A伊織君の写真・1
何だか久しぶりに熟睡した〜・・・と思いながら幸せに目を覚ました翌朝。しかも、今日は土曜日で会社も休み!金融系に事務としてよく派遣される私は、現在の契約は土日祝日休みで残業なし。時給制なので、本音を言えば土曜日くらいは出勤してもいいんだけど、冬の底といっていい1月の下旬、雪がちらつくような今朝みたいな日には、休みでよかった〜と心底思う。
「・・・ああ。マジでよく寝た〜・・・」
最近は寝返りを打つたびに目が覚めることだって多かったのに・・・。とくに綾がいなくなってからは、頭の片隅に常にある不安や心配で、熟睡とはほど遠かったのだ。
どうしてこんなに良く眠れたんだろう。
ぼうっと昨日のことを思い出すと、ああ、と何だか納得した。
昨日の夜は、グリューワインで伊織君と楽しく飲んだのだった。
スパイスたっぷりのホットワイン効果で体は温かく、この家で人と笑いながら夜を過ごしたのが、かなり久しぶりなのだった。それが私の不安や心配を追い払い、ぐっすりと眠らせてくれたのだろう。
彼の仕事についても色々判ったし、勿論、私も自分のことをよく話した。仕事の事、職場の人々や出来事、ここ最近で驚いたことなんかを。
ほとんど顔を合わせないとはいえ、お互いのことをちっとも知らないハウスメイトというのはちょっと気持ち悪い。そうか、水谷弟のことがちょっとは判ったことも、熟睡に関係あるかも・・・。
うーん、とベッドの中で伸びをする。
壁の時計は朝の9時15分を指している。いつもに比べたら十分ゆっくりしたのだけれど、布団があったかいし、どうせ予定もないし、もう少しゆっくりして――――――――・・・
と、二度寝の体勢をとったところでベッドサイドテーブルに置いた携帯がぶるぶると振動しだした。
「――――――無視だ」
毛布を頭まで被って呟く。
どうせどっかの企業からの広告メールだろう、そう決めこんで無視し続けたけれど、携帯の振動はやみそうもない。いつまでもぶーぶーと文句を言い、私に起きろと命令する。
「・・・くそ。何なのよ・・・」
メールじゃなくて電話なんだな、それで、コールももう20回くらいだよな、と思ってから、私はようやく携帯に手をのばした。
電話ならば、休日の朝からかけてくるのはうちの母以外に考えつかない。そう思ったので相手も見ずに通話ボタンを押して、不機嫌そのものの声で言った。
「はあ〜い?もう、まだ寝てるんだけどっ!」
すると相手は一瞬言葉を失ったようで、間が空いた。
うちの母親なら勿論、こんな間はあかない。立て板に水の勢いでこちらの都合など気にせずに喋りまくるはずだ。だから―――――――、あれ?お母さんじゃないの?
耳から離して着信番号を確認しようとしたその時に、恐縮したような声が携帯から流れてきた。
『・・・あの、起こしてごめんね、凪子さん』
――――――――この低音ボイスはっ!!!
私は思わず、布団を押しのけて跳ね起きた。
「え!?伊織君!?」
『はい、俺です。ほんとすみません、もう起きてるかと思って』
あらまあ!ハウスメイト君じゃないのー!私は電話を耳に押し付けながら自分の額を手で叩く。相手は確認して出なきゃダメだわ、もう!
「あの・・・いや、ごめんね。うちのお母さんだと思ったものだから。大丈夫です。ついさっきだけど、一応起きてたから!」
ははは、と彼が笑う。ならよかった、そう言って。電話で話したことは初めてだから、耳に直接流れ込んでくるその低音にちょっとぼおっとなってしまった。
・・・何だよ、君、いい声もってるじゃないか。
「ええと・・・それで、ご用件は?」
頭がハッキリしてくると伊織君から電話を貰う理由が判らない。彼の声に反応して、もしかしたら赤くなってしまっているかもしれない頬に手をあてた。・・・うん、ちょっと熱いかも。あらあら。
『あのー、俺ちょっと忘れものしちゃって。それで、もし凪子さん今日外出予定あるなら、申し訳ないけどスタジオに寄ってもらえないかと思って』
「あら忘れ物?」
伊織君は情けなさそうな声ではいと言う。どうやら、今日の夕方に仕事で使う予定の書類を机の上に置いて出勤してしまったらしい。
『コピーがないからそれがどうしても要るんだけど、今日は先生が居なくて他が学生アシだけだから取りに帰れなさそうで・・・』
あ、成る程。私は何故かベッドの上で正座をして、電話を持ったままで頷く。
「うん判ったー。大丈夫、私持っていけるよ。何時までなら間に合う?」
『うわー、本当助かる。ええと、プレゼンは5時からだから、それまでならいつでも!』
伊織君はホッとしたようにそう言って、またごめんねと謝る。私は大丈夫だよと何回もいいながら、電話を持ったままで彼の部屋へ移動する。
「じゃあ部屋に入るよ?」
『うん。ちゃぶ台の上に置いてるはずなんで』
綾の私物を片付けた時以来、初めて入る伊織君の部屋はスッキリと片付いている。服や小物が床中に散らばっている私の部屋とはえらい違いだ、と若干反省した。黒と茶を基調にして物を選んでいるようで、和室なのにクールで、しかも落ち着く雰囲気に出来上がっていた。
視線を動かして部屋の隅に置いてあったちゃぶ台を見ると、その上には確かにそれらしきものがある。
「はいはい、これね。6ページほどで透明ファイルに挟んであるやつよね?」
