢いたくて仕方ありません。
あと何回季節を巡れば君に逢えますか?
僕は君の顔を、香りを、暖かさを忘れてしまいそうでなりません。


 


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