kissing




 断続的に、小さく濡れた音が響く。
 聴くつもりで流していた吹奏楽にそれが混じる度、神峰はわずかな羞恥に襲われた。けれどそれすらも、目の前の刻阪が仕掛けてくる口付けによって、どこまでも攫われてゆく。

 最初は、軽く触れ合わせるだけだった。
 誰もいない刻阪宅のソファーに並んで座って、ふと目が合って――離せなくなって。そうして刻阪の顔が近づき、あっと思う間もなく、ごく自然に唇を重ねられる。その柔らかさに一瞬、思考が止まった。
 ほどなくして唇が離れ、刻阪の深い色をした、綺麗な瞳にじっと見つめられる。一瞬にして形成された甘い雰囲気に、神峰がはにかんで笑みを浮かべれば、刻阪もまた微笑んで、もう一度口付けられる。
 柔らかく押し当てられては離れる、いたずらのようなキスの繰り返し。こんな軽い応酬はなんだか楽しくて神峰は好きだ。思うがまま、神峰からも口付けを返していく。遊びめいたやりとりなのに、唇を合わせる一回ごとに、頭の奥が痺れていく。まるで媚薬でも含まされたかのように。――もちろん、期待しているのだ。柔らかな重なり合いの奥にある行為を。
 知らず呼吸が浅くなり、神峰が唇を開いた。その瞬間、刻阪の唇に上唇を挟まれ、音も立てずに軽く吸われる。
「ん、っ」
 体に、それまでとは違う刺激が走る。思わず鼻にかかった声が漏れ、神峰はぱっと唇を離した。かっと頬が熱くなり、刻阪の視線から逃れるように顔を背ける。
 しかし、頬に手が添えられ、やや強引に刻阪の方を向かされた。
「逃げないで、神峰」
 秀麗な笑みを添えて、刻阪が低く囁く。それは決して強い言葉ではなかったけれど、神峰には呪縛にも等しく響いた。甘さと熱さを併せ持った『特別』な声音を前にしては、神峰に抵抗など出来ない。
「……っ、」
 お前が欲しい、ダイレクトに伝えてくる顔も心も見ていられず、神峰はぎゅっと目を閉じた。
「好きに、してくれ……っ」
 だいいち、既に体はしっかり刻阪の腕に捉えられている。もう逃げ場など何処にもありはしない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 耳元を撫でた声にびくりと震える間もなく、再び唇が重なった。

