A・2
つれてきてくれた彼女が言う右側には、2つほどスペースがある。どっちなのよ、もう。部屋の端のスペースから立ち上がって返事をくれた男性は、ああ、と言いながら笑顔で反対側の角を指差した。
「水谷のは、あそこですよー」
「あ、ありがとうございます」
この人は愛想は悪くないらしい。私はお返しにとにっこり微笑んでみせて、奥の仕切りへと歩いていく。ヒョイと覗いたら、買って来たらしいコーヒーのカップ、それから空になったマグカップが汚れたままでいくつか、資料か何かが大量に、それも微妙なバランスで積み上げられている机。壁やパーテーションにとめられたピンナップ、大小様々なカメラケース、それに本が処狭しと置かれている。
・・・あらあら、自分の部屋とは違って、ここは雑然としてるじゃないの?ちょっと笑ってしまった。なんというか、人間味を感じたのだ。こんな面もあるんだ、と判って。
それにしても伊織君てコーヒー好きだよね。私はそう思って、放置されたカップ類をじっと見てしまった。家でも台所では主にコーヒーを飲んでるみたいだし。社会人には多いけれど、彼もちょっと飲みすぎなレベルかもしれない。
壁側には年季の入ったソファーが置いてあって、クッションと毛布がいくつか。スタジオで寝るというのは、多分ここでの話なのだろう。
さて、本人不在のスペースを観察するのは終わりにして、おつかいを果たさなくちゃね。私は鞄から持ってきたファイルを出して机の真ん中にそっと置く。そしてついでにと、さっきコンビニで買ってきた板チョコをファイルの上に乗っけておいた。休憩時間に食べてね、の意味を込めて。
「あのー、水谷が言ってた、ハウスメイトさんですか?」
さっきの男性がパーテーションの側に立ち、私を見ている。私と同じくらいかちょっと年上か、という感じで、伊織君とは違ってスマートな格好をしている。黒いジャケットとスラックスに白いシャツ。髪は短く整えられて、茶色淵の眼鏡をかけている。お洒落な人だ。この人が伊織君が言っていた『アシスタントから上がった同じ立場のヤツ』なのだろうと判った。
私は会釈をしながらもう一度笑顔を作る。
「はい。塚村です。忘れ物を届けにきました」
「鷲尾です。水谷は今撮影中なんで、あなたが来たら俺が相手するように言われてます。汚い場所ですけど、コーヒー、どうですか?」
鷲尾と名乗った男性は、部屋の入口のところにあるちょっとした休憩ブースを指す。
「あ、いえいえ。届けにきただけなので。もう失礼します」
私が頭を振りながらそう言うと、彼はそうですか、といいながら、背中をむけかける。だけど何を思ったか、ふ、と振り返った。そして私の顔をじっと見る。
「・・・あの、何か」
今日は何故だかよく人に見られる日だ。私が怪訝に思ってそう聞くと、彼は、失礼、といいながら眼鏡を直した。
「すみません、ジロジロと。だけどどこかで見たことがあるなあ〜と思って。・・・あ、判りました」
「え?あの、お会いしたことありました?」
私が不思議に思ってそう聞くと、いえいえ、と彼は笑う。
「写真で見たことがあったんです。だから正確には会ったわけではなくて――――――、ちょっとすみません。ええと、確か、ここら辺に・・・」
言いながら鷲尾さんは伊織君のスペース内に入って、彼の机を触りだす。私が理解できない間に探し物は見付かったようで、あったあったと声が上がった。
「これ、あなたですよね」
鷲尾さんが手に持つ写真、Lサイズのそれには、確かに私がうつっていた。
すっぴんで、眠りこける私が。
「―――――――え」
思わず彼の手からそれを奪取する。
あれ?あららー!?本当だ、これって私じゃないのー・・・!
