2、嘘がばれる



 翌日。

 あたしは昨日自分を酔わせて上司を誘惑する女に変身させてしまった桜の下で佇む。

「・・・あんたのせいよ、絶対」

 ああ、どういう顔して会えばよいのでしょうか。

 パンプスのつま先で落ちてしまった薄ピンク色の桜の花びらをつんつんとつつく。

 昨日、ルームシェアしているあたしの家に送ってくれた武藤主任は、あたしの荷物を持ってくれながらしげしげと分譲賃貸の小奇麗な一軒家を見上げた。

「何人と住んでるって?」

 あたしはだらだらと答える。

「今のとこ、5人です」

「狭くねえの?」

 完全にプライベートモードになってしまっているらしい主任が砕けた口調で聞く。あたしは簡単に頷いた。

「大丈夫です。6畳の一部屋を貰っていて、後は共同。これで月5万円。稼げないあたしには丁度いい・・・というか、有難いんです」

 主任はここでも苦笑した。

 お前、仕事しねえもんなあ〜って。本当のことだから反論も出来ないわ。

「女の子ばっかり?」

「いえ、二人男子がいて、あとは姉妹が一組、だから彼らは大きな一部屋を二人づつ使ってます」

 途中で武藤主任が唸った。あたしは、何だ?と思って見上げる。目が会うと、主任はゴホンと空咳を一つ零して視線をそらした。

 とにかく、俺はこれで。そう言って、彼は困った顔で頭をかく。

「あー・・・・その・・・。俺が誘ったわけじゃねえけど、うーん・・・ごめんもおかしいしな。ありがとう、も違うし・・・」

 いつもは溌剌としてテキパキ物事を進める主任の初めてみる困惑顔にあたしは思わず凝視する。

 でも笑っちゃったら申し訳ないよね、流石に。

 あたしは出来るだけ平然とした顔で(かなり頑張って)こう言った。

「美味しかったです、主任、ご馳走様でした」

 武藤主任が目を見開いて唖然とした顔をしている間に、お疲れ様でした、と挨拶してあたしはさっさと玄関に入っていったのだ。

 ドアに背をあててじっとしていると、しばらくしてから車が去っていく音が聞こえた。

 そのエンジン音が遠ざかるのを聞いて、あたしはやっと大きく息を吐き出したのだ。

 ・・・凄い夜だった、そう思って。


 薄いピンク色の花びらは朝から春の強風に煽られてまた散っていく。

 切なくなるその光景を見ている間に次々と従業員が出勤しだした。

 流石に恥かしくて、主任が来る前にと事務所に上がった。

 昨日、あーんなことやこーんなことをした応接室の前を通り過ぎ、あたしったら何てことを!と一応恥じらいながら自席につく。そして引き出しを開けて、うんざりした。

 ・・・・・ああ、昨日やれてない残業の分・・・・。

「おはよう、ありがとう」

 後ろのほうで、武藤主任の優しい声が聞こえた。

 他の女子社員の子が上司連中にお茶をいれて配っている。今日も爽やかな武藤主任のお礼の言葉に、その新人さんは頬を染めて会釈している。

 ・・・いつもの主任だ。隙がなくて、そつもなくて、紳士的・・・。

 ふと顔を上げた主任とバッチリ目があってうろたえる。一瞬だけ、彼の口元が上がったような気がした。

 だけどそれ以後、主任と目が会うようなことはなかった。働き者の主任と怠け者のあたしとでは会社で顔を合わせることの方が少ない。


 自分が仕事の出来ない女になろう、と決めたのは、先輩の姿を見てだった。

 あたしに新人担当でついて色々仕事のやり方を教えてくれた女性社員は、人がいい、のを煮て固めたような人だった。

 愛想もよく、誰のお願いやヘルプにも快く応え、いつでも人の分も頑張っていた。初めはそれを感心してみていたのだ。人の為に、ここまで出来る人は凄いなあ〜って、簡単な感想と共に。

