帰り道は魔性の生き物、いやあれらを生あるモノとして表現するのは間違いなのかもしれない。夕焼けに堕ちた帰路には暗闇が着々と迫っている。

久我は重い鞄を抱え直し、隣を歩いている榎本へと静かに視線を向けた。薄い笑顔を顔に貼り付け前を見据えている。

何処を見ているんだ、と尋ねようとした口は自然と閉じられていた。彼が何を見ているのか、気にはなるが突っ込んだところで厄介ごとに巻き込まれる可能性が浮上してくるだけで、久我の得になることなんてほとんどないのだ。

「いやあ、暑いな今日は」

夏場の暑さが彼の額に珠のような汗を滲ませながら榎本が言う。逢魔が時に連れ攫われてしまいそうな儚さだ。

夕陽は久我達から見て正面の路地へと落ちていく。斜陽の光を直接浴びるのは、身体が本調子ではない榎本にとってちと辛い筈だ。早く家へと送り届けて冷たい茶でも飲ませてやらねば。久我はそんなことを思いながら少し下の方にある榎本のつむじをじっと見た。

「確かに暑いな。氷菓子でも買うかい」

「氷菓子か。それはいい。勿論、君が出してくれるんだよな」

「何でそうなるんだ」

「提案者は君だろう。言い出しっぺの法則というものを使ってみたまえよ。おのずと私の分を買うのは君になるだろ」

「屁理屈を言えば言うほど舌が回って暑くなるぞ」

可笑しかった。榎本と帰路へつきながらこうして日常を誤魔化したような会話を繰り広げるのは。

普段は学校を休みがちな榎本と、学生ごっこを楽しめるだなんてこの先何度味わえるのは分からない。久我は無意識下でこの状況を楽しんでいた。榎本という変人と肩を並べて帰るのが楽しくて仕方ないのだった。

「今度、美味しい和菓子屋に連れて行ってあげるから今月は勘弁……」

「―――振り返ってはならないよ」

だからこそ、愛すべき日常を打ち消すような榎本の静かな声音に、久我の息が一瞬止まる。足をその場で止めそうになるが榎本は歩幅を大きくして先に進もうとしているのが見えた。仕方なく意味も分からず久我もそれに続く。

「夕方は逢魔が時とも言ってね。奇異なモノ達が集まりやすい―――いや、君にそんなことを言っても今更というものだな」

榎本が笑う。久我より先を行くその足取りは不気味なほどに重い。古びた木造の家も、灰色に朽ちた塀も、前にある夕陽の色彩に目が眩んだ。色がある世界は時折視界の暴力になりえた。

瞳の奥にある虹色の鏡が落ち着くのを待って、目を開けた世界から、色が抜け落ちていた。鬱陶しいほどに赤かった太陽も、軋んだ木の割れ目も、からからに乾いて干涸らびた灰色も、久我の世界から消え失せる。

前を歩く榎本だけが色彩を保ったまま、久我は白黒へと囚われていた。突然の事に声すら出ず、久我の異変に気づいていない榎本の影へと視線を落とす。

斜陽が生み出した長い影法師が舗装されていない道へと映っている。榎本を輪郭を鉛筆でなぞって鋏で切り取ったような影がそこにはあった。その影の周辺に赤いシミがぽつぽつと広がっていき、やがて榎本の影を汚い紅に染め上げる。

赤黒く滲んだ影法師から、めきり、めきりと骨が鳴る音がした。見てはいけないと本能が囁く。しかし逸らすこともできなかった。榎本の腕が歪な方向に折れ曲がる。いや、榎本じゃない。榎本の赤い影が四肢を、首を、関節を可笑しな方角へと倒して独りでに立ち上がる。首が一八〇度折れ曲がり、顔もない影が口を大きく開けた。身体の成分を全てぶちまけるような赤い液体をこれでもかと垂らしながら、久我を見て、化物じみた表情をうかべ

「久我、どうしたそんなに怯えた顔をして」

慈愛を満ちたその声で、目が覚めた。はっと荒く息を吐き出した自分が今まで息を止めていたことに気づく。酸素を求めて喘ぐ久我を、榎本は変わらぬ笑顔で見つめる。ゆっくりと下を見るが、影は当然赤くない。口も開いていない。久我を見て化物じみた笑顔も浮かべていない。

「夕暮れ時は可笑しなモノが多いから、夢幻でも見てしまったのだろうね。気にするな」

氷菓子はまた今度にしよう、榎本は久我の肩を軽く叩き耳元で囁く。

「―――そう、このまま遠くへ行こうじゃないか。ナニかに捕まってしまわぬように」

指先の震えを悟られぬよう、彼は自分の影法師を振り返らずに踏み出した。

ナニかは、案外日常の片隅で自分たちと入れ替わる機会をうかがっているのかも知れない。そんな恐ろしい夢幻を脳裏から消し去ってしまいたい。夕暮れが、そんな久我をあざ笑うように影を落とし続けた。
prev next
back

- ナノ -