両手で写真持ってガン見する私を見て、鷲尾さんは、ん?と思ったようだった。恐る恐るという風に、声を出す。
「あーれー・・・?もしかして・・・撮られたの知らなかった、とか・・・」
知りません。心の中でだけど、きっぱりとそう言う。
でもこの写真の中で眠っちゃってる女は私だ!!間違いないよ!ちょっとちょっとちょっとー!??もーしもし、伊織君−っ!?これは一体どういう―――――――――――
その時、後ろから走ってくる足音がして、同時に明るい声も聞こえた。
「凪子さん!良かった、持ってきてくれたんだ、ありがとう、助かり―――――」
ました、と言いながら、現れた伊織君は写真を手にして突っ立つ私をみつける。それから、気まずそうな顔をしている鷲尾さんも。
私の手元の写真が何かは、すぐに判ったらしい。
顔を上げた私と目が会うと、彼は、小さな声で、ははは・・・と笑う。
「・・・見ちゃった?」
「・・・うん、見ちゃった」
私達の後ろで、鷲尾さんが言った。
「・・・悪い、水谷。マジで、わざとじゃなかったんだが。判っててモデルしてるんだと・・・」
伊織君は頭をかいて、鷲尾さんに手を振った。
「いや、悪いのは俺だし。相手頼んだのも、俺だし。大丈夫、ありがと鷲尾」
鷲尾さんは彼に両手をあわせ、私には会釈をして、さっさとパーテーションの向こうに消える。
私は伊織君を見て首を傾げた。さて、さて?
伊織君はひきつった笑顔を浮かべながら、入口からスタスタとこちらへ歩いて来る。漫画だったら顔から汗が大量に噴出しているような顔だ。
「えーっと・・・それ、ごめんね、凪子さん。えらく気持ち良さそうだったから、つい撮っちゃって」
「寝顔を」
「―――――うん。えっと、丁度カメラも持ってたし・・・。あの・・・本当にすみません。やっちゃいけないのは百も承知だったんだけど、つい」
「スッピンを」
うう〜・・・と呻きながら、彼は両手に顔を埋める。
「ごめん・・・。嫌だよね」
私はもう一度、手に持った写真をじっと見た。そこは居間の、いつものソファー。引越しした時に友人のお古を譲ってもらった二人用のではなく、綾の持ち物である、一人用のソファーで丸くなって眠りこける私の上半身。肘おきにクッションをのっけ、そこに頭を預けて丸まっている。
そう言えば、お風呂上がりにパジャマの上に半纏を羽織り、テレビを観ながらビールを飲んでいたらつい眠ってしまったことがあったのだ。
私は記憶をゆっくりと辿る。
確かに、あった。お正月があけてすぐの頃、伊織君が出張から戻ってきたばかりの夜。つい居間で眠ってしまった私は、深夜、伊織君に起こされたのだった。おーい、風邪ひきますよ、って。部屋で寝ないと、凪子さん、って。
ああー、あの時か!
