C凪子と水谷姉弟・1


 春が終わって、初夏に私は目出度く30歳になり、それをタイミングとして無事に伊織君と結婚した。苗字が塚村から水谷に変わり、特別に式や披露宴なんかはすることなく、二人で私の母親に報告にいって、食事を一緒にとった。

 母親が嬉し泣きをした時、私はびっくりした。どちらかと言えば豪快で、父が亡くなったあとも力強く生きてきた母が、泣くとは思わなくて。

 大阪のオーナーに電話した時には電話の向こうで東さんが大きな声で叫び、電話口に伊織君を出せと騒いだのだ。代わっても、東さんの声が大きすぎて全部丸聞こえだったのが面白かった。

『伊織君あんたようやったなあ!けどこれからやで〜!おっちゃんこれからも見張ってるから、それちゃあんと頭にしまっとけよ〜!それにな、ええか、家族計画は慎重かつ大胆にやな・・・』

 彼はたまに爆笑しながら電話で話していた。隣で聞いていた私も、勿論お腹を抱えて笑ったものだ。

 そして伊織君は、無事に祖父とご両親の財産を受け取った。

 彼がそれでした最初のことは、結婚祝いだと東さんが譲ってくれたこの家の改修だった。

 綾も私も何度も落ちたことのあるあの階段はゆるく付け替えられ、手すりまで出現したし、縁側は新しく幅広くなり、あちこちガタが来ていた水回りを全て新品と取替え、壁を私の好きな淡い黄色に塗り替えた。

 基本的な間取りは変えないで、とお願いしたのだ。だってこの家にはまだ、綾の存在を感じさせるものが欲しかったから。

 彼は工務店と話しあってそうしてくれたけれど、二階だけは広い寝室が欲しいからと間取りを変更した。

「やっぱ、一緒に寝たいじゃん。広いベッドがいるでしょ、そこで凪子さんと色んなことしようと思うとさー」

 そんなことを言って私をからかう。

 恋愛感情が淡白だーなんていってたのはどこの誰でしたっけ?と思うくらいに、夜の伊織君は情熱的なのだ。私は工務店の人の前で彼を叩くわけにもいかず、真っ赤な顔で横を向いていたのだった。

 夏が終わって秋がきて、綾が失踪してから一年が経った。

 相変わらず私達はバタバタとした都会の夫婦をしていて、たまに一緒になれる休日は家にこもって二人で過ごす。そうやって、また来た寒い季節を心地よく過ごそうと努力していた。

 伊織君が初めてここへ来た日。それから、同居生活が始まった日。同じ日付が過ぎるたび、私はカレンダーの前でぼうっとしてしまうのだ。

 思い出して。

 去年の、様々なことを。

 秋に無事に挙式をした菊池さんは堀川さんと名前をかえ、まだ同じ銀行で派遣仲間として働いている。その彼女からの情報で、弘平も付き合う女性が出来たらしいよ、と聞いた時には喜んだ。

 今度はちゃんと彼と合う人だったらいいなと思って。上昇志向で俺様の彼を喜んで支えることが出来る人ならいいな、って。心から思った。

 1月が過ぎ、2月が来て、また春の訪れを待ち遠しく思う頃、日曜日の夕方に、玄関のチャイムが鳴った。

「ん?誰か来た」

 外国からの出張帰りでまだコートを着たままの伊織君が、台所でコーヒーを淹れながら振り返る。居間のソファーでごろごろして彼の写真雑誌を見ていた私は、よっこいしょと起き上がりながら、ほんとねと返す。

「宅急便かも。俺の洗濯物」

「洗濯ものだけじゃなくて、たまにはお土産も入れてくれると嬉しいんですけどね〜。・・・はいはーい?」

 我が家の玄関のドアには来客の確認穴がないので、いつも通りに先に声をかけるのだ。すると―――――――――

「うぶ、ぶー・・・ば!」

 ・・・はい?

