夏の訪れを感じたのは、肌に滲んだ汗をぬぐい取った時だ。

街中から離れた場所に建っているこの中等部にも例外はない。昼から部活にいそしんでいた生徒達の声は蝉時雨に紛れてこの教室にまで届いてくる。久我は読んでいた書物から顔をあげた。和柄の栞を本に挟み机の隅に置いて、木目が粗い椅子から立ち上がる。

薄汚れた窓に近づいて外に視線を向けると、夕焼けに落ちた校庭を見ることができた。先程までは運動部員が駆け足をしていたのに、いつの間にか誰の姿もいなくなっている。右目に垂れてきている前髪を指で払いのけ、白く濁った右目に橙色が反射した。

「そろそろ、帰ろうか」

怪奇研究部の副部長である久我は夏休みだというのに、部活動という偽の名目を掲げて与えられた部室に通い詰めていた。

自分の他にろくに部員も活動指針も何もない空っぽの部活なので、じめついた教室を独り占めするのはたやすい。

冷房がないのが難点だが、元は机や椅子やら要らない物を片付けていた日当たりが悪い部屋なので、耐えられないほどではない。少し歩けば無料で水を飲むこともできる。暇つぶしは本が一冊あれば満足だし、それも飽きれば外を眺めていると一日が終わっていく。

身支度を整え(といっても、最低限の物しか持ってきていない)、当番で職員室にいる教師に鍵を返しに行こくため窓際から離れたのと同時に、立て付けの悪い引き戸が開いた。右目が一瞬見開かれたが、入ってきたモノの顔を見ると訝しげに細められる。

「やあ、夏休暇でも部室に訪れるその心意気は流石副部長といったものだな」

「榎本か。暑いのに大丈夫なのか」

「私を案ずるのもいいが、顔を見合わせる度にご機嫌を聞いてくるのはお節介が過ぎるぞ」

榎本は短い微笑みを美しい顔に湛える。口の両端を少しだけ弧に描く笑みは儚げな彼がよく浮かべる表情の一つだ。知らないモノから見たら、一瞬性別を錯覚してしまうかもしれない。

「なんだそれは、向日葵?」

「見たとおりだ。綺麗だろう」

湖の上に薄く張った氷のように頼りない白い腕には数本の向日葵が抱えられていた。一つ一つの花弁が大きい。黄色と緑の彩色が廃れた室内では異様なほどに鮮やかだ。

「折角だからこの部屋に飾りたい。花瓶はあるか」

「そんな洒落たもの此処にあると思うのかい。それに誰がそれの世話をするんだ」

「久我は良い子だからちゃんと水をやってくれるだろうし、暇つぶしが一つ増えて良いことじゃないか」

目元が薄ら赤いのはこの夏の暑さに身体が置いてけぼりになっているのだろう。病弱で滅多に学校には来ない彼がわざわざ持ってきてくれた向日葵をむげに枯らすわけにはいかない。

物置教室だった名残で何か使えるものはないかと棚を漁ってみる。中途半端に使い古された鉛筆と、錆付いた鋏等使えなさそうなものしか見当たらない。しゃがみ込み中を物色していると、静かな声で榎本が言った。

「向日葵の花言葉は知っているか」

「花言葉は残念ながら専門外だから分からないな」

榎本に背を向けながら久我が返す。

「崇拝、熱愛、私の目はあなただけを見つめる」

それを言ったのは確かに榎本だった。この教室には久我と榎本の二人しか居ないのだから、必然的にそうなる。

しかしその時、久我は一瞬榎本が口を開いたのだと認識することができなかった。直ぐ耳元で呟かれたような不思議な感覚だった。振り返ってみると榎本は教室の入り口付近に佇んだまま動いてはいない。

「ふふ、なんだかとても情熱的な告白を聞かされたような気分になる。熱愛を込めた眼差しはただ独りだけを崇拝的に見つめる、だなんて真っ直ぐでしかし歪んだ愛の囁きみたいだ。こんなに鮮やかで夏の象徴を飾るの花だというのに、吐く言葉は少々狂気に浸されているではないか」

つらつらと榎本は語る。向日葵に顔を寄せ香りを楽しむ姿をじっと見ていた。久我は一度大きく息を吸い、瞳を閉じる。瞼の裏を映し出す暗闇に心を落ち着かせ、再び榎本を見やる。

夕陽は入り口とは反対方向の窓から差し込んできている。斜陽に紫を溶け込ませた空の色が、榎本の回りから切り取られたように彼の周辺に光はない。愛おしそうに頬を寄せて睫を伏せている彼の頬を、刹那、白い指がなぞったのを久我は見た。

声を出すことができず、抱えている向日葵の花束から白い、女性の手だろうか、それも独りではない。複数の手がゆらゆらと揺らめいているのを、黙って眺めることしかできなかった。靡く手は全て榎本へとひたむきに向けられおり、実体などないだろうに感触を楽しむように彼の顔や肩を這い回っている。まるで彼を求めるように、何処かへと誘うかのように夕焼けを喰らった。

触れらている本人は相変わらず真意の読めない笑顔を浮かべていた。

「嗚呼、私も生涯に一度ぐらい向日葵を捧げられてみたいものだ」

向日葵の目は、一体今誰に向けられているのだろう。

蝉の泣き声が静かになった部室に響き渡る。頭が痛くなりそうな大きな声だった。それは愛の告白にもよく似ていた。


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