A・2
「いえ、あなたの分もです。そうしたら、あなたはまた貯金が出来るでしょう?一気には払えないけれど、毎月あなたの分も俺が負担すれば、ちょっとづつでも返済してることになるかな、と」
・・・あ、成る程。
私はようやく彼のいわんとすることを理解して、ほっと息を吐き出した。
「えーっとつまり、あなたはこの家の家賃と光熱費を負担してくれる。だけど仕事であまり家にいないってことよね?」
うん、と彼は前で頷く。
「塚村さんは今まで通りの生活をして下さい。俺はたまに日本にいる間は勿論帰ってはきますけど、時間はバラバラで帰宅が朝や昼だったりもしますから、時間帯が違い過ぎて滅多に会わないと思うし。そうしたら、とにかく姉が持ち逃げした分を返していけるし、俺は誰もいない部屋の家賃を払わなくて済む。あなたはここを出なくて済むし、当面お金の心配は消える、だよね?」
思わず頷いてしまった。
確かにそうなのだ。
綾のことは心配だし、ムカつきもしている。だけどとにかくこのままではこの家には住めないし、出ていくところもなければ引越し資金もない。私には有難い話なのだった。それに男と住むということではあるが、彼は普段いないようだし――――――――――・・・
うーん、と唸る私を見ながら、彼は涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。言いたいことは言ったから、後は任せる、そんな雰囲気で。
口元に手をあててままで熟考すること5分ほど。その内に、前の男性が、あ、と声を出した。
「あのーちなみに、ここの家賃はいくらですか?」
私はつい笑ってしまった。そうか、まだそれを言ってなかったよね。格安だとはいえ、戸建ての賃料だ。お金がないのはお互い様で、まだ若い彼には一人で全部の負担はちょっとキツイかもしれないし・・・そうか、まだこの話は悩むほどでもないくらいにあやふやなんだ!
「今までは一人6万づつ出して、家賃と水道光熱費支払ってたけど・・・」
「つまり、全部で12万?うん、それなら俺払えます」
「・・・」
あ、払えるの?即答したよこの人。なんだよー、君その若さでもしかして結構なお給料貰ってるの?それは羨ましいぞー。心の中でだらだらとそんなことを思い、私はまた眉間に皺を寄せる。
・・・困った。
じゃあそうしましょう!そう中々言えないのは、やはり彼は知らない男だから、なのだった。いくら綾の弟だっていっても、今まで会ったことすらなかったのだ。
それに―――――――
私が黙ったままで考えていると、あ、ともう一度彼が言った。顔を上げるとバッチリと目があう。その、綾よりも細い二重の瞳を更に細めて、彼はにっこりと笑う。
「俺、伊織です。水谷伊織。宜しくね、凪子さん」
彼の中では決まったようだった。その宜しくね、に私の頭の中の深いところが反応を起こす。このパターンは・・・持っていかれるパターン!自信満々の発言に思わず流されて、それで・・・。
私は一度、深呼吸をした。それからおもむろに椅子から立ち上がり、ハッキリと言葉を飛ばした。
「やっぱり、ダメ」
え?と今度は彼が目を瞬いた。驚いているようだ。
「お互いにいい話だと思ったんだけどなー。どうしたの?揺れていたはずなのに、急にえらくハッキリと」
私はイライラと手を顔の前で振る。
「私は結構流されやすい性格をしているの。だけど元カレが金持ちの俺様で、容姿と環境に裏打ちされた自信で満々な人だったのよ。で、でね、結局は百年の恋も冷めちゃったわけだけど、その時に相手の言うままに流されてたらえらく大変なことになるってよお〜く判ったの。で、元カレと別れたあとは反省を踏まえて出来るだけハッキリ言うように努力してるー、っていやいやいや、そんなことは今はどうでも良くて!何言ってんのよ私!」
かなりどうでもいいことをベラベラ喋ってしまったのに気がついて、赤面しながら私はもう一度深呼吸をする。やり直しじゃないの、全く!
