【同人誌サンプル】壁の向こうのナイチンゲール



   ◆

「七瀬さんだけは、絶対に、この部屋に入れないでください」
 とある冬の朝のこと。目を覚ました一織が、熱でぼやける意識の中で何よりも先に訴えたのは、そんな言葉だった。

 昨晩、一織はテレビ収録を終えたあとの楽屋で急に倒れてしまったのだった。
 高熱を出していたために急いで病院に運ばれ、注射を打ってもらいその日は帰宅。普段使っているロフトベッドにとても上がれる状態ではなかったので、やむなく床に予備の布団を敷いて眠っていたのだった。
 医師の診断では、とりあえずはただの風邪だということだ。過労で抵抗力が弱っていたところをやられてしまったらしい。乾燥した冬季ということもあって、巷で大流行中のインフルエンザに感染していなかったことだけは不幸中の幸いだった。
 そして翌朝。様子を見に来た三月から事のあらましを説明され、冒頭の台詞に戻る。
 自分の体のことでも、仕事のことでもなく、真っ先に陸の事に言及した一織に三月は思わず小さく吹き出してしまった。
 一織は眉をしかめてなお言い募る。
「笑い事じゃ、ないですよ。あの人絶対下手な世話焼こうとするでしょ。もし移ったら、取り返しが……けほっ」
 呼吸器系の疾患を持つ陸はそもそも体もあまり強くなく、風邪とはいえ移ってこじらせたら命取りになってしまう可能性がある。自分のせいでそんなことになったら、一織は絶対に自分を許せない。
 そんな弟の気持ちを分かっていたから、三月は一織の主張を遮った。
「あー、喋んな喋んな! そこはみんな分かってるよ、オレも止めたし今大和さんも止めてっから」
「……そうですか」
 確かに、一織がちょっと耳を澄ませるとなんだか言い争いをしているような声が聞こえた。脳が熱のせいで満足に機能していない今、何を言っているかまでは聞き取れなかったが。
 それでも、今日の予定を思い出した一織はハッと気づいた。
「そういえば、七瀬さん、今日は午後オフじゃ」
「大丈夫、マネージャーが仕事入れてたから夜まで帰ってこないよ」
 本当は一織が今日こなすはずだった仕事の一部を肩代わりするためだったのだが、そこまで三月は言わない。
 代わりに、安心させるように一織の額に手を当てる。
「とりあえず、今日と明日はドクターストップもあっから仕事は全部休みな。予定はマネージャーが調整してくれたから心配しなくていいぞ。
 あと、オレたちみんな今日は出払っちまうけど、なるべく早く帰るようにするな。昼は粥作って置いとくから、食えそうなら食えよ」
 三月の言葉に、一織は黙って頷く。額に当てられた手のひらの感触がひんやりと心地よく、兄の優しい声とあいまって一織の心を落ち着かせていった。
「スポーツドリンクと、水と薬はここな。分かってると思うけど水分はなるべく取っとけ。あと、スマホもここに置いとく。つらくなったらいつでもいいから連絡しろよ」
「……ありがとう、ございます……すみません、マネージャーにも……」
「いいって、気にすんな? じゃあちゃーんと寝てるんだぞ、パソコンとかいじんじゃねえぞ?」
 そう言って、三月はニカッと笑顔を一織へ向けてから部屋を去った。
「……」
 急に、部屋の中が静かになる。
 さっきは聞こえていた言い争いのような声も止んでいた。部屋を暖めようと動いているエアコンのほかは、何一つ物音がしない。みんなもう出かけてしまったのだろうか。
(……不覚です)
 ようやく落ち着いて自分の状態を省みた一織は、情けない気持ちで呟いた。喉が腫れて声が出ないので、口の中だけで。
 三月いわく昨晩より多少熱は下がったようだが、とてもまともには動けない。体調管理には特に気をつけていたつもりなのにこんな状態に陥るとは、パーフェクト高校生の異名が形無しではないか。
 明日には治るといいのだが――そんなことをぼんやりと考えながら、一織はとろとろと不安な眠りに落ちていった。

         ◆

 その日は実に長い一日だった。というより、ほとんど時間の感覚がなかった。
 かろうじて昼の時間帯にはふらつく足でキッチンに行き三月が作った白粥を食べてみたものの、味がほぼ分からなかった。結局茶碗一杯も食べられず、片付ける力も無かったのでキッチンにそのままにしてしまう。
 あとは普段と違う寝床の中で、うとうとと眠りの際を彷徨ってばかりだった。目が覚める度、ひょっとしたら熱が下がっているのではないかと期待する。しかし、血液が煮立つかのような熱さはいっこうに冷める気配がない。ペットボトルからなんとか水を一口含むように飲んで、体温計を耳に入れた。ぴぴ、とすぐに音を立てたそれを覗き込む――三十八・二度。
「……」
 ため息すら、喉に引っかかって上手く出てこない。儘ならぬ身体を情けなく思うところまでが一セットで、そんなことを何度繰り返しただろう。そこでようやく、一織は己がけっこうな重症だったことを自覚した。というのも病院にいた間はほとんど意識がなかったからだ。
 思うように動かない身体とそして脳。いっかな良くなる気配のしない症状に、一織は焦燥と心細さを覚える。こんなところで寝ている場合ではないのに。IDOLiSH7がもっと大きくなるためには、日々の仕事のひとつひとつが大事なステップだ。それを、パーフェクトな仕事ができるはずの私がふいにしてしまっている――そう思い詰めることこそが倒れた理由でもあるのに、今の一織はそれにも気づかない。
(……あなたも、いつもこんな気持ちなんですか)
 脳裏に浮かんだのは、一織がいっとう愛している、星のように煌めく笑顔だった。ステージに流れ星を降らし、自分たちを高みへ連れていくセンター。その身にいつ爆発するか分からないものを抱えている、大事な人。
 陸は体調を崩す度、無理に作った笑顔で「ごめんね」と「ありがとう」を言っていた。彼も、いつもこんなもどかしい思いでいたのだろうか。
(……七瀬さん)
 今日はまだ一度も彼の顔を見ていない。そのこと自体は決して珍しいことではないのに、今は何故だか胸が苦しいと思う。
 ――早く治したい。そうでなければ、何も望むことができやしない。
 枕元に置いたスマートフォンが振動して、ラビットチャットの通知を伝えた。三月からの様子を窺うメッセージだ。一織はぼうっとする頭で短く返信を送ると、頭まで布団の中に潜り込んだ。

 そんな一織が何度目かの眠りから覚めた時、寮はざわめきを取り戻していた。
(……!)
 そこで、一織は気づく。少しだけ体が楽になっている気がする。少なくとも、能動的に周りの様子を窺えるくらいには頭が回復しているのが分かった。
 最後の眠りはそれまでより少し長かったようだ。夕飯時なのだろうかと、一織が時間を確かめようとした時、部屋のドアが静かに開いた。
「あ、一織? 起きてたか」
 ひょこりと顔を出したのは三月だった。両手には茶碗とコップを置いた盆を抱えている。その後ろから、別の人物の声が聞こえてきた。
「ねえ、やっぱりオレも……」
(七瀬さん!?)
 一織は思わず体をこわばらせた。――あれだけ言ったのに、この人は!



+ + + + +

[ 20/20 ]

[*prev] [next#]
[もどる]
[しおりを挟む]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -