@安定した毎日・1


 綾の弟、水谷伊織は、とりあえずと先に家賃を振り込んでくれて、その後自分の住むアパートを解約し、翌月の頭にボストンバッグ一つで引っ越してきた。

「え。荷物それだけ?」

 私は驚いて彼が床におろした黒い鞄を指差す。

「うん、まあね。スタジオに寝泊りすることも多いし、おおかたの荷物はそっちに置いてあって。部屋にはこれくらい。もうついでにって捨てたものも多かったし」

 彼は相変わらず低い声で、ニコニコしながらそう言った。

 ・・・そうか、写真スタジオ。そこで寝ることも多いと確かに言っていたなあ!私は一人で頷く。

 今日の彼は髪の毛をおろしていて、それは肩に触れるくらいの長さだった。並ぶとやはり背が高い。この古くて小さい家の中にいては、細身だとはいっても結構な圧迫感ではないだろうか。天井も低いので、部屋に入る時には少し首を傾げないと通れないだろう。

「君ならここ、低くてやりにくくない?」

 私がそう聞くと、彼はひらひらと手を振る。

「大丈夫ですよ。ドアが低いけど、前の部屋も古くて鴨居によく頭ぶつけてたし。部屋の中なら問題ない」

「・・・そうですか。まあ気をつけてね」

 私は頷いて、彼を綾の部屋に連れて行く。二階にある和室のうちの一つ、北側の6畳間だ。彼がくることが決定してから私は綾の部屋へと入り、ちょっと驚いたのだ。

 彼女はほとんど物を持って行ってなかった。

 多分、なくなっていたのは服が少々と化粧品くらいなものじゃないかな。彼女の好きな明るいトーンでまとめられた外国の雑貨が多い部屋は、主が不在なのだとは思えないくらいにいつもの通りだった。きちんと整えられたベッド。色とりどりのショール。房がたくさんついたクッションや、象が描かれたイラスト、ポスター、木製の大小様々な籠、本やCD。ほとんどのものが静かにそこにあった。

 お金を持ち逃げされたとはいえ、他人なんだしと一応敬意を払って何も手をつけなかったそこに、私は弟君を招き入れる。

「綾、ほとんど何も持っていかなかったみたい。大きめの鞄と服類がちょっとくらいしか、なくなってないと思うの」

「・・・うーん。夜にも帰ってきそうな感じだね、これだったら」

 二人はしばらく、その部屋の狭い入口で腕を組んで突っ立っていたけれど、やがてため息をついて彼が頷いた。

「でも、ここはもう俺の部屋になるわけだし。姉貴の荷物は適当にまとめるよ。売れそうなものは売ってしまうし、多分半分くらいは捨てないと」

「え、売っちゃうの?」

 私がパッと彼を見ると、自然な感じで肩を竦める。

「だって姉貴が蒸発したせいでこうなったわけだしねえ。凪子さんだって迷惑したでしょう。結果的にはまだ判らないけれど、とにかく俺だって巻き込まれたわけで。ずっと連絡もなかったのにいきなり電話してきて、友達のお金持って出てきたの、あと宜しく、なんて」

「う、うーん、そうだけど・・・」

「お金にかえれるものは変えて、ちょっとでも凪子さんに返すよ。姉弟で借金したようなもんだからねえ。それが返済できるまで、ここで一緒に住まないといけないわけだし」

 ・・・そうか、まあ、そうなるか。

 私はしぶしぶ頷いた。102万円分の私の分の家賃を支払うまでは一緒に住もう、そういう話になっていたのだった。純粋に家賃だけの立替とするとそれは結構な長期間になりそうなので、現金になるものはして返したいのだろう。

 現在私は29歳、そして伊織君は28歳。私は今のところ予定はないが、彼は結婚を考えている彼女がいるかもしれない(この状況を考えたらそれはないと思われるけど)。そうでなくてもある日突然、環境がガラッと変わることだってあり得るのだ。・・・ま、今回みたいに。

