【同人誌サンプル】瑠璃の空に響け紅の唄


<サンプル1>

 提灯の明かりでも数歩先が見えぬほどの時間帯であるのに、その一角は別世界のように煌々と明るい。紺瑠璃のこざっぱりとした小袖を折り目正しく身に着けた端正な顔立ちの青年、一織は初めて訪れるその場所を唖然と眺めていた。
 周囲の建物より数段高い、木を組んで作られた大仰な門。城でもないのにぐるりと張り巡らされた深い濠。その向こうには、紅に塗られた長屋の列と豪奢な妓楼の数々が並ぶ。
 ――ここは艶町『愛七』。人々が刹那の恋を交わし合う、夜の都である。大店の跡取りに指名されている、この真面目な青年が訪れるような場所ではなかった。
「どーだイチ、初めての艶町は?」
 隣に立つ男、二階堂大和が三白眼を細めて楽しそうに笑った。柳染の小袖に若芽色の羽織を引っ掛けた出で立ちで、笑っていても飄然とした態度が印象的だ。彼は瓦版の制作を生業としているのだが、一織の店の常連客でもあった。
「……なんというか、すごい場所ですね」
 ため息とともに一織は呟いた。店に来る男たちの話で噂には聞いていたし、どんな場所なのか事前に調べてはいたつもりだったが、実際に目にすると印象がまるで違う。ここは同じ町の一角であるのかと疑いたくなるほど、派手で賑やかだった。
「……このどこかに、兄さんがいる……」
 袖の下で、一織はぐっと拳を握り締めた。今日の彼は一夜の火遊びを愉しみに来たのではない。人を捜すために、この魔境へ足を踏み入れようとしている。そんな初心な青年を三白眼で見やり、大和はくっと喉の奥で笑った。
「んじゃ、俺の馴染の見世に行くとしますか」
「お願いします」
 理知的な灰青(はいあお)色の瞳を引き締めて、一織は草履を履いた足を門の向こうへ踏み出した。
 
  (中略)
 
「いらっしゃいませ……」
 楚々とした囁き声が聞こえた。かと思うと、一織から見て上手側に並んでいた襖がすっ、と開く。
「……!」
 真っ先に一織の目に入ったのは、紅に燃え上がる癖のある髪だった。その色に合わせて染められた深緋色の打掛には、色とりどりの絹糸で艶やかな花々と鳥が刺繍されている。豪奢な長い裾を静かに引きずって現れたその娼妓は――直後、がくりと膝を折った。
「わぁっ!」
 悲鳴を上げたのは一織ではなく娼妓の方だった。さっきの楚々とした声はどこへやらの、間抜けな声である。危うく倒れそうになったのを、娼妓はすんでのところで踏ん張った。
「……し、失礼しました」
 綺麗に化粧した、艶やかな格好とは不釣り合いなほど幼い顔で娼妓は照れ笑いを浮かべた。思わず支えようと伸びた一織の手は、行き場を失って宙に浮いている。それが目に入っているのかいないのか、娼妓は一歩後ろに引くと、さっき踏んづけた裾を優雅に捌いてにっこりと微笑んだ。
「初めまして、オレ、『七瀬』っていいます」
 林檎飴のような丸い瞳がぱちぱち、と瞬く。それだけで、一織は不覚にもすっかり飲まれてしまった。娼妓――七瀬はどこか甘えたような声で一織に尋ねる。
「主さん、お名前はなんていうの?」
「……『和泉屋』の、一織です」
 名乗ったあとで、一織は何を馬鹿正直に言っているんだろうと自問した。わざわざ屋号まで言うことないでしょうに。
「一織さん! 素敵なお名前ですね。まずはお食事どうですか? お世話して差し上げますよ」
 にこにこと『七瀬』は笑顔で一織に話しかける。本当に色仕掛けで男たちを誑かす娼妓なのかと疑いたくなるほど、七瀬の表情と声は無邪気そのものであった。
「座って座って!」
 肩に手を乗せられ、ぐいと強制的に座布団の上に座らされる。――その拍子に、七瀬の裾が、今度は食事の支度がされた膳に触ってしまった。
「わっ!」
「!」
 がたっ、と嫌な音を立てて膳が畳の上を滑る。その拍子に、小鉢から漬物や煮物が零れてしまった。
「わあぁ、ごめんなさい……!」
「……あなた、本当に娼妓なんですか……」
 思わず一織からため息が出てしまう。この短時間で二回も粗相を働いている。立ち居振る舞いも子供っぽくて、艶やかさの欠片もない。今も七瀬は、一織に渋い顔をされてしょげ返ってしまっている。
「すみません、今すぐ代わりを……」
「構いませんよ。畳にこぼれた訳ではないんですから、食べられます」
 ――どうせ食事を愉しみにきたのではないのだ、どうということはない。
