Hopeful Morning over the Rainbow 1/2




 目を開けた時、部屋はしんと静まり返っていた。夜明けの薄明かりが、静かに空間を満たしている。
 晩秋の朝らしい、ひやりと澄んだ空気とは反対に、寄り添う体は温かい。
 隣で眠る刻阪響の整った顔を見て、神峰はようやく今が夢の中でないことに気づく。

 けれど、しんと静まり返っているはずなのに、彼の耳は遠くに響く音楽を捉えていた。
 視界は薄明りのグレー一色のはずなのに、彼の目には虹色の欠片が映っていた。

 全日本吹奏楽コンクール、最後にして最大の舞台である全国大会。
 そこで奏でた唯一無二の音楽が、今も神峰を捕らえ離さないでいる。

(だけど、もう昨日なんだ)
 胸の中で噛み締めるように呟き、神峰はそっと毛布に顔を埋める。
 会場のある名古屋から群馬に帰ってすぐ、刻阪家での全国大会金賞を祝うパーティーに誘われた。たくさんのご馳走と顔を輝かせたモコに迎えられ、賑やかに夜を過ごしたはいいものの、疲れがたたって刻阪と二人、倒れるように眠ったのが、昨晩。
 その間も、神峰の脳裏にはずっと「虹の音」が残り続けていた。

 ──あの音は、なんだったのだろう。
 正直なところ、どうして虹の音が「見」えたのか、神峰はよく分かっていない。

 ただガムシャラに「鳴苑吹奏楽部」のいい音を目指し、あのすさまじい心象の嵐に立ち向かおうとしていたら、気づいた時には雲間から光が射していたのだ。
 刻阪を中心とした鳴苑サウンドが、他人によって奏でられている音なのに、まるで自分の指揮棒から鳴らしていたような──指揮者と演奏者がひとつの音楽の総体になっていたような、不思議な感覚だった。
 何が虹の音を生み出したのか、どうしたらあの音を導くことができたのか。神峰は今でも分からない。
 けれど、一つだけ言えるとしたならば──

(……暑ィ、)

 顔を埋めた毛布に熱が満ちる。息が苦しい。
 冷たい空気を求めて顔を上げた途端、ぱちんと目が合ってしまった。
 同じく驚いたように丸く開いた、青みがかった黒の瞳と。
「と、刻阪……」
 隣で眠っていたはずの相棒、兼恋人は、その手のひらを不自然な位置に浮かせたまま、いたずらが見つかった子供のような顔で微笑んだ。
「なんだ、神峰……起きてたんだ」
 そう言って、伸ばしかけた手のひらで神峰の頬をそっと包む。
 柔らかな感触に、おはようと囁く声が相まって、神峰の胸がきゅっと詰まった。
「…は、よ」
 どうにもこそばゆくて、思い切り俯いて挨拶を返せば、刻阪がくすりと笑う。
「……笑うな、し」
「だって、神峰がかわいいから」
「……バカ言ってんじゃねェ」
「わ、こひゃやめりょて」
 お返しに頬をつねってやれば、顔の歪んだ刻阪が慌てて神峰の手を掴む。
 それで少しだけ溜飲を下げた神峰はおとなしくつねるのを止め、目を閉じた。刻阪に掴まれた手はそのままに。
 まったく、起き抜けに刻阪のきれいな顔立ちとなんのてらいもない行動は心臓に悪過ぎる。

 そうしてしばらく温もりと微睡みに身を任せていた神峰だったが、刻阪の気遣わしげな問いかけに目を上げた。
「神峰、昨日の夜辛くなかったか?」
「へ、何で?」
「だって、なんだか上の空だったから……モコと母さんがうるさいから引いたのかと思って」
「えっ…イヤ、んな事ねェよ?」
 神峰はごそごそと首を横に動かした。
「そう……? でも……」
「まぁ、ちょっとぼうっとしちまってたかもしんねェけど……」
 ご馳走とお祝いの言葉と、その他たくさんのお喋りでねんごろにもてなしてくれた事は、とても嬉しかった。けれど、それ以上に神峰の心を捕らえて離さなかったものがあっただけで。