 本人の許可なく勝手に私物を処分することには抵抗があるが、彼は綾の唯一の家族であり、こうなってしまった以上弟君にはそうする権利があると言えなくもない・・・。

 そこで私は気になっていたことを思い出した。

「あ、そうだ。伊織君は今日は仕事は?土曜日だから、私は今日明日休みだけど」

 部屋の中に入って周囲を見回していた彼は、ヒョイと振り返った。

「あ、俺はあと4日ほど日本にいます。そのあとマレーシアに行くけど、しばらくはスタジオ作業なんで。だからその間にここを片付けるね」

「ええと・・・はい、了解です」

 手伝うかどうかで悩んで入口でぐずぐずしていたら、伊織君が髪の毛をゴムで縛りながら私を見た。

「もし良かったら、手伝って貰えないかな?ここ数年の姉貴の生活を俺は知らないし、やっぱり大事にしてたものは残しておきたいから」

 その一言で、ものを処分すると聞いてざわざわしていた心が落ち着いた。私は笑顔で頷く。

「そうだね、ちゃんと分けよう」

 その時、午前10時半。お昼ごはんまで頑張ることにして、家にあった段ボールや紙袋をかき集めて持ってあがり、私も部屋着の袖をまくって綾の部屋へと入る。そして黙々と作業をした。

 下着などは伊織君は触りにくいだろうと思って、私が箪笥を担当した。服は元々そんなに数がなかった。インド人の彼氏が出来てからの綾は服装の好みも変わり、民族衣装的なものや柔らかい素材のふんわりしたワンピースばかりになっていた。だからまとめて段ボールに入れてもさほど嵩張らない。

 本やCDは、伊織君が欲しいと言ったもの、私が読みたいと思ったもの以外は売ることにしてまとめて廊下に出す。小さなチェストの中に入っていた昔の手帳や雑貨類は残すことにして紙袋へ全部いれる。酷いことをされたけれど、綾はやっぱり私の友達なのだ。彼女との素敵で楽しい思い出はこの家の中に染み込んでいるし、物も少しは残しておきたい。

 弟君と違って綾は小柄だったけれど、寝る時には広いベッドがいいといって、かなり存在感がある大きめのベッドで寝ていたのだ。だからそれは伊織君がそのまま使うことになった。だけどカラフルな箪笥や化粧台代わりにしていた小さなテーブルは必要ないから捨てることにする。それらを一階に運んで、綾が天井や壁中に貼り付けていたカラフルな布を外したら、味気ない薄灰色の壁がでてきて元の6畳間に戻ってしまった。

「あ、やっと普通の部屋だ」

 伊織君は埃よけに顔に巻いていたタオルを首筋から外して、ほっと息をつく。私は紙袋の口をガムテープで止めて、時計を見ながら言った。

「案外早く片付きそうだね。じゃあお昼にしようか」

「寒いけど外にいきますか?それとも俺、何か買ってこようか?」

 伊織君がそう聞くのに、私は首を振る。

「君の予定がわからなかったから、一応食材買ってあるんだよね。私作るよー。・・・まあ、一応歓迎会ってことで」

「一応。あははは」

 彼は明るい笑い声を上げて、それから頭を下げる。ありがとうございますって。いえいえ、どういたしまして。私も会釈を返す。まだ作ってないのにお礼を言われてしまった・・・。普通のカレーを作るつもりなんだけど・・・不味かったらどうしよう。

「えらく可愛い部屋だったなー、ちょっとイメージが違った」

 ポツンと彼が言う。私は立ち上がって服の埃を払いながら言った。

「ジャムル君と付き合いだしてからだねー、綾がどんどんアジア系の趣味になっていったの。影響が大きかったんだろうね。働いているインド料理屋のインテリアがすごい好きって、いつも言ってたし」

 ふーん、と彼の声。ベッドに座って壁からはがした布を手にとって、それをしみじみと見詰めながら、呟くように小さな声で伊織君が言った。

「姉貴、どこに行っちゃったのかなー・・・」

 大きな窓から差し込む光で部屋の中を漂う埃がキラキラと光る。

 消えてしまった綾を思って、二人はしばらくそのままでぼうっとしていた。



 綾の弟、伊織君は、バッグ一つで引っ越してきたその日から4日間、色々なことをした。

 綾の部屋から出したテーブルや椅子、本やCD、ポスターなどを売りにいき(現金で28000円になったらしくて渡された)、面倒で捨てられずに溜まっていた粗大ゴミを運んで捨て、二人の帰宅時間が違うことで防犯が手薄になるということで(ドアにチェーンがかけられない)、ドアを2重鍵にしたりした。そして切れたままで放置していた洗面所の電球を換えて、私から家賃と光熱費の支払い口座の通帳を受け取った。