居間の隅に置いたソファー。その傍らにはスタンドライトがあって、その灯りに照らされて眠る私は無防備な顔だ。ライトの灯りと夜の部屋の暗さ、その明暗はハッキリしているけれど、寝顔はぼんやりと白く、毛穴や睫毛の1本ずつまで分かるようではない。
暗いのに明るさや希望の匂いがする、優しい写真だった。例えて言うなら、火が燃える暖炉前に集まる家族を描いたクリスマスカードみたいな雰囲気。
写真から顔を上げて、私は困った顔で俯く伊織君に言った。
「嫌じゃ、ない」
伊織君がパッと顔を上げる。
「え、ホント?」
うん、と私は頷く。もう一度、じっくりと写真を見る。つい口元がゆるんだ。
「これ、綺麗。私じゃないみたい。似てる誰か他の人みたいに思える。ハッキリしてるのに幻想的なんて、一体どうやったらこんな風に撮れるの?」
大きな手を胸に当てて、伊織君が笑う。良かった〜・・・と呟くように言った。
「変態って罵られたらどうしようかと思った。とりあえず気に入ってくれたなら、良かった〜!」
「ま、隠し撮りであることには違いないけどね」
私がそう突っ込むと、ぴたりと笑うのをやめて真面目な顔になった。
「・・・本当に、すみませんでした」
私は写真をぴらぴらと振りながら、彼の机の上をジャスチャーで示す。
「持ってきたの、置いときました。私は帰るねー」
「あ、うん、書類ありがとう。本当に助かりました。・・・で、えーっと凪子さん、その写真」
「ん?」
「そのー・・・写真、返して」
私は片手で持って振り続けていた写真を見て、これ?と言う。伊織君が頷いて手を出したのを見てから、ぱっと自分の鞄に突っ込んだ。
「ちょっとちょっと!」
「だって私の隠し撮りでしょ、これは私が預かります」
え、と彼は口を開けたけれど、しばらく私を見たあとで、仕方なさそうに頷いた。何やらくら〜い顔をして口を尖がらせ、ブツブツと小声で言う。
「ダメと言いたいけど言えない」
「言ってるじゃない」
「それ、すごーくいい出来だと自分でも思うんだよ。人を撮るのが苦手な俺にしては。だから・・・」
「だからーじゃないでしょ。ダメよ。これ以上私の知らない人が私のすっぴんの寝顔見るのは嫌だもの」
私が顔をゆがめつつそう言うと、伊織君はちょっと驚いた顔をした。
「え、俺、誰にも見せてないよ」
んなわけあるまい。私は心の中で突っ込んだ。いや、実際に片手を出して伊織君の肩をバンと叩いた。
「ならどーして鷲尾さんがこの写真を知ってるの?あの人は私のことをどこかで見た顔って言って、そうだーって思い出した結果、これが出てきたんだから」
それによ〜く考えたら、ちゃんと化粧をしてよそ行きの顔している時に、すっぴんのパジャマ姿で眠りこけているやつと同一人物だと見破られたのもかなり悔しい。化粧の意味がほとんどないではないか!
私が腕を組んで威嚇すると、伊織君は眉毛を八の字にして唸った。
「鷲尾には暗室で乾かしてた時に見られたんだ。見せびらかしたわけじゃなくて」
「だけど、他人ががっつり見たわけでしょ。ここにあればまた同じことが起こるかもしれないから、とにかくこれは勿論私のものです!そのチョコレート、オマケで持ってきたから食べてね。じゃあ、伊織君、お疲れ様ー」
私はスタスタと歩いて、部屋の入口で座席からこっちを見ていた鷲尾さんに会釈をする。鷲尾さんは立ち上がって手を振りながら私に向かって叫ぶ。
「水谷が見せたんじゃなくて、ほんと、こっちが勝手にみただけですからー!」
・・・聞こえていたらしい。
私は苦笑して、はい、と頷く。
「凪子さーん、ありがとー!」
「はいはーい」
まだ残念そうな伊織君の声に適当にそう返して、長い廊下を歩く。スタジオを出るまで、誰にも会わなかった。
帰りに寄ったファッションビルのカフェで、私は窓際の席につき、冬のお日様の光を浴びながら、その写真を何度も見た。
勝手に撮られたことは、もっと怒るべきだったかもしれない。
そんなことするならハウスシェアは解消しなきゃって。
でもそれを忘れてしまうくらい、写真が素晴らしかった。温かくて幸せそうで、いつまでも見ていたいような写真だった。眠る一人の女。髪や睫毛や口元に陰影が広がり、一体今どんな幸せな夢を見ているのだろうと想像してしまうような、その写真。
没収という形をとったのは、これちょうだいって言えなかったから。
ここにうつっているのは私だけど私じゃない。伊織君がファインダーの中に見た、幸せそうな誰か、だ。
運ばれてきたカプチーノから湯気が上がる。
私は一人で、微笑んでいた。
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