「それに、あなたこそ着物は大丈夫なんですか?」
「えっ……あ!」
 言われて初めて気づいたのか、七瀬は慌てて打掛の裾を検め始める。素直な人だな、と一織は少し笑いそうになってしまった。
 どうやら着物は無事だったようで、ほっと七瀬が笑顔を取り戻して言った。
「大丈夫でした! 優しいんだね、一織さん。オレのことも心配してくれるなんて」
「……別に」
 林檎飴の瞳に真っ直ぐ見つめられて、一織は思わず目をそらしてしまった。別に心配したのではない、なんとなく見ていられなかっただけだ。
「食事の世話はいいです、自分で食べられます」
 照れを振り切るように、一織はさっさと伏せられた椀の蓋を開け始める。途端、七瀬がまた慌て始めた。
「えっ、でも」
「あなたに任せていると今度は食事がなくなりそうですし」
 ついでに、往生際の悪い娼妓へ痛烈に釘を刺してやった。すると七瀬は、
「……一織のいじわる」
 ぷう、と頬を膨らませて嘯いたのである。何気にもう敬称も取れている。
(ぐっ……)
 一織は思わず臍を噛んだ。またしょげるのかと思ったらいじける方にいくなんて。これは娼妓としての手練手管のひとつなのか、それとも素なのだろうか? さっきから七瀬の振る舞いが一織のツボ以外を突いてこない。
「……あ」
 七瀬が振り向いて声を上げた。それにつられて一織が顔を上げると、七瀬が入ってきた方の襖が再び開くのが見えた。そこから、楽器を携えた若い娼妓がふたり敷居をまたいでやってきた。七瀬の顔が再び明るくなる。
「じゃあ一織、代わりにオレの唄聴いていって! これだけは自信があるんだ」
「唄……ですか?」
 狭い座敷の端と端に、三味線と小太鼓を持った娼妓が座す。その間に七瀬が立って、優雅にお辞儀をした。
「それでは、暫しお楽しみくださいませ」
 べん、と三味線の弦が弾ける。一方で、小太鼓が慎ましく調子を取り始める。それを聞いて、七瀬が息を吸った。
「♪――」
 最初の一節を聴いて、一織は目を瞠った。
(これは……)
 朗々と響く声。伸びやかな旋律。人の唄う声など、町人生活で聞く酔っ払いのだみ声くらいなものだった一織にとって、七瀬の唄は衝撃的だった。思わず食事を忘れ、息をするのも忘れて一織は身を乗り出した。
 一夜の恋に震えるふたりを描く、そんな唄の内容に合わせて、七瀬の表情がくるくる変わる。時に微笑んだり、時に切なく目を伏せたり。詞の言葉はほとんど一織の頭に入ってこなかったが、まったく問題にならなかった。七瀬の表情がすべてを語ってくれるからだ。
 そうしてひたすらに、一織は彩り豊かに奏でられる声に聞き惚れていた。瞬きも忘れている間に、一曲が終わってしまう。
「……いかがでしたか?」
 はっと気づいた時には、七瀬が目を輝かせながら一織の感想を待っていた。
「すごかった、……です」
 一織は呆然としていた。自分が何を喋ったか気づくのに半拍かかってしまうほどに。
「こんな綺麗な声は、初めて聴いたような気がします」
「ほんと!?」
 途端、七瀬の顔が輝いた。本当に子供のような反応だ。それを目の当たりにして、一織の胸がざわつく。
「ええ。……ただの間抜けな娼妓ではなかったんですね」
「あー、またそういうことを言う!」
 今度はまた頬を膨らませて文句を言ってくる。こういうところが、確かに七瀬の娼妓としての武器なのであろう。
 絆されるな、と一織は胸の内だけで呟いた。今夜は、火遊びに来たのではないのだから。改めて自分に言い聞かせる。
「じゃあ、もう一曲聴いてください」
 再び七瀬の声が座敷に満ちる。けれど、冷静な思考を取り戻した一織はもうそれに夢中になることはなかった。
 ただ、それでも七瀬の唄声は美しい。そう思ったのだった。

「それでは、失礼いたします。主様、ごゆっくり召されよ」
 演奏が終わり、楽器持ちの若い娼妓が座敷を下がる。いよいよだな、と一織は思った。ここから先は娼妓と客の二人だけの時間だ。誰にも邪魔されることはない。そして娼妓には客の機密を守る義務がある。そう一織は事前に『調べていた』。
「ねえ一織、オレといいことして遊ぼ」
 いつの間にか敷かれていた薄い布団の前で、七瀬が甘えたように微笑んで待っている。豪奢な打掛がしどけなく肩から下がっているのは、これから行うことを暗示しているのだろう。だが、一織にそのつもりはまったくなかった。