 私はそれを、おおー!と思いながら見ていた。

 だって会社から戻ってきたら、鍵が増えてて洗面所に明かりが点り、粗大ごみを置いていて見ないようにしていた小さな庭が綺麗に掃除されていたのだ。

 毎日帰宅すると、家のどこか一部が綺麗に補修されてたりするんだよ!はがれかけてた壁紙とか、扉がちゃんと閉まらなかった階段下の物置のドアだとかが。驚くでしょ。何だよ、この子、便利〜!って。私は口をあけっぱなしにして感動した。えらく手が器用なんだな···。

 彼はちょっと呆れた顔をして感動のあまり拍手する私を見下ろす。

「ここはずっと人間が二人住んでたはずだよね?よく放置してたねー。危ないでしょ、玄関も庭も」

 って。

 流石に多少は恥かしくて、私は口の中でごにょごにょと言い訳をする。

「・・・ないならないで、何とかなったんで。今まで危険な目にあったこともなかったし・・・」

 綾とは毎日楽しく、そしてふわふわと過ごしていて、規則らしい規則もなかった私たちだ。ご飯は食べたいときに食べたし、気がむいたら相手の分も作っておいておく。なければないでそれでも良かった。徹夜で映画を見てふらふらになりながら仕事にいくことだってしょっちゅうだった。これやって〜とお互いに言い合ってどちらもやらず、当番を決めても実行されず、家事は一向に片付かない。それでもまあいっか、そう笑いながらダラダラとお菓子を食べたりしていたのだ。

 まあ要するに、気楽な生活でだらしなかった。

 伊織君は、綾に比べるとはるかにしっかりした同居人だ。私は感心かつ安心して、この補修費用は請求してね、と言ったのだけれど、彼は笑っていいですよと言う。俺もここに住むし、気になって変えたのは俺だから、って。

 気楽な女二人暮らしから、しっかりした男性との同居へチェンジ。ただし、彼は仕事柄時間が不規則なので、私はその影響をさほど受けずに住んだ。

 本当に顔を合わせない生活だったからだ。

 報告通り、彼はその後マレーシアだかシンガポールだかに仕事で行ってしまって、私は一人暮らしだったからだ。アジアから戻ってきたあとも北海道だ九州だと撮影旅行に出ていたようで、年末に一度、宮崎県からのポストカードがきたくらい。

 宮崎名物カキ氷の白熊がアップになったポストカードで、裏面には『今宮崎だよー。凪子さん元気?お土産はありませんので悪しからず』という何だそりゃな文面がのっていた。ちょっと笑ってしまった。

 お正月を一人で過ごすのは久しぶりだったから、私はその時はまた、未だに消息不明の綾を思い出して寂しがったりした。綾がいたら、こうやって過ごしただろうになあ!とか想像して。だけどそれも過ぎてしまえば普通の毎日で、家賃の心配がなくなったせいで気分は徐々に晴れやかになっていた。

 毎月6万の出費がなくなったのだ。毎月の貯金額をちょっと増やして、残りは買いたくても我慢していた物を買うようにもなった。

 お金の心配がないって素敵〜・・・。

 それに最初は若干心配した、男性と住むということも、彼が言うようにほとんど接点がない状況ではちっとも何とも思わない。

 ほーんと、ただの同居人だ。それも、1ヶ月に2,3回顔をあわすかってくらいの。

 というわけでそれなりに機嫌よく過ごしていた1月の中旬、他の会社へ手伝いに貸し出されていた派遣友達の菊池さんと、社員食堂で久しぶりに会ったのだ。

「うわ〜、塚村さ〜ん!会いたかったよう〜!」

 小走りに私が座るテーブルまで来て、菊池さんはテンションも高く前の席にトレーを置く。私も1ヶ月ぶりに会う同僚ににっこりと笑った。

「久しぶり〜!もうお手伝いは終了?」

「そうそう、やっとね!事務で入ったのにいきなり販売に回されて心配だったしむかつきもしたけど、あっちは若干時給がよかったんだよね。耐えたかいがあったって、次の給料で思いたいわ〜!」

 本当に嬉しそうに周囲を見回して、それから彼女は頂きます、と手をあわせる。聞けば手伝いに駆り出された販売所は食堂なんてなく、毎日お弁当持参で大変だったそうだ。




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