 何度も、唇だけを吸われる。時折唾液混じりのリップ音が鳴り、そればかりが妙に大きく聞こえた。聴くつもりで流していたはずの演奏は、神峰の耳には既に遠い。
 自分の唇を挟み込んでくる刻阪のそれは、いつも柔らかく潤っていた。サックス奏者として、きちんと手入れされているのだ。触れられる度に陶酔しそうになるのはそのせいだと、神峰は思うことにしている。対して、自分のは大抵少しかさついている。唇の手入れを気にしたことなどなかったのだから、当たり前なのだが。けれど刻阪とこういう行為をするようになってからは、やはり少しは気にした方がよいのだろうかと思う。
 しかし、一度リップクリームを塗った直後にキスした時の、刻阪の反応が脳裏に浮かび神峰は思い直す。――いやダメだ、もう二度とあんな激しいキスには耐えられそうにない。
「……神峰、どうしたの」
 一瞬上の空になったのを咎めるように、刻阪が問う。ほとんど触れ合わんばかりの距離で動いた唇が、神峰のそれをくすぐった。
「ん、なんでも、ね……っ」
 そう返し、神峰は自分から刻阪に口付ける。答えられるわけがない、答えたら絶対調子に乗られるに決まっているから。そうしたら神峰はひとたまりもないだろう。せめて、自分がついていけるペースで刻阪との行為に耽りたいのだ。
(大体、お前の事しか考えてねェよバカ)
 刻阪の問いを封じるべく、神峰は背中に腕を回ししがみついた。そんな反応に気を良くし、刻阪の方も神峰の体を強く抱き返す。ついで手のひらが神峰の後頭部を捕らえて、これで完全に神峰は逃げられなくなった。そうなってから、とうとう刻阪の舌が神峰の下唇に触れた。
(ん……!)
 そろり、そろりと舌先で撫でられて、喉の奥がごくりと鳴る。神峰はこれには弱いのだ、くすぐったさに近いもどかしさに、体を思わず捩ってしまう。お返しに刻阪へ同じ事をしようとしても、なかなか上手くいかない。どうしても自分に与えられる感覚を追ってしまうからだった。
 淡いいやらしさを含んだ動きに煽られて、早くもっと深く触れて欲しいと思ってしまう。それなのに、刻阪はゆっくりと唇をなぞる事を止めない。明らかに、神峰を焦らしにかかっているのだ。
「ぁ、とき……んっ」
 唇を離して訴えようとする時だけ、刻阪は神峰の唇を吸い上げて引き戻す。けれどそれ以上深くは決して触れない。刹那頭をもたげた期待をあっさり裏切られ、神峰の中に羞恥と寂しさが綯い交ぜになった複雑な感情が湧き上がる。
 刻阪の意地悪、ばか、と心の中だけで八つ当たりのように言うけれど、通じるはずもない。だって刻阪はこの状況を心の底から楽しんでいるからだ、そんなこと心を見なくても伝わってくる。唇と舌から、これ以上ないほどに分かり易い形で。
「……!」
 べろり、と舌の平全体でもう一度下唇に触れられる、絡みつくような感触に、ひくりと腰が反応した。――それが、神峰の中の羞恥心が引いた、最後の一線を超えた。
(ダメ……も、我慢できねェ……!)
 自分の唇と、舌、両方を使って刻阪の上唇を咥え、神峰にしては大胆に、それを吸う。一際大きな濡れた音が静寂の中で鳴り、神峰は震えた。音楽はもうとっくに止まっていた。それでも、膨れ上がった情欲に押され、わずかに緩んだ刻阪の唇の中へ、そっと舌を伸ばし挿し入れる。
「んっ、ふ……!」
 たちまち、刻阪からも伸びた舌が神峰の舌を絡め取る。溜まっていた唾液が神峰の顎を伝って落ちるが、そんなことを気にするどころではなかった。二人とも、やっと辿りついた深い行為に夢中になっていた。上顎を舐め、舌の裏側を舐められ、お互いの舌を擦り付け合う。その度、ぞく、ぞくと甘い感覚が体中を駆け抜けた。
「ん、んっ、……ふ、ぅ」
「……ふっ、……」
 喉の奥で、吐ききれなかった息がくぐもった喘ぎに変わる。激しくなったキスに比例して、先程よりも粘度の増した水音が響き渡った。
(刻阪、ときさかっ……)
 呼吸さえ奪われそうなキスに、頭がクラクラする。霞がかっていく思考の中、神峰は必死になって刻阪を呼んでいた。
 その時不意に、神峰の後頭部を固定していた刻阪の手が動いた。さらり、と、刻阪の繊細な指が、神峰の癖のある髪を梳いていく。慈しむような動きに、神峰の胸がきゅうと疼いた。
「はぁ……っ」
「……かみ、ね、」
 掠れた声で名前を呼ばれる。それだけでもう、たまらない気持ちになる。嬉しかった。生まれながら才能に恵まれ、人からも好かれる刻阪響が、自分だけをこんなにも求めてくれることが。
「ときさ……す、き」
 だから、こんな言葉が零れてしまうのも、自然で。
「僕も……好きだ、神峰……」
 だめだ、止まらない。殆ど息だけの声で呟いてから、刻阪は再び神峰の体を掻き抱いた。
「んぁ……ッ」