「私は遊ぶつもりはありませんよ」
「……え!?」
 七瀬は面食らったようだった。当然だろう、妓楼を訪れる客の最大の目的は、春を売ることを生業とする娼妓たちとの行為なのだから。
「……それは、オレが嫌いだから……?」
 瞳を潤ませて七瀬が小首を傾げた。悲しい、と素直に訴える表情に、また胸がうるさくざわついたが、一織はそれを見なかったことにする。
「違います。私は最初から誰とも遊ぶ気はない、と言ってるんです」
「そう、なの……? じゃあ、どうしてここに」
「人を探しているからです」
「人? ここに、誰か一織の知り合いがいるの?」
「分かりません。けれど、この『愛七』のどこかにはいると聞いています。でなければこんなところにわざわざ来たりしません」
「……」
 七瀬の戸惑った瞳に向けて、一織は真っ直ぐに尋ねた。
「あなたは、『三月』という方を知りませんか」


<サンプル2>

 昼下がりに、大和は町外れをひとりで歩いていた。手に菓子の入った風呂敷包みを下げながら。
(イチ、今日はいなかったな)
 代わりに店番を務めていたのは、不機嫌そうな顔をした大柄な青年だった。いおりんは外回り中だぞ、とわざわざ教えてくれたのである。まあ、会ったところで今は何と伝えればいいのか今の大和には皆目わからなかったが。
 とりあえず手土産だけ手に入れて、大和は目的の場所を訪ねようとしていた。商店で賑わう川沿いの通りから外れ、人家もまばらになりかけた場所に立っている、とある長屋だ。若草色の地に『薬』という字が白く染め抜かれた暖簾がかけられている。
 大和が軽く戸口を叩くと、中で何か作業をしていた男がぱっと顔を上げる。彼は牡丹色の瞳を輝かせて手を振ってきた。
「おっ、大和じゃーん! いいところに来たね」
「百さん、こんちは」
 大和はぺこりと頭を下げた。牡丹色の瞳の男――百は、鼠色の作務衣をぱっぱと払って立ち上がる。その手には一枚の紙を持っていた。
「ちょうど次の錦絵の下絵ができたとこなんだー。今回も自信作だよ!」
 じゃーん、と言って、百は大和へ持っていた紙を渡した。そこには見事な筆致で美男の役者が描かれている。大和はそれを受け取って再び頭を下げた。
「これはいい宣伝になりますね。いつもありがとうございます」
 すると、百はニカッと笑いながらとんでもない、と言った。
「大和が瓦版で絵を広めてくれるおかげで、モモちゃん忙しくしていられるんだよ! お礼言うのはこっちだって」
 百の生業は絵師で、錦絵の版のもととなる下絵を描くのが仕事だった。一方、大和は町々の噂話や事件を読み物、すなわち『瓦版』にまとめて売り歩く『読売』である。大和が作る瓦版に百の描く絵を載せる代わり、宣伝料を大和がいくらか貰うというやりとりが、この二人の間でされているのだった。何かの宣伝のために百が役者の絵や商品の絵を描くときは、その商店や団体から金銭を貰うということもある。
 百は大した腕前の絵師で、特に役者絵は世の女性たちを夢中にさせている。つまり儲けもかなりのもので、大和が妓楼に足繁く通えているのは、ひとえに百が出資者(パトロン)になってくれているおかげだった。
「いやいや、俺の方がいつも助けられてますから。なんにせよ、これは確かに受け取りました。次の号楽しみにしてくださいね。……それと」
「ん?」
「千さん、います?」
 大和は少し躊躇いながら訊ねた。大和がここを訪れた本当の目的は、この家に住むもうひとりの人物だったのだが、大和の苦手な人物でもあるのだ。
 百はぽん、と手を叩いて答えた。
「うん、いるよ。今呼ぶからちょっと待ってね。……ユキー! ちょっと来てー!」
 奥の方へ振り向いた百が大きな声で呼ぶ。寝てたらいいんだけどな、なんて大和は考えたが、もちろんそんなことはなく。
「なにモモ、お客さん?」
 月白の髪を垂らして編んだ長身の男が、のっそりと店の奥から現れたのだった。彼は大和の姿を認めると、口の端を上げて言った。
「やあ、大和くんじゃないか。この間も来たばかりじゃない?」
「……こんちは」
 とりあえず挨拶だけ述べて、大和は手に持っていた風呂敷包みを差し出した。
「お土産? いつも済まないね」
