我慢なんかできないと知っていた
「それでは和泉さん、七瀬さん、出番が来たらお呼びしますので。おそらく1時間くらい待ってもらう形になると思います」
そう言って、女性ADが楽屋の入口で頭を下げた。一織が承知した、という旨を伝えると、再度女性が頭を下げ、いかにも忙しそうに早足で去っていく。
その背中を見送りながら一織が重いドアを閉めると、空間はしん、と静まり返る。
使い込んだ畳の敷かれた六畳間に、ところどころ汚れの目立つ鏡と作り付けの机があるだけの楽屋は、お世辞にも居心地のよい場所ではない。
けれど、収録に追われていた二人にとってはそれでも束の間心を落ち着かせられる空間だった。
「…は、お疲れ様、一織」
ほっと息をついた陸が笑う。
「七瀬さんも、お疲れ様です。体調は…大丈夫そうですね」
「うん」
ならば心配はない。与えられた空き時間の中で、次の収録の準備をするだけだ。
一織は低い机の前に座ると、鞄の中にしまっていた台本を広げる。そこへ。
「……ねえ、一織」
つい、と服の裾を引かれた。
「なんですか」
敢えて平坦な声で一織は答える。
「……ADさん、1時間かかるって言ってたよな」
いつもの陸の元気な声とは、少し違う声だった。
一織は振り返らない。陸が何を言いたいか、何を求めているのか知っていて、なお。
「だめですよ、今は」
「わかってる! わかってる、から……ちょっとだけ」
――だって、久しぶりの二人きり、なんだよ
ぽつん、と落とされた呟きに、一織の胸の奥がつんと痛くなる。
そう、今は「二人」だった。
このところ忙しくて、IDOLiSH7全員の仕事かひとりでの仕事ばかりで、寮でもすれ違いばかりだった一織と陸に久しぶりに訪れた、ユニットでの仕事。その、収録の合間の空き時間。
誰もいない、静かな空間。
――ちょっとくらい、いいだろ。
泣き出しそうに聞こえたか細い声に我慢ができず、一織は台本から目を離す。
髪の色に負けないくらい真っ赤に顔を染めた陸が、今にも逸れそうな視線で一織を見ていた。その瞳は、飴玉と見紛うほど甘く潤んで一織の目に映る。
だから、見ないようにしていたのに。
見てしまったら最後、状況をはばかる理性など容易く溶かされることが分かっていたから。
「……10分だけですからね」
一織の腕が陸を引き寄せるのが先か、陸が一織の胸に飛び込むのが先か、二人は重なるように抱き合った。
(――っ)
例えようもない幸福感が、一織の理知的な脳の奥まで突き抜けていく。何も考えられない。
久しぶりに掻き抱く陸の身体は、温かくて、どんな布団やぬいぐるみよりも心地よかった。
「……へへ、久しぶりの一織だ」
蕩けそうに甘い陸の声が耳元で聞こえる。
「すごい、幸せ」
陸らしい素朴な言葉のひとつひとつが、一織の胸を締め付けてやまない。必死に見ないふりをしていたけれど、触れ合えなかった間どれだけ陸を求めていたかを思い知らされる。
「……あまり可愛いこと、言わないでくれますか」
――自制が、効かなくなりそうです
いくら密閉空間とは言えど、いつ、誰が来るかも分からない場所で。これ以上はと思うのに。
「いいよ、一織だもん」
それなのに、七瀬陸の言葉と表情は、一織のなけなしの理性を軽く攫ってしまうのだ。
「……まったく、あなたには敵いませんね」
降参とばかりに微笑めば、今度は陸の方が真っ赤になって一織から顔を逸らそうとする。
逃すまいと、陸のまるい頬にそっと手をかけて、一織はずっと求めていた場所へ口付けた。
(……10分で済むわけがありませんでしたね)
もちろん、最初から分かっていたことだけど。
end.
+ + + + +
精神的に疲れていた帰りの電車で書き殴ったものです。
手垢のついたシチュエーションと分かっていても、こういうの妄想してるのが一番楽しいです……
初出→'17/6/13
Up Date→'17/9/2
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