 だけどその内彼女の中の歯車が狂いだしたらしい。

 ちょっとおかしい?と思う受け答えが増えた。遅刻を初めてした。ボールペンを持つ手が見て判るくらいにハッキリと震えだした。

 それを上司がいたわると、けたたましく笑ったことがある。

 全員でその場に凍りついた。

 君は働きすぎだから、休みなさい、と勧告され、彼女は事務所の真ん中で号泣した。私はもう必要ないのですか、と叫んで。

 結局歯車が壊れてしまったその先輩は療養休暇を経て、そのまま退職となったのだ。

 あたしはそれを一番そばで見ていた。

 そして決めたのだ。

 仕事に忙殺される人生は嫌だ。あたしはプライベートに比重をおき、仕事では損をしない女になろう!って。

 だから面倒臭い仕事を回されると困った顔で首を捻る。見直しをせずに出して細かいミスを積み上げる。コピーを頼まれたら必ず部数を間違える。

 そんな小さくて姑息なことをし続けて、この子には何も出来ないから頼んじゃダメ、という認識を会社内の人間に植え付けたのだ。

 だけど産休で二人の女性社員が抜けて人が足りなくて、皆嫌々でもあたしにも仕事を回してくるようになった。それで、昨日の残業となったのだ。

 あたしが呆然と夜桜に酔っ払っている内に物事は進み、なんと会社の中で上司を襲っちゃった女になってしまったのだ。

 あーあ、ほんと、どうしましょ。

 たまに思い出す昨日の「人に言えないこと」を懸命に振り払いながら普段の自分の仕事を今まで通りにたらたらとやって、また残業に持ち込んだ。

 また夜がくる。

 誰もいなくなった7時、あたしは急に思い立って、全速力で仕事を片付けることにした。

 窓の外に広がる夜桜。もうすぐ散ってしまうそれを見ていたら、ふつふつと不安が湧いてきたのだ。

 ――――――――もしかして、あたし・・・・本当に仕事の出来ない女になっているのかも。

 そう思った。

 フリをしていたはずだったけど、それを何年も続けている。それが当たり前になって、フリではなくて本当に仕事が出来ない人かも、と急に思ったのだ。

 腹の底からぐぐっと焦りが湧き出した。

 あたしは一つ大きく深呼吸をしたあと両手で頬をパンパンと叩く。

「うし!」

 誰もいないのをいいことに、今は全力で仕事を片付けてみようと決めた。

 段取りを考えながら動き出す。

 まずパソコンで資料の作成、グラフの作成、それの印刷それとコピー、部数は43部、上司の分と念のための予備も作っておくほうがいいよね。

 パソコンの前で指を屈伸させて、勢いよく始めた。ブラインドタッチ、まだ出来るかな。ちょっと不安だったけど、やってみると最初は硬かった指も次第にほぐれ、カタカタと小気味良い音を立てる。あたしはその音楽に気分がアップし、凄い勢いでキーボードを叩きまくった。

「次」

 一人で声を出して立ち上がる。印刷機が動いているうちに特大のホッチキスを持ってきて、長机の上に刷り上ったものから順番に置いていく。中腰で全然座る暇なく飛び回った。

 普段のあたしなら、これだけのことをするのに4時間はかかったはずだ。

 しかも、ところどころでミスを入れる。

 だけど本気になってやった今晩、途中から動いている自分が楽しくなってきて鼻歌まで歌いながらやった残業分と翌日の仕事の3分の1で、かかった時間は1時間半。見直したけど、ミスはなし。

 綺麗に並べた仕事の成果を両手を腰にあてて見回しながら、ふう、と満足の息をついた。

 ・・・・出来るじゃん、あたし。

 ちょっとしたランナーズハイ状態で、ふふふと笑う。まだ出来るじゃん、ちゃんと。良かった、本当にのろまでダメダメになってたわけじゃなかったんだ――――――――――・・・・