 月白の髪の男――千は包みを受け取るだけ受け取って、すぐに脇へのけてしまう。今日はこの場で開ける気はないらしい。大和ははぁとため息をついた。千は気まぐれな男で、土産を開けてくれるかどうかはその時によって違うのだ。
「今日は開けないんすね」
「うん。それより、君の顔つきの方が気になってね。浮かない顔じゃないか」
「……」
 ――そりゃ、あんたと顔合わせてるからですよ。
 と、よっぽど言ってやりたい大和だったが、言ったら言ったでひどい目に遭うのが落ちだ。それが分かっているので、曖昧に笑顔を浮かべるだけで収めるのだった。千はそれ以上踏み込まず、事務的に大和に尋ねた。
「それで、今日もいつもの薬?」
「ええ、お願いします」
「わかった」
 頷くと、千は店の棚からいくつか薬草を取り出してその場で調合を始めた。暖簾が示す通りこの長屋は本来薬屋で、千はこの店の主であり、薬師でもあった。
「本当は、その子がこっちに来られればいいんだけどね」
「……俺もそうしたいんですけどね、なかなか」
 大和は苦笑した。言うまでもなく、大和が千に注文しているのは七瀬の持病を軽くするための薬である。千は患者が妓楼の中に閉じ込められていることも知っていた。
「まあ、仕方ないんだろうけど。君が救い出すわけにはいかないのだろうからね」
「……」
 千の言葉は大和の痛いところを突いていた。確かに七瀬と昔馴染みである大和には、七瀬をあの妓楼から出そうと働きかける十分な理由があった。にもかかわらず、今まで大和にそれができなかったのは、やはりもうひとりの存在があったからだ。
 大和にとって、一織の悩みはけっして他人事ではないのだった。
「さて、これでいいかな」
 千が手早くいくつかの薬包を作り、籐籠に入れて大和に差し出す。白の包みが日常で服用するもの、赤が発作を起こした時の緊急用だ。中身を見て大和が頷いた。
「はい、大丈夫です、ありがとうございます――」
 だが、受け取ろうと大和が手を伸ばしたところで、籐籠が引っ込められた。
「ちょっと、千さん」
「その前に。何か気がかりなことがあるんだろう?」
「……」
 大和は思わず頭を抱えた。これだからこの男が苦手なのだ。気まぐれなくせにお節介、しかも触れて欲しくない時に限ってこちらの変化に気づいてくるから。
「僕は薬屋だからね、馴染みの顔の具合くらいわかるよ。……話してごらん」
「……どうしてもっすかね」
「うん。どうしても」
 千はあくまで柔和な笑みだったが、彼の銀灰色の瞳は真摯に大和を見つめていた。
「君は黙っていると碌なことを考えないからな」
「……。間違ってねぇんだよなあ」
 大和はがりがりと頭を掻いた。結局のところこの男にはどうしても勝てない。分かっているから、苦笑しながら受け入れるしかないのだ。
 言葉を探すように視線をあちこちに彷徨わせると、ずっと顛末を見守っていた百の、牡丹色の瞳と目が合う。
「――あ」
「ん、どったの大和」
「……百さんが身請けされた時って、どんな感じだったんすか」
「お、それ聞く〜? ユキとオレの馴れ初め話!」
 百が頬を染めて笑った。そう、彼はもと娼妓である。艶町のある妓楼で働いていたところを千に見初められて身請けされたのだった。
 もっとも、そのせいで千は家を勘当されたとか、当の百とも紆余曲折あったとかで、一筋縄ではいかなかったらしいが。
 思わぬ質問だったらしく、千も口に当ててくく、と笑った。
「藪から棒に、面白いこと聞くね。大和くんがそういう話に興味あるなんて」
「……興味ある、つか」
「誰か、買いたい子がいるんだ? やっぱり、薬持ってってあげてる子?」
「……まあ、そんなとこです」
 大和の曖昧な返事を聞いて、千は銀灰の瞳を細めた。おそらく大和の答えが本当の答えと違っていることを察したのだろうが、それ以上は訊かずに話し始める。
「まあ、すんなりとはいかなかったよ。肝心なところで、モモがなかなかうんと言ってくれなくてさ」
「え? そうなんすか」
 大和が三白眼を丸くした。
 そもそも、客と娼妓のやりとりにおける意思決定権は常に娼妓の方にある。客がどんなに身請けを望もうと、娼妓が承諾しなければ叶わないというのは、妓楼の常連である大和だって承知している。
 しかし、実際に身請けされる側がうんと言わないというのは、どういう状況なのだろうか。――娼妓は、その幸運を藁にも縋る思いで待っているものではないのか?
