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しばらく会わなかった間の仕事の話などをして、ご飯を食べ終わったころ、そういえば、と菊池さんが目を大きく見開いた。
「12月のあのこと、結局どういうことに落ち着いたんだっけ?問題なくなった、っていうのはメールで言ってくれてたけど、あの頃あたしバタバタしててちゃんと話を聞いてなかったよね」
「ん?ああ、ハウスメイトのこと?」
私がそう言うと、彼女は大きく頷いた。
「綾さんはまだ見付かってないの?連絡もなし?それで、新しいハウスメイトが見付かったってことだよね?とりあえず家賃の心配がなくなったのは本当良かったと思うけど、どういう人なの、次の人は?」
だだーっと一気に言って、彼女は好奇心溢れる目で私を覗き込んだ。
そうか、忘れてた。私はお茶を飲んで喉を湿らせる。菊池さんに借金を断られてオーナーにも連絡がとれないってなった後、結局水谷弟と同居することになったとは話せないままで、彼女が職場異動してしまったのだった。
一度、大丈夫なの?ときたメールには、問題はとりあえず解決したよ、と返しただけなので気になっていたのだろう。
えーっとね・・・何から話そうか。しばらく悩む。だけど休憩時間ももうそんなになかったので、私は端的に話すことにした。
「あのあと、綾の弟が家に来たの。そんで綾が持ち逃げした分のお金を私に返すためにって、家賃とかの負担をしてくれることになったのよ」
「へえ〜!弟!いたんだねえ、兄弟が。良かったじゃない、なんせ毎月の家賃が大事だからね、親元出たら」
「そうそう。助かったの。実際やつは仕事で出張が多くて殆ど家に帰ってこないし――――――」
私が寛ぎながらそう話していたら、目の前で両目を更に見開いて、菊池さんが遮った。
「え、えっ!?ちょっと待って塚村さん!帰ってこないって、もしかして・・・一緒に住んでるの!?」
「うん?うん」
「綾さんの弟と!?家賃を負担してくれるだけじゃなくて、住んでるの!?」
「そう。だから、彼が新しいハウスメイト」
私が頷きながらそう言うと、彼女は出来るだけ声を上げないようにか両手でパッと口を押さえた。目が大きく見開かれていて、元々目の大きい菊池さんの顔は妖怪といって正解のレベルだった。
「―――――ええーっ!じゃあじゃあ、今塚村さんはその子と同棲してるってこと!?」
・・・いや、だからちょっと違うのだ。
私は誤解を解くべくちょっと考えてから言った。
「・・・ほら、シェアハウスとかあるでしょ、最近?あんな感じだよ。個室はあるけど、食堂や居間なんかは共同で使うって感じ。本当にただ、同じ家で住んでるってだけ。帰宅時間も違うから、食事だって最初の2日間しか一緒しなかったんだもん」
「シェアハウス!?・・・あ、なるほど。そういうことか。じゃあ綾さんと今までみたいな生活ってわけじゃ――――――」
「ないない」
「ってことは、あんまり会話も」
「ないない」
「ってことは、勿論体の関係も・・・」
丁度口に含んでいたお茶を噴出すかと思った。危なかった。私は慌ててお茶を飲みこんで、菊池さんに噛み付く。
「ないない!勿論ないよ!どうしてそうなるのー!?」
「なるでしょ普通。だって男と女が二人で暮らしてるんだし。綾さんの弟さんって、外見はどんな感じなの?」
「え?ええと・・・普通よ、普通。すんごくイケメンではないけど、ブサイクでは絶対ない。あえて言うなら結構モテるだろうとは思う。ほら、人柄の良さがにじみ出てる顔ー」
「まだ20代なのにどうしてそんなのが顔に滲みでるのよっ!じゃあ、じゃあさ、恋人射程距離ではあるってことだよね?」
「うん?うー・・・ん・・・。自分の恋愛感情が枯渇状態でわからない」
何なのだ、一体?菊池さんが食いつく意味が判らなくて、私は首を傾げる。彼女はまだまだ身を乗り出して、真剣そのものの顔で聞いてくる。
「でも嫌じゃないでしょ、一緒に住むのだってオーケーしたわけだし」
「まあ、でもそれは都合も多々あって・・・。とにかくね、とーっても、清い関係よ、私たち。ぜんぜーん顔も合わせないしねえ!」
冗談めかして言ったのに、菊池さんはにこりともしなかった。むしろ残念そうな顔でため息をつく。私はトレーを持って立ち上がりながら、彼女に聞いた。
「・・・何よ、そのため息は」
いや、だって、と小声で呟きながら、菊池さんも立ち上がる。昼休みの終わる前で周囲はざわめいていた。だけど私は、しっかり聞こえてしまった。
彼女の呟きが。
「塚村さんにようやく新しい彼氏が出来るかもって思ったのに」
って―――――――。
水谷弟が、彼氏だと!?