 舌を丸ごと刻阪の唇に吸われ、声が漏れる。完全にスイッチが入ったらしい刻阪が、それまでとは比べものにならないほどの激しさで神峰の咥内を弄び始めたのだった。歯列を隅々まで舐められ、舌の表面を擦られて、その流れでまた唇を吸い上げられる。何度も、何度も。
「ふっ、……ぐ、ぁ、ん……っ」
 こうなっては、神峰は刻阪の好きなように翻弄されることしか出来ない。元々遠慮など知らない刻阪のキスは、今となっては殆ど貪るといってもよかった。まったく神峰の意思などどこかに置いてしまったかのような強引さなのに、神峰には刻阪の為す事どれもが気持ちよくてたまらない。刻阪の舌が、唇が弱いところを責める度、神峰は敏感に反応してびくびくと震えた。
 最早自分の力では腰を支えられず、神峰の体は大きく傾ぎソファーの背に凭れてしまう。それでも、刻阪の唇は離れかけた神峰の唇を追い、刻阪の体もまた、傾いた神峰の体の上に伸し掛かる。
 酸欠と興奮で、心臓は今にも破裂しそうだ。これ以上は耐えられないと思うくらい胸がドキドキして苦しいのに、どうしてもやめたいとは思えない。
 ――だってどうしようもなく、幸せだから。どうしようもなく大好きな刻阪と、こんな甘い行為に溺れていられる瞬間が、好きで幸せでたまらないからだ。
「んぅ、んっ……!」
 苦しいけれど、止められなくて、もっと近づきたくて、神峰は殆ど力の入らなくなった腕で刻阪に縋りついた。するとそれに応えるように強く抱きしめられ、ぶわりと切ないほどの幸福感が弾ける。同時に、瞼の裏で星のような煌めきが散る。想いが体でも、心でも通じ合ったかのような感覚に、いつまでも浸りたいと神峰は思った。
「ぁっ……!!」
 なのに突然、神峰をまったく異質の感覚が襲った。神峰の無防備な体の線を、刻阪の手が辿り始めたのだ。背中、そして脇腹、羽で触れるように微かに撫ぜる動きは、否が応でもこの先の行為を示唆するもので、神峰はびくんと身を竦ませた。
「……っ、や、」
 明らかな意図を持った愛撫から逃れようと身を捩る間もなく、するりと腰を撫でられ、また体が跳ねる。体の中心に熱が集まり、息が上がる。頭の奥が真っ赤に染まっていく。――もう、堪えられない。
「ぅっ、ふ、やめっ……!!」
 やっとの思いで神峰は刻阪の背中を叩いた。必死の制止に、ようやく唇が離される。
 はあ、はあと神峰は荒い呼吸を繰り返した。久しぶりに吸えた新鮮な空気を取り込もうと、勝手に胸が上下する。体はもちろん、すっかり痺れて満足に動きもしない。神峰のそんな様子を、刻阪はじっと見下ろしていた。
 それに気付き、神峰は眉をしかめた。こちらはこんなに息を切らしているというのに、刻阪は涼しい顔で微笑んでいる。キスの名残といえば、せいぜい唇の端が濡れているくらいだろうか。
「……ずるい、」
「え?」
 未だ整わない呼吸の合間に呟けば、刻阪がきょとんと聞き返した。それがまた今は憎らしい。
「っんで、そ、な余裕、なんだよっ……」
 肺活量違いすぎ、となけなしの文句でぼやく。すると刻阪はふっと苦笑し、その表情を神峰が見たと思った瞬間、視界が反転した。
「へっ?」
 気づけば、目の前には刻阪の、何かを堪えるような笑顔と、それから――天井。神峰は、ソファーの上に押し倒されていた。
「あのさ」
 刻阪が神峰の手を取り、自身の胸元へぐいと引き寄せる。
「余裕なんて、あるわけない」
「……!」
 手のひらに伝わる感触に、神峰はまたも顔を赤らめた。胸に押し当てられた手の下、刻阪の心臓が速いテンポで、強くリズムを刻んでいる。神峰自身にも負けないくらいに。
「それに……神峰なら、分かるだろ?」
「うっ……」
 本当は、言わずともはっきり分かっていた。きつく閉じた瞼を透かすほどの煌めきが何だったのか、それが何を意味していたかなんて。
「まだ、足りないんだ」
 神峰の『見』たものをを裏付けるように、刻阪は言葉を続ける。刻阪は本当に正直だ、彼の放つ言葉は彼の示す心を絶対に裏切らない。
「もっと、お前としたい。……ダメかな?」
 神峰はごくりと唾を飲んだ。そんな、困ったような微笑みで、首を傾げて。でも瞳には、確かな欲望の焔を宿していて――好きな奴からそんな風に懇願されて、断れる者などこの世にいるのだろうか。
 けれど、素直にイエスと言えるほど、神峰はまだ人間ができていないので。
「……刻阪の、バカ」
 憎まれ口を一つ叩いて、神峰は自分から刻阪の首の後ろへ腕を回し、刻阪の顔を引き寄せた。それが何よりの答えだった。







end.


+ + + + +

スペースにお越しくださった皆様、ありがとうございました!
BONNOUだだ漏れでまこと申し訳ありません。

もっと色気のある文章が書けるようになりたいですね…。

Up Date→'16/7/16


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