 答えたのは、当の百だった。
「だってさー、ユキってばいろんな子と遊びまわってるって、その時仲間内でも有名だったんだよ!? なんでオレなんかとって、最初ビックリしたんだから!」
「……へぇー」
「誤解だよ大和くん。ていうかモモ、あの時も言っただろう。言い寄ってきたのは相手の方からだって」
「でも結局遊んでは捨ててってやってたんでしょ! 外から見たら同じだって」
「……へぇー……」


<サンプル3>

「……うん、そう、帯はここから外すの」
 布団の上に座って、七瀬が甘い声で一織に囁いた。右手がそっと掴まれて、促されるまま七瀬の身体の前で複雑に結び合わされた帯を解いてしまう。すると、七瀬の身に着けていた豪奢な厚い布地が緩んで、白い胸元がほんの少し露になった。それを見てしまった一織は思わず唇を噛む。
 こんなことをしてはいけない、そう心の中で警告する声は微かだった。これが鍛えられた娼妓の手練手管というものなのだろうか。この状況に抵抗しようとする理性も羞恥も、七瀬の微笑みに、一織の顔や身体の表面をそっとなぞる手指に、何より餡子のようにやさしい甘い声に宥められてしまう。
「すごく上手だよ、一織は器用だね」
 唄うように七瀬が言った頃には、七瀬は裸に襦袢を引っ掛けているだけのしどけない姿になっていた。自分と同じ、平らで――しかしずっとすべらかな胸と、その真ん中でぽつりと色づく薄紅梅に、一織はかっと頬を熱くする。
 しかし七瀬は照れも恥ずかしがりもせず、小首を傾げてこう言うのだった。
「一織は脱がないの?」
「っ……私は、そういうのは」
 潔癖な一織は肌を人に見せるのを好まない。着物はいつも折り目正しく着て、湯屋へ出かける時もなるべく人の少ない時間を選んでいた。身体を重ねる時はもちろん脱ぐものだとは一織も承知していたが、彼の初心さはそれを許す気になれなかった。
 頬を赤くしたまま目を反らす一織を見て、七瀬はくすっと笑う。
「じゃあ、オレが脱がしちゃうよ?」
「はっ……?」
「肌と肌が触れ合うのって、ホントに気持ちいいからさ。だから、一織ともぎゅってしたいの」
 そして、七瀬の細い指先が一織の帯を解き始めた。当然のことながら娼妓の着物よりずっと簡素な一織の小袖はあっという間に緩んでしまう。
「ちょっ、七瀬さん……!」
「わあ、一織って肌白いんだね。すごく綺麗」
 子どものように声を上げて喜ぶ七瀬に、一織はますます羞恥で居た堪れなくなった。そんな一織に、七瀬は甘えるように促してくる。
「ねえ一織、ぎゅってしたいよ。オレも寒いから」
「……仕方ありませんね」
 こんなことになっているのは七瀬が頼むからだ。私の意志じゃない。
 そう結論付けて、一織はついにこの異常な状況に飲み込まれることを承知した。七瀬が誘うまま、胡坐をかいた上に七瀬の裸の身体を抱き寄せる。
「……!」
 驚いたことに、嫌悪感はまったくなかった。触れ合わせた肌は滑らかで温かくて、背中にしがみついてくる腕を感じただけで胸の奥が甘く疼く。確かに七瀬の言う通り、気持ちいいといって差し支えない感覚だった。
「ふわ……きもちいいな」
 思わず、といった風に七瀬がため息を零す。その上甘えて首元に額を擦り付けてくるものだから、一織は七瀬を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めてしまった。いったい何なのだろうか、これは――一織は泣きたいような気持ちで自問する。胸の中の空隙を温かいものが満たしてくれるような、けれど、小さな棘に触れて痛いような感覚は。
 たとえ仮初のものでも、いま一織が感じているのは間違いなく幸福だった。
