「雨か」

一人心地に呟いたルーシーが新しい煙草を口に含んだ瞬間、彼の掌に水滴がぽつりと落ちてくる。ひんやりとした感触をぬぐい取り、空を見上げてみると額を打つ雨粒の量がどんどん増えていったので眉間に皺が寄っていくのを耐えることはできなかった。

マフィアであるルーシーは仕事が終わり、夜のイタリアを歩いていた。

何故だかすぐに帰る気は起きず、少しだけ遠回りして帰路につこうとした計画が過ちだった事を、降り出した雨が教えてくれた。寄り道せずに帰れってことだったのか。

しかし昼間まではあんなに太陽が高い位置にあったというのに、誰が天候の悪化を予想できただろうか。天気予報のチェックを怠った今朝の自分を傘で全力で殴り飛ばしたい。

小降りで収まってくれるだろうかと期待してシャッターが閉まっている軒下に潜り込むが、期待を盛大に裏切ってくれたようでますます酷くなっていた。

錆付いたシャッターに背を預けて、ぼんやりと雨降りの光景を眺める。夜に濡れた大通りは、数本の外灯が頼りない光で足下を照らしているだけで猫一匹見当たらない。数少ない光源だった煙草の火も無情に消されてしまって、肌寒い風と歌声にも似た雨音だけが息をしていた。

雨が止むのを待つのもいいが、それだといつ帰れるようになるのか分からない。明日も早く起きなければならないので、帰宅がこれ以上遅れるのは避けたい事案だ。

明日はこのコートを着ていけないな。ずぶ濡れになるのを覚悟し、ルーシーが軒下から頭を出した瞬間、どこからともなく差し出される白い傘に動きを止めた。そのまま視線を斜め下にずらし、此方をニコニコと見上げてくる女を無言で貫いた。

「やあ、随分と久しぶり。こんな所で出会うなんて運命かな?」

「運命ってものはどうやら故意に創りあげられるもんなんだな。初めて知ったよ」

ルーシーの視線をはねのけるような笑顔でわざとらしい台詞を吐く女に、軽く首を振る。薄らとした皮肉を笑って流し、くるりと傘の柄を回す。

「ウインクとは流石格好良い男がすると様になるね。その勢いで雨雲も口説いて君の家に連れ帰ってくれないかな」

「阿呆な事を言いに此処に来たのか、ルチアーノ」

弾かれた雨粒が目元に飛んできて、ルーシーは反射的に片目を閉じた事を揶揄したルチアーノが得意げな顔でもう一度傘を回転させた。薄く細められたブルーサファイアの瞳がルチアーノを見つめている。

「そんな意地を張らなくてもちゃんと入れてあげるから大丈夫さ、震えるキティを放って帰るほど私は薄情な女じゃないからね」

「自分より大きい男に子猫ちゃんなんていえるお前の神経を疑う」

溜息を一つつき後頭部に手を回す。やがて観念したルーシーが軽く背中を屈めルチアーノの傘の中に入った。背丈が小さい彼女に合わせて腰を曲げなければならない事に気づき、さり気なく柄を持とうとしたがさっと避けられてしまい、怪訝な表情を晒す。

「俺が持つよ」

「駄目だよ、今日は私がエスコートするって決めたんだから」

「エスコートしたいんなら俺の腰を案じてくれ。このままじゃブーメランみたいに曲がっちまう。良いのか俺が常に杖つきはじめても」

「そうなったら私が介護してあげるから安心めされよ、セニョリータ」

「小娘に介抱される気はまだねぇ」

「ルーシーはまだ若いんだから多少猫背になったところで支障はないでしょ」

ハハハと主導権を頑なに譲らないルチアーノに根負けする。こうなった彼女には変な意地のようなものが見え隠れしていて、懐柔するのも面倒くさいし今日ばかりはルチアーノの我が儘に付き合ってやることにした。

どうやってこの場所を突き止めたのかは分からないが、多分偶然だろう。夜の街を何らかの理由で歩いていたルチアーノが途方に暮れている自分を発見し、情け心で声を掛けてくれた。何故なら、ルーシーが此処にいることが前もって分かっていたら傘を二本用意するだろうから。

「雨、結構降ってきたな」

膝と背中を丸めて歩幅が小さいルチアーノに合わせて歩いていく。普段のルーシーからすると遅いスピードだろうに文句の一つも顔に出さず、我が儘に付き合ってくれるいつもより近い彼の横顔を見て、ルチアーノは頬を緩ませた。

傘は一本の方が都合が良いとは思っていたけれど、これは想像以上に心臓に悪いから次からは意地悪をせずにちゃんと黒い傘を持ってきてあげよう。

なんてことを思いながら「私がいて良かったでしょ。しかと感謝すればいいと思うよ」なんてあまり可愛くない台詞を囁いてやるのだ。


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