 聞こえてきたのは意味不明な声・・・というか、音?私は怪訝な顔して振り返る。伊織君もこっちを見ていたけれど、作りかけのコーヒーをシンクに置いて歩いてきた。

「何?」

「・・・さあ?」

 私はちょっとびびりながら、それでも手を伸ばして鍵を開ける。そしてドアをひき開けた。

「―――――ばあ!」

 そこに、どーん!と居たのは、赤ん坊だった。

 つぶらで真っ黒な瞳を大きくあけて、ついでに口もぱっかーんと開けて、機嫌が良さそうな顔で私達を見て涎を垂らしている。もこもこのオレンジ色の服を着込んで、涎掛けを首に巻いていた。

「・・・・・」

「・・・・え?」

 私と伊織君は目を点にして、誰かに抱きかかえられて空中に浮かぶ赤ちゃんを見詰める。玄関を開けたら赤ちゃんが空中に浮いていた、なんて、そんな経験したことある?

 呆気にとられたままで視線を赤ん坊から後ろへとうつすと、抱え上げていた赤ちゃんをゆっくりと下ろしながら、笑顔で立つ女性がいた。


 あ。

 ・・・ああっ〜!


「・・・綾〜っ!!!」

「うわっ、姉貴!」

 二人が一斉に叫んだからだろう、赤ちゃんはびくっと体を震わせて、次の瞬間号泣を始める。私達はそれにもビックリして、慌てたせいで彼はたたきからずり落ちかけた。

「あぶっ・・・危ない!」

「ちょっと〜!」

「うっぎゃああああああ〜っん!!」

 大混乱の玄関先。泣き叫ぶ赤ちゃん。落ちかけて柱を掴む伊織君。そして腰がぬけてへたりこむ私。それに――――――――――にこにこと笑顔の、綾が言った。

 あの懐かしい声で。

「ただいま、凪。色々迷惑かけて本当にごめんね」

 って。




「何で俺は無視なわけ?」

 ようやくコートを脱いでどっかりとソファーに座りながら、伊織君が顔をしかめて綾に噛み付いた。

「姉貴の尻拭いでここにきて、もう1年住んでるんだけどね、俺。一応ここの主なんだけどね、俺。何で完全に無視なんだよ全く」

 号泣した赤ちゃんを腕に抱いてあやしていた綾が、にやりと笑って座る弟を見下ろした。

「だってここは凪と私の家だったんだもの。いつの間にかあんたのものになってるなんて、そんなこと知るわけないでしょー?」

 赤ん坊と綾の二人を家に上げたときに、綾がキョロキョロと見回しながら言ったのだ。あら、えらく綺麗になちゃったんだね〜、って。それでまだ私がパニックを起こしている間に、突然の姉の出現に急激に機嫌を悪くした伊織君が色々話してしまった。

 私達は結婚していて、もうここは伊織君が買取った家。正真正銘の水谷家になったんだ!って。

 私には見せたことがない恐ろしく不機嫌な顔で、伊織君は綾を睨みつけている。

「そもそも姉貴が!」

「そうそう。だから戻ってきたんじゃない。凪に謝らなきゃだしさ」

「で、俺には!?」

「何であんたに謝る必要があるのよ。ちゃーっかり凪と結婚して、ラブラブ生活になってるんじゃないのー。それって私が仲人みたいなもんでしょ」

 ぐっと詰まったけれど怒髪天きたらしい伊織君が反撃しようと立ち上がりかけたところで、私は大きな声でストーップ!と叫んだ。

 ぴたっと水谷姉弟は止まる。

 二人で一緒にこちらを向いた。

「あのさ、久しぶりの兄弟喧嘩もしたいだろうけれど、ここで一番話を聞きたいと思ってるのは、間違いなく私なのよ!最初の被害者は私です!やめてちょうだい。赤ちゃんもいるんだから、みっともない!」