 ずっとこのままでいたいと思ってしまった。だがもちろん、二人は単に抱き合う為に衣を脱いだのではないのだ。
「っ……!」
 ぞわ、と不意に一織の背筋をくすぐったさが走り、息を飲む。七瀬の手のひらが、一織の剥き出しになった背筋をそっと撫でたからだ。
「な、なにするんですか」
「一織、オレのことも触ってよ」
「はっ……?」
「一織がオレのこと、どんな風に触ってくれるのか、知りたいんだ」
 ね、と七瀬が林檎飴の瞳を細めて懇願する。娼妓としての艶っぽさと、七瀬生来の無邪気さが混じり合って、その表情は一織を猛烈に誘引する。逆らうことはできなかった。
「……どこに触れたらいいんです」
「どこでも。一織が触りたいところでいいよ」
 そう言われても困るんですが――一織は眉をしかめたが、要は相手の気持ち良いところを探していけばいいのだ、と、どこかで誰かが自慢げに語っていたのを思い出す。あれは大和の台詞だったかもしれない。それに追随して別の誰かの影が脳裏に浮かびかけたが、一織はそれを無視して七瀬のあどけない顔をじっと見つめた。
「わかりました」
 七瀬に答えるというよりは、自分に向かって宣言するように一織は告げて、七瀬のまるい頬にそうっと手のひらを添えた。しょっちゅう一織に向かって膨らむ頬は見た通りに柔らかい。何度か撫ぜると、七瀬が照れたように頬を染めて笑った。
「ん……くすぐったいよ」
 一織はどきりと心臓を高鳴らせた。――かわいい。
 初めて会った時から、本当はずっと思っていた。でも敢えて知らない振りをしていたのだ。けれど今は、そんな意地を張ることすら忘れた。
 もっと、七瀬の違う顔が見たい。そう思って、一織は頬に沿わせていた手をそっと首筋に滑らせていった。項に触れ、肩先を辿り、その度に七瀬はわずかな反応をみせた。それがどうにもたまらない。
 とうとう胸元に手のひらを押し当てた時、そこから伝わってきた感覚に一織は笑った。
「なんですか……緊張してるんですか?」
 指摘されて七瀬は拗ねたようにもごもごと言った。「だって、一織だもん」
「は?」
 呟かれた言葉が聞き取れず一織は首を傾げたが、七瀬は無視して自分の手のひらを一織の胸元に押し付けてきた。肌に感じた温もりに、一織が息を飲む。
「一織だって緊張してんじゃん」
「っ……あ、当たり前でしょう、こっちは初めてなんですから」
 思わず一織が目を反らしてしまうと、七瀬はごめんなと言って笑った。
「じゃあ、このまま……撫でて欲しいな」
「……ええ」
 七瀬が手のひらを一織の胸に滑らせる。それを真似るように、一織も七瀬の肌をそっと手でなぞった。すると、ん、と七瀬が鼻にかかった息を漏らすものだから、一織はますます釣り込まれていった。一方で、七瀬の愛撫がくすぐったいような気持ちいいような、捉えがたい感覚をもたらすせいで一織も息が上がってくる。抱き合っていた時のような泣きたいほどの幸福感とはまた違う激情が湧き上がり、一織の中に隠されていた肉欲を着実に暴いていく。ゆっくりと、でも、確実に。
「……一織」
 ねだるような響きに応えて、一織は七瀬の身体を抱き寄せた。けれど愛撫の手は止めない。だって七瀬が気持ちよさそうに林檎飴の瞳を蕩けさせているからだ。それは娼妓としての演技なのかもしれない、という考えすら、今の一織の頭には浮かばない。
 じっくりと、七瀬の肌の滑らかさを味わうように胸を撫でていたのだが、不意に手のひらの淵でつんと尖った何かを感じた。
「んっ」
 一瞬、きゅっと七瀬が目を閉じる。それを一織は見逃さなかった。
「七瀬さん?」
「……」
 七瀬は答えない。けれど、林檎みたいに染まった頬が答えのような気がした。一織は唇を引き結び、今度は明確な意思を持って、さっきよりも色づいた尖りに触れた。