「……虹の音について、考えてたんだ」
 会場をあとにしてから、今まで。ずっと考えていたことを打ち明ける。

「ああ。……綺麗だったな、すごく」
「刻阪にも、分かったのか……?」
「見えたわけじゃないよ。でも、最高の音だったのは分かったし、それに……お前が笑ってたから」
 つん、と刻阪が神峰の頬をつつく。揶揄するような仕草にまたも拗ねかけた神峰だったが、微笑む刻阪の表情はあくまでも優しくて、神峰は拗ねる代わりに刻阪の首元に顔を寄せた。
「オレ、笑ってた……?」
「うん、すごく楽しそうだった。お前のあんな顔が見られるなんて思わなかったよ」

 トランペットのファンファーレが嵐を切り裂いたその瞬間の神峰の顔は、まさに太陽の輝く晴れた空、そのもののような笑顔だった。あの笑顔に、鳴苑バンドの奏者たちはどれほど力付けられたことだろうか──もちろん、刻阪も例外ではない。
「僕も、死ぬほど楽しかった」
 擦り寄ってきた愛しい体を、刻阪はぎゅっと抱きしめる。
 大好きな指揮者の最高の笑顔と、強い絆で繋がった仲間たちと奏でた最高の音楽。このふたつが合わさった瞬間は何にも変え難い煌めきとなって、刻阪の心の中で強く輝きを放っていた。──きっと、これほどの舞台を味わえることはそう何度も無いだろう。
 感慨に耽りながら、刻阪は神峰のつぶやくような言葉を聞く。

「だけど……不思議なんだ。オレ、ホントにどうしたら虹の音が出るかなんて分からなかった。なのに、気づいたら綺麗な虹が出てて……スゲェ嬉しかった」
「うん、分かるよ」
「アレは……今思うと、スゲェ奇跡なんじゃねェかって、思うんだ」

 虹の音が奏でられたのは、自分の力ではない。嵐の最後の瞬間、300%で行けと振ったのは確かに自分ではあるけれど、それに応えたのは奏者たちだ。
 トランペットだけじゃない。サックスが揺るぎない芯となってくれたのも、低音楽器がすべての熱量を解放したことも、トロンボーンがかつてない精度で『正解の音』を叩き出したのも。
 そしてパーカッション、フルート、クラリネット、オーボエ、ホルン、ユーフォニウム──すべての楽器が最高の音を響かせてくれたのは、神峰の力だけではなく、神峰に応えようとした奏者の力があったからこそだ。

 だから、竹風の奏でた七色にも負けない演奏ができた。パートリーダーをはじめとする奏者たちが、すべき役割を自覚し、指揮者の為に心をひとつにまとまったおかげで、あれほどの演奏ができたのだ。
 その事をもちろん刻阪には分かっていたし、神峰も「分からない」なりに、あの演奏がどれほどの奇跡だったかを感じていた。
 
「だから……あの音は二度と出来ない気がして……寂しい」

 唯一無二の虹の音は、奏者があのメンバーでなければ。パートリーダーが彼ら彼女でなければ。
 導いたのが谺夕子でなければ、奏者と指揮者と指導者がともに過ごした一年間という時間の積み重ねがなければ、到底叶わなかった。
 夢中で駆け抜けた一年間が終わってみた今、神峰にはそう思えてならないのだ。
 
「ああ、そうだろうな」
 刻阪はただ同意する。音楽は技術と心で創る瞬間の芸術で、二度と同じものを創り出すことはできない。それをよく知っていたから、神峰の寂しさを否定しない。

「今日だって、楽器の片付けあるからみんなと会うし、来週は文化祭もあるからまた先輩たちと演奏できる。
 分かってるんだ、分かってんだけど……それでも、寂しいんだ、オレ……」
「うん、そうだな……寂しいよな」

 しがみつく神峰の背中を、刻阪はいたわるように撫でる。きっと、これは神峰が初めて経験する種類の喪失感なのだろうと思う。
 刻阪自身だって頭で分かっていても、この種類の寂しさはとても受け流せるものではない。

 けれど、二度と同じことができない音楽が持つ素晴らしさを、刻阪は知っている。

「だけどな、神峰……だから音楽は楽しいんだよ。同じ音をいつも出すことができないから、毎回何が起こるか分からなくて、楽しいんだ。
 ……今までだって、そうだっただろ? 初めて僕らがモコのためにした音楽も、音羽ヶ丘病院でやった演奏も、木挽歌も、天籟フェスも、リンギン・ガーデンも、幼稚園の演奏も、スプリングコンサートも、コンクールも……全部違う音楽で、それでも楽しかっただろう?」





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