『そう、それですー!』
「お昼食べたら持って行くね。2時までには着くようにします」
そう言うと、彼は大きな声でありがとー!と叫んで電話を切った。
・・・うん。声が低いと、大声で叫ばれても頭は痛くならないらしい。
「さて」
完全に目が覚めてしまった私は、起きることにして自分の部屋に戻る。
予定がなかった今日、おつかいの予定が出来た。だからそれまでは――――――・・・
「・・・掃除でも、しましょうか」
出てきたばかりの片付いた部屋と目の前に広がる混沌とした自分の部屋をつい比べて、私は大きなため息をついた。
自室の掃除、それから自分の食材の買出し、共有スペース、つまり一階の掃除にコインランドリーにも行って(この家には洗濯機はおいてない)、午前中はよく動いた。思いっきりダラダラと過ごすはずだったのだけど、それは明日でも出来る。今日は予定が出来たのでもう日曜日にする家事も全部済ませることにしたのだ。
それからしっかりと化粧をして、時間をかけて服を選び、出かける。
いつもは職場との往復くらいなのでさほど服装に気を使わないのだけれど、今日はそういうわけにはいかないだろう。写真スタジオなんて行くのは成人式の時以来だし、第一あの有名な写真家の阿相さんのスタジオなのだ!もしかしたらモデルさんなども居たりして、超華やか〜な場所かもしれない。
そんなところに、近所のスーパーへいく格好でいけないではないか。一応年頃の女性だという自覚はあるし。
お昼すぎでも太陽は弱弱しく、駅のホームの上は冷たい風が吹いている。伊織君の名刺を見ると、私は利用したことがない線だったのだ。ちょっと緊張した。
電車を乗り継いで40分ほど。案外近くの場所で、伊織君は働いていた。
『スタジオ阿相』の外見はモダンな倉庫、という感じだった。装飾の少ない外見、高い場所にある窓も横に細長く、ドアも中が見えないような鉄扉。
インターフォンを探してしばらくウロウロしたけれど、どうやらそういうものはないらしい、とようやく気がついて、私は鉄扉を開ける。
ゆっくりと開いたら、そこには20畳ほどの広い部屋と、入ってすぐの所に受付と書かれたカウンターがあった。ここで商談などもするのか、外側とは違って上品で爽やかな内装。クリーム色の壁、コバルトブルーの対のソファー、ガラスのテーブル。観葉植物が適度な距離を保って置かれ、空気清浄機がピンク色の液体を回しながらオブジェの役割も果たしている。電話とパソコンが無造作に置かれた作業机は、多分誰かアーティストの作品なのだろう、シンプルなのにひときわ存在感を放っていた。
無人で、呼び鈴もない。え···これどうしたらいいの?奥の方に見えるドアに向かって、すみませーんと叫ぶべき?
私が悩みつつ仕方なく周囲を眺めて突っ立っていたら、奥のドアが開いて、若い女の子が顔を覗かせた。
「はーい?お待たせしました!」
どうやらセンサーか何かで奥には来客がわかるようになっているのだろう。長い茶髪をポニーテールにした学生さんのような女の子は、走ってきたのか呼吸が乱れている。切れ長の瞳がミステリアスな雰囲気の、なかなかの美人さんだ。その彼女が首をかしげたので、ハッとした。あ、いかんいかん。ぼけっとアホ面してしまっていたわ。
私は慌てて笑顔を浮かべると、その子にむかって言った。
「水谷さん、いらっしゃいますか?届け物なんですが」
「あ――――――――、えっと・・・はい」
女の子は一瞬怪訝な顔をしたあと、頷く。うん?何だろう、この間は。彼女がそう言ったまま観察するように私を見ているので、笑顔を浮かべているのが困難になってきた。
だって、何か・・・全身眺められてるような。見せ物のようでいい気分ではない。モデル志望じゃないぞ。
「あのー、水谷さんを呼んで頂きたいんですけど」
痺れをきらして私がそう言うと、女の子はハッとしたように体をずらしてドアを開ける。
「あ、どうぞ。こっちです」
呼んではくれないらしい。そして、ここで預かってもくれないらしい。
女の子は奥に通じるドアに入っていってしまい、私は首を傾げながらついていく。いいのか、部外者が入っても?
奥へのドアを抜けると、そこには長い廊下があって、右手はスタジオらしい。ドアに番号が振ってあった。音楽や人の話し声がそこから漏れ出してきている。女の子に続いてそのまま奥まで歩くと、スタッフオンリーの文字が貼られたドアにたどり着く。
「右側が水谷さんのスペースです」
女の子はそう言ってドアをあけ、後はもう黙って廊下を行ってしまった。
・・・何だよ、愛想がないよ〜、君。私は多少気分を害しながら、手を伸ばして開けられたドアをノックする。
不透明なガラスのパーテーションで大雑把に5つほどに仕切られたその部屋には、それぞれに作業机や本棚なんかが詰め込まれ、個人のスペースになっているらしい。映画やドラマなどでよく観る『新聞社の編集部』のような雑然とした部屋だった。入口にあったあのお洒落な空間とはかなり違って、働く場所なんだなあ!という感じだ。
そのうちの一つから、はーい、と声が上がって男性が立ち上がった。
「すみません、水谷さんの机はどちらでしょうか」
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