・・・・・・・・・ないない、ない。
その日の夜。
見るテレビもなくて、私はぼんやりと居間の綾が置いて行ったソファーに座り、グリューワインを飲んでいた。部屋の電気は消していて、テーブルの上に蝋燭を立てて。その小さな火がチラチラと揺れ動くのを見ながら、マグカップを両手に持っていた。
これはクリスマスに飲もうって、綾と11月に作ったものだ。赤ワインに砂糖、シナモンとオレンジ、クローブを入れて煮込むだけの、簡単で美味しいホットワイン。
学生時代にドイツにいっていたらしい綾が、冬になると毎年作る飲み物だった。これがないとクリスマスは来ないのよー!なんて言って。
甘くて、シナモンの香りが強くて、飲むと一気に全身が温まるワイン。これを鍋ごと温めてテーブルにドンと置き、パンをつまみにしながら朝まで飲んだくれる、というのが私たち二人の素敵な冬の夜の過ごし方だったのだ。
今年はクリスマスはお祝いしなかった。
同居していた水谷弟はそのとき鹿児島だかどこだかに行っていて、私はこの家に一人。残業も出来なくて仕方ないから6時には家に戻り、いつもの夕食を食べて長めにお風呂に入り、さっさと寝てしまったのだった。
これを飲む気にもなれなくて。
あの時は、この同居人がいるけれど常に独り、という生活にもまだ慣れてなくて、どうしていいか判らなかったのだろう。
つーんと鼻のおくにアルコールが抜けていく。ああ、これはほんと、温まる〜・・・。私は両足を上げて丸くなりながらソファーに沈んでいた。
その時、玄関のドアに鍵が差し込まれる音がした。
私は身を起こさず、そのままの体勢で玄関の方を見る。玄関と台所、居間は全部繋がっているので、ソファーから見えるのだ。上の鍵がまわされて、ついで下の鍵もまわされる。そのまま見ていたら、白い息を吐きながら伊織君が入ってきた。
久しぶりの対面だ。よく考えたら、今年に入ってから顔を合わせたのは3回目くらいじゃないだろうか。
「お帰りー」
私がソファーから声をかけると、彼はびくっと一瞬体を震わせてパッと顔を上げる。
「ああ、びっくりした!―――――ここに居たんだ?電気がついてないから、部屋にいるのかと・・・」
彼はもう一度、びっくりしたー!と言うと、鍵を二つとも閉めて上がってくる。今日は黒いコートに深緑のマフラーをしていて、いつもよりもシックな装いだ。髪も長いなりにちゃんと整えてある。私は人差し指をくるくると回しながらニヤニヤと笑う。
「久しぶりだよね、我がハウスメイトよ!それにしても、あららー、今日はいつものカジュアルスタイルじゃないんだね〜。へへへ〜、もしかして伊織君たらデート?」
「ん?凪子さん、もしかして酔ってる?」
彼は居間にやってきてソファーに丸まる私を見下ろし、テーブルの上のグリューワインに気がついた。
「あ、グリューだ」
「おー、知ってるんだ?」
彼がちょっと口元を広げて笑顔を作る。
「これ、姉貴が作ったやつ?懐かしいなー。一緒に住んでるときは毎年飲まされた」
ああ、そうか。私は頷く。綾はまだ弟と暮らしているときからこれを作っていたんだな、と思って。
「そうなのだよ。綾と11月に作ったやつ。クリスマスに飲む予定で5本も作ったんだけど・・・」
いなくなっちゃったから。それは言葉には出せなかった。
伊織君はちらりと私に視線を向けて、それからコートや鞄を持って2階へ上がっていく。だけど暫くしたらまた一階へと降りてきて、棚からカップを出した。
「俺も飲んでいい?懐かしいなー」
「おお、飲みたまえ飲みたまえ。ささ、私が注いであげよう」
嬉しくなって私が体を起こすと、彼は手でそれを止める。
「いいよ、自分でやるから。凪子さん、ソファーと一体化してるし」
「うへへ〜、心地いいんだよ、こうすると」
「俺は体はみ出るからちょっと難しいかな」
「残念だね〜。この心地よさが体験できないとは!」
マグカップで改めて乾杯する。一緒に住みだして、同じ食卓を囲んだことは3回だけ。酒を酌み交わすのはこれが初めてだ。
蝋燭の明りに照らされた伊織君が、一口飲んで、はあ、と深い息を吐く。私は首を傾げた。
「君、えらく疲れてない?今日は楽しいデートじゃなかったのー?」
彼は苦笑してみせた。
「デートなんかじゃなくて、仕事だったからねえ。接待ですよ、カメラマンでも俺はフリーじゃなくてサラリーマンだから、上から命令されたら営業活動も接待もしなきゃならない」
「へえー」