「っ……!」
 一織の直感は正解だったらしい。七瀬は一織を愛撫していたはずの手で、一織の腕をぎゅっと掴んできた。今までにない反応に、一織はずくりと腰が重くなるのを感じる。
「……ここ、気持ちいいんですか……?」
 人差し指の腹で、硬さを増した尖りをそわそわとくすぐるように撫でた。それに敏感に反応して、七瀬は身体を震わせる。
「ぅ、そ、だよ……女の子じゃ、なくても、気持ちいんだよ、っ」
「そうでしたか」
 短く答えると、一織は七瀬の背中に回していたもう片方の手を引き寄せて、二つの乳首に同時に愛撫を与えた。形をなぞるように指先で撫でて、転がして、そうしてますます主張を始める先端を今度は優しく潰す。すると七瀬が額を一織の首筋に押し付けてきて、至近距離で上げる感じ入った声で一織をますます煽った。
「あ、……っ、いおり、や」
「嫌そうには、見えませんが」
「っだっ、て……一織、ほんとに、はじめて……ぁんっ」
 きゅう、と一織が指先で乳首を摘むと、七瀬は白い喉を弓なりに反らした。かと思うといきなり強い力で抱き着いてきて、一織の手の動きを止めようとする。だが一織は止めなかった、重なった肌に手を挟まれながらも、乳首を摘んだ指先の力に緩急を付けていく。
「んっ……! 一織の、いじわる……」
「あなたがそんな声で泣くからでしょう?」
「あっ! あぁっ」
 一織は薄く笑んだ。七瀬の喘ぐ声は甘く蕩けていて、耳から全身に媚薬の如く熱を注いでいく。――いつかの夜、七瀬のこの時の声を想像して嫌悪感に震えたことも、すっかり忘却の彼方に追いやられるほどだった。今や一織の理知的な灰青の瞳は、昏い欲望の色で染まっている。
 なお止まない愛撫に七瀬は唇を引き結ぶと、ついに行動に出た。
「だったら、オレの方だって……!」
「! な、七瀬さん……っ!?」
 首筋に生暖かい感触がして、一織はぞわりと身を震わせた。七瀬が肌に口づけているのだ。唇に啄まれると同時、ちゅっと濡れた音がして、反射的に身を捩らせる。
「なに、舐めてるんです……っ」
 一織の抗議を七瀬は無視し、柔らかい唇と濡れた温かい舌で、一織のまだ何も知らない肌を愛撫していった。ひく、と声もなく震える反応に気をよくしたのか、だんだん首筋から鎖骨へと、下の方へ身体を辿っていく。
「ぁっ……!」
 とうとう一織が喘ぐような声を上げた。七瀬が胸の先端をちゅっと吸い上げたからだ。
「っ、ぅ、ななせ、さん……!」
 一織は唇を噛んだ。くすぐったいのとも違う未知の感覚は、確かに快感と呼んでもよさそうなものだった。少なくとも、その気配は感じる。一織は慌てて七瀬の頭を掴んで引き剥がしたが、七瀬は上目遣いでこんなことを言ったのだ。
「でも、嫌そうに見えないよ?」
「……!!」
 かっ、と一織の顔が熱くなる。見事なまでの意趣返しにぐうの音も出ない。やはり七瀬は娼妓なのだ、いくら一織が頭の回る人間だと言っても、七瀬の方が彼の持ち場では何枚も上手だった。
「だって、一織もうおっきくなってる」
 弧を描いた唇でそう言いながら、七瀬は一織の逸物にそっと手のひらを押し当ててきた。途端、腰に駆け巡る直接的な快感に一織が息を飲む。一織自身も分かっていたのだが、そこはとっくに興奮して身を張り詰めさせていたのだった。だが改めて指摘されると忘れていたはずの羞恥が蘇る。妓楼に訪れても、決して抱くつもりのなかった娼妓にここまで劣情を催しているとは!
 紅潮した顔を思い切り反らす一織に、七瀬はにっこりと笑って言った。
「今から、オレのとっておき。気持ちよくしてあげるな」


+ + + + +


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