ちょっと面白そうな表情を浮かべて耳を傾けている綾の弟に、私は手の平をみせてハッキリと言った。
「とにかく、有難い申し出だけど、お断りします。お金は確かに大変だけど、どうにかしてみせる!」
「どうにかなるの?」
「するの!」
「だってあまり時間もないって、さっき」
「でも何とかするんです!その努力をするんです〜!」
両手をバタバタと振り回しそうになった。ギリギリで耐えて、それはしなかったけれど。水谷弟はしばらく黙って私を見ていたけれど、やがて視線を外してコーヒーを飲み干す。
「・・・へえ?まあ、無理にとはいえませんし、勿論」
彼も立ち上がり、よっこらしょ、とかけ声つきでカバンを持ち上げた。そしてまたにっこり笑う。
「じゃあもし気が変わったり、姉から連絡があった場合は連絡下さい」
「え」
「俺の連絡先、置いていくんで」
カバンを漁って出した名刺をテーブルに置いて、じゃあ凪子さん、またー、と来た時と同じように、突然に彼は帰って行った。
テーブルの上に置かれた名詞には彼の名前と電話番号、写真スタジオのアドレス等々。
私は体から力が抜けてしまって、どすんと椅子に腰を下ろした。
この5日間で、姉には逃げられて、弟からは同居を申し込まれた。
しかも、どちらもいきなり。
こちらの都合なんて、まったくお構いなしで。
―――――――水谷姉弟・・・なんて奴らだ。
水谷伊織と名乗った綾の弟に言った通り、私は努力しようとしたのだ。
何とかしようと。
普段通りの仕事をしながら金策を練ったり。短期のアルバイトに申し込んでみたり。だけど何ひとつうまくいかない。
短期バイトは実入りがいいけれど、ショックを色々と受けて寝不足気味だった私の体にはきつかったようで、風邪を引いて熱を出してしまった。実入り、ほぼナシ。そして、相談に乗るよ、と散々言ってくれていた同僚の菊池さんに、ならばと思って「6万円貸してください」とお願いしてみたけれど、あははは〜と華麗に笑ってスルーされてしまった。それも、仕方がない。逆の立場だったら私だって同じことをする。他人に貸す6万なんて余裕がないのは、皆一緒なのだ。相談は乗るけど金は出さない、それは普通のことだ。
水谷姉弟のように両親が他界しているわけではないが、私も実家には頼れない。身内は年老いた母が一人だけ、そして母は少ない年金と自給自足のような生活で何とか暮らしているわけで、出来の悪い一人娘が困っていたところで母だってどうしようもないのだ。
心配をかけるだけで一つもいいことがないから、実家には連絡しない。と、いうことは―――――――・・・。
このままじゃおいつかないぞ、と自分でも認めざるを得ない月末近くに、私は決心した。
家賃の振込みを待ってもらおう!
だってもうそうするしかない。とにかくラッキーなことにはここの家の持ち主は綾の知り合いの友達とか何かの50代の金持ちおじさまで、個人的な賃貸契約を結んでいるのだ。だから敷金や礼金などもなく、固定資産税と家のメンテナンス代が賄えればそれでいいから〜的な家賃で貸してくれている。
来月の支払いさえ済めば、とにかく次の手を考える時間が出来るというものだ!
3年間の付き合いで、その大阪人の男性オーナーは良心的な人だということが判っている。こちらに来る用事があればこの家にお菓子を持って寄り、生活空間に不足はないかと聞いてくれるナイスガイなのだ。綾や私を親戚の子供みたいに心配し、可愛がってくれている(と思う)。理由を説明したら、きっと1,2週間くらい待ってくれるだろう。よし、それだ!
私が会社のデスクでそう決心したその日の夜、だけど、神様のバカ野郎!と罵りたくなる出来事が起きた。
それは一つの電話だ。
大阪に住む、この家のオーナーからの。
『おー、凪ちゃんか。ど〜や〜?そっちは二人とも元気してるかー?』
いつもの通り、明るくて軽い親戚のおじさんのような言い方で始まったオーナーからの電話は、丁度よかったと一瞬喜んだ私の体を凝固させた。
曰く、『こっちの都合で悪いんだけど、家賃の振込み口座を来月中にしめるから、次の家賃振込みは絶対遅れないで欲しい』そうだ。
『銀行の手続き上、面倒くさいことになるよって、堪忍な〜』
私は呆然としてしまっていて、実はハウスメイトである綾が失踪してしまったこと、私には貯金が全くないこと、それ故に、来月の家賃は遅らせて欲しい、とは、言えなかった。オーナーはせかせかと忙しそうに話すだけ話して、すぐに電話を切ってしまったからだ。ちなみに、電話を切る前にはこんなことも言っていた。
『それで、実は今晩からカナダに飛ぶんやわ〜、せやからしばらく連絡取れへんけど宜しく〜。おっちゃん戻ったら、土産またそっちに持っていくわな』
私が言えたのは、最初の「もしもし」と「はい」だけ。受話器からツー・ツー・・・と音がなるのを5分ほどぼけっと聞いていて、ようやく電話を戻す。
つまり・・・引越しを選択するとして月末に出て行こうにも、もうオーナーとは連絡が取れないわけで・・・。
「うわあ〜・・・・」
ダメだ。どうしよう・・・。私は受話器を戻したあとで、そのままへなへなと床に座り込んでしまう。悩みすぎて頭痛がし、頭を抱えてカーペットの上を転げ回りたいくらいだった。
・・・困った。
困ったーっ!!
どうしようもないと思いつめた私は、お風呂に入ることにした。そこでシャワーを浴びながら散々泣き喚き、とにかく溜まった感情を爆発させようと思ったのだ。小さな頃からそうしていた。うまく行かないことがあって気持ちが一杯一杯になってしまった時には、いつも。
友達と喧嘩をした時も、父親が死んでしまった時も、派遣の更新を切られてしまった時も。
そうだ。バスタイム、今が、必要な時だ。
結局2時間近くお風呂を使い、ヘロヘロになって上がる。お陰でスッキリした、もう当分涙は出ないに違いない。だけど、全身がえらく水分不足だわ〜・・・。私はよたよたと冷蔵庫に近寄って、ビールを出す。もうどうせだから酔っ払って今晩はこの問題は忘れたい!
やたらと大きな音をたててドアを閉めた時、それは目に飛び込んできた。冷蔵庫にマグネットでとめておいた名刺。シンプルなデザインとシャープな文字のそれは、私の丁度目の前にあった。
『水谷 伊織』
・・・くっそう。
30分後、ビール缶を二つ空にして、私は彼に電話をした。
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