やっぱりサラリーマンなんだ。私は心の中で呟いた。この人から仕事の話を詳しく聞いたことはないし、何となく、カメラマンっていうと自営業みたいな感じだと思ってたのだ。
私は丸まっていたソファーから身を起こして聞く。
「会社に雇われてるってこと?じゃあスタジオは、君のものじゃない?」
伊織君は寛いで壁に背をあずけ、いやいやと首を振る。
「違いますよー。俺は阿相哲史っていうカメラマンの助手としてこの世界に入って、今は立場が上がってスタジオ阿相に雇われているカメラマンの一人。アシスタントから上がった似た様なのがあと一人いて。先生は売れっ子だから仕事は色々貰えて、先生がやらない他の仕事を俺ともう一人のカメラマンがやってるんです。まあ、誰が撮ってもいいっていうような仕事を」
阿相哲史・・・?聞いたことあるな。私はじっと考えて、それから、あ!と手を打つ。
「知ってるー!知ってるよその写真家さん。雑誌によく載ってるよね?ファッション誌とか!」
「ブランド広告とかよく撮ってるからね、凪子さんも知ってるんだねー」
そりゃ有名な人だ!私はつい拍手をする。その写真家のアシスタントからプロになれたってことは、伊織君てば結構凄いんじゃないだろうか。
「凄いじゃない?だってその人のスタジオのカメラマンなんだよね?まだ20代で!!おおー!」
私がそう言うと、彼はちょっと照れたような顔をしてワインのお代わりを注いだ。
「いや、アシスタントみたいなもんだよ、今でも。雑用は学生アシスタントがしてくれるようになったけど、彼らがいない時は勿論俺達がするし。時間があるなら先生の仕事についていきたいね。やっぱり好きだからねー」
「綺麗なモデルさんも見れるし?」
「そうそう、綺麗な売れっ子モデルも間近で見れるし・・・って、おいー!そんなこと考えてないない。先生の写真とか、仕事中の姿を見るのが好きなのー」
「あははは」
自分のやってきたこと、やっている仕事を卑下するつもりはないが、私は羨ましかった。
誰かがする仕事に憧れて追いかけ、そばでそれを見ていられるというのは幸福なことだろうと思ったから。やがて追いつきたいと思って努力する、私はそんなことはなかったな、と思い返して。
「伊織君は・・・どんな写真を撮るの?」
俄然興味が湧いた私は聞いてみる。ちょっと見てみたいぞ。
彼は一瞬真顔になって私を見たけれど、カップをテーブルに置いて立ち上がった。ちょっと待っててと言って。どうやら部屋に作品をとりにいってくれるらしい。私はまたワインのお代わりを注ぎながら、ワクワクして待っていた。
「こんなの」
やがて戻ってきた彼が手渡してくれたのは、大自然の写真をおさめたスクラップブックだった。
「・・・おおー!」
私は立ち上がって居間の電気をつけ、蝋燭を吹き消した。幻想的な雰囲気が終わってしまうのは悲しいが、蝋燭の灯りでは写真がちゃんと見られない。
「それは昔のものだけど。でも自分でも気に入ってる作品だから」
むせ返るような新緑。空と海の境界線がわからないほどのブルー。それから、いくつも重なったピンクやオレンジの、夕空。雨粒の光るガラス窓。親子が戯れる浜辺。誰かの手や後姿。人気のない路地裏。雨上がりにベランダに干された傘。動物の足跡。それらは全部、その時伊織君が感じただろう湿度や風や、匂いなんかも一緒に切り取られているようだった。
少なくとも私は感じた。ひんやりした風やふっとくる匂いを、写真から。
世界がいつもとは違った表情をみせたような感覚だった。
ページをめくる手がとまらない。お気に入りなんだなあと判る写真は綺麗に貼り付けてあったから、それをじいっと見たりした。
「俺は風景を撮るのが好きで。先生も褒めて認めてくれるから、旅行雑誌の仕事なんかを回してくれるんだ。最近は雑誌の方から指名も貰えるようになってきて」
「そうか、だからよく旅に出るんだねー」
私は写真達から目を離さずに頷く。
写真として出来がいいのかどうか、そんなことは私には判らない。技術がどうのって知識もない。ただ、この目で見るものとして、いいなあ!好きだなあ!と思った。
優しくて柔らかい光で満ちた写真。モノクロなのに、その花びらの色まで判ってしまいそうな写真。
こんな光景を、この人はカメラ越しに見ているんだな、って。
ワインで温められた体がさらに熱くなる。ふわふわ〜っとした喜びが、私の全身を染め出す。
いいなあ、と思った。
心の底から。
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