「・・・成る程、本来は、そんな仕事をするんだな」

「うきゃあっ!?」

 突然暗い事務所の中に響いた声にビクっとして叫びながら振り返る。

 事務所の隅の暗がりに、いつの間にいたのやら武藤主任が腕を組んで壁にもたれて立っていた。

「―――――――」

 あたしは言葉を失って立ちすくむ。・・・・・ヤバ。見られてた・・・・。鼓動が耳の中でドクドクと大きな音を立てていた。

 武藤主任は愛想のカケラもない表情で、ゆっくりと腕を解いてあたしに近づいてくる。

 あたしは言葉を失ったままで、口をあけて突っ立っていた。

 いつの間にいたの?どこから見てた?全然気付かなかった。うっそ〜・・・・何てことを・・・。

 思考はダラダラと頭の中を飛び交う。石となって固まるあたしの間近にきて、真顔のままで武藤主任はあたしを見下ろした。

「やれば出来るのに、出来ないフリをしていたってことだよな。言い訳があるなら聞いてやる」

 ごくん。唾を飲み込むあたしの喉が鳴った。

「―――――――・・・・あ・・・の〜・・・」

「ん?」

「・・・何でここにいるんですか?」

 あたしのマヌケな質問に、主任は顔を顰めてはあ〜っと長くて重いため息をつく。

 だって言い訳ないもん。それより気になったのは接待だと言って早く上がった主任がなぜここにいるのかということ。

 ごしごしと大きな手で顔をこすって、ふう、ともう一度息を吐いてから低い声で言う。

「接待がキャンセルになったんだ。それで、昨日残業の・・・えーっと、邪魔したし、連日残業はやめるように言われてる中だから手伝ってやろうかと思って・・・」

 戻ってきた、わけなんですね。はあはあ、とあたしは頷く。そしたら―――――――

「そうしたら、うちを代表する仕事出来ない社員のはずの白山が、目を疑うスピードと要領で仕事を片付けているところに遭遇した。仕事に夢中で俺には気付いてないようだったからそのまま見させて貰ったわけだ」

「はあ、そうですか」

 何と返事していいのか判らない。あたしはそお〜っと自席の鞄に手を伸ばす。

 逃げられるかな・・・でもドアに辿り着こうと思えばこの人邪魔だしな。ううーん。

 武藤主任は目を細めてあたしを見下ろしている。怒ってる・・・のかな?ま、仕方ないよね。お荷物だったのが嘘だとバレたわけだし。

 あたしはへらっと笑って言った。

「あの〜・・・主任、そこ退いて貰えます?帰りますから」

「いやいや、まず話だろ?きっちり説明して貰うぞ」

「無理です!」

 言いながら横をすり抜けようと企んだあたしは身を屈めて突進する。でも主任の方が動きが早かった。

 ガシっと体で受け止める格好であたしの突進を阻止すると、更に低くなった声色であたしを威嚇しようとした。

 でも残念なことに、あたしはそこでバランスを崩してしまったのだ。

「あ」

「うわっ!」

 主任ごと、あたしは床へ倒れこむ。

 結構な音を立てて二人で机がひしめき合う床に転がる。あたしの下で背中も腰も強かに打ったらしい主任が唸った。

「あ、大丈夫ですか、主任?頭とか打ってませんか?」

 さすがに焦ったあたしが起き上がろうと手に力をこめると、それは不幸なことに主任のお腹の上にあったので、余計に上司を苦しめる結果となった。

 あ、と手を空中に退けると当たり前だけど支えを失った体はまた落下する。当然、まだ下にいた主任の上にのっかる形になった。

「ぐふっ!」

「うわーん、すみませえええええん!!」

 ジタバタともがけど椅子や床に置かれた荷物が邪魔で思うようにいかない。焦れば焦るほど、主任と密着する結果になった。

「ちょっ・・・落ち着け、白山!」

「ごめんなさーい!!」

 言葉を出すついでに主任の顔をみたら、物凄く間近にあって、思わず固まる。

 ・・・・あらら、こんなところにあたしの好きな顔が。

「――――――」

 あまりにも間近で見詰め合ってしまって、主任も動きを止めた。

 サラサラサラ。

 ひらひらひら。

 小さな音が聞こえた気がして、あたしはゆっくりと視線を上げる。

 床から見上げる一面に並んだ窓の外には昨日と同じ、幻想的に浮かび上がる夜桜が。

 今晩も風に揺られてハラハラと散っている。

 ちろりと白い背をみせて、ピンク色の花びらが暗闇に舞う。

「・・・おい?」

 主任の声がした。あたしは夜桜に見惚れていた目を彼へと戻す。

 そしてまた、見つけてしまったのだ。

 ・・・・あら、こんなところに美味しそうな唇が。

 あと2センチくらいのところに。

 あ――――――――――――

「しろや―――――」

 昨日のように、あたしは主任の唇に自分のそれをゆっくりと押し付けた。




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