 二人は何となく静かになって、別々にはーいと返事をする。まだ不機嫌ではあったけれど、伊織君は口をつぐんでまたソファーにどっかりと座った。

 私は腕を組んで立ったままで、赤ちゃんをあやす綾をじろりと見た。

「・・・おおー、凪のそのポーズ久しぶりだわ〜」

「やめて、綾。あんたは私に殴られたって文句言えないことをしたんだからね」

「うん、判ってる。だから、殴られに戻ってきたの」

 へ?と私が首を捻ると、彼女はすいーっと近づいてきて、顔を差し出した。

「さあ!思いっきり、バーンと殴ってくれていいわよ!ぐーでいいから!ぐーで!」

 ・・・・いや、あのね・・・。

 私は急に疲れを感じて肩を落とす。出来ないでしょ、腕に赤ん坊を抱えた母親を殴るとか。もう眩暈がするわ。

「・・・殴るっていうのは言葉のあやよ!とにかくちゃんと説明してちょうだい。まずはこの―――――――」

 私は彼女の腕の中で、今まさに眠りに入ろうとして瞼を重くしている赤ちゃんを手の平で示す。

「―――――赤ちゃんよ。一応聞くけど、綾の子供なの?」

「うん、今7ヶ月なの。女の子。香織って名前なんだよ〜」

 指差された赤ん坊を見て、綾はにへ〜と目元を緩める。眠りかけている娘に、ほ〜ら凪おばさんに挨拶しなきゃね〜、などと言っている。

「・・・ええと、そう、判った。で、父親は」

「そりゃジャムルの子だよ!日本出てインドに行ってさ、出来たんだよねえ。香織・プーナム・ジャムル。凪にあわせたかったの、ようやく叶ったわ!宜しくね〜」

 ・・・くらくらくら。私はしばし眩暈を覚えたけれど、何とかその場に立っていた。

 元々明るい性格ではあったけれど、綾はインドにいってその陽の部分が強化されたようだ。何なの、この明るさ・・・。あんたは失踪してたんだよ!

「・・・と、とにかく、ジャムル君と仲が良さそうでそれは良かったわ。・・・ええと、で、よ。で!」

「で?」

 ようやく寝たらしい赤ちゃんの香織ちゃんを、伊織君を追い立てたあとで綾はそっとソファーに寝かせる。その表情はまさしく「母親」だった。

「・・・どうして私の貯金持って逃げたの?」

 綾がしゃがみ込んだ床の上から私を見上げた。穏やかな顔で。

「ジャムル君と何があってそういうことにしたの?どうして相談してくれなかったの?一体―――――――」

「彼のお母さんがね、危篤になったの」

 綾の静かな声が部屋に響いて、私は言葉を途中でなくしてしまった。

「ジャムルの兄弟から電話が来てね、母親はもうもちそうにないって。そもそも母親の治療費のために日本に稼ぎに来ていたから、彼はどうしても帰るって言ってきかなかった。その電話がきてすぐに一緒に行こうって決めたの」

「・・・ジャムル君の、お母さん?」

「病気だったんだって、ずっとね。彼はよく話してた。それで電話がきて、すぐにインドに戻るっていって、でも収入は全部家族に仕送りしていてお金がないってなって・・・。相談する時間がなかったんだよ。あの時、凪は久しぶりの飲み会があって、夜帰ってくるのがいつもより遅かったでしょう」

 ・・・そう、だっけ?私は既に薄れて消えつつあった記憶を探った。

 綾が失踪した日の前日。私は―――――――・・・ああ、確かにそうだった。終電で帰ってきて、だから、その日は朝、会社に行く前に綾と話しただけだったのだ。

 帰ってきたときには酔っ払っていたし、綾はもう寝たのだと思って私もすぐに寝てしまったんだった。

「私も現金は10万ちょっとしか持ってなかった。二人の飛行機代でそれは消えてしまう。それで、私は凪のお金を、彼は店のお金を盗りにいったの。インドにいってからの移動費としばらくの生活費に。犯罪者になってしまうってことは、ちゃんと判ってたよ」

 綾が立ち上がって、私に近寄る。とても静かな表情をしていて、彼女はじっと目を合わせていた。

「だから、ごめんね、凪。あのお金のお陰で助かった。彼のお母さんの最期には間に合わなかったけれど、葬式はちゃんとしてあげれたの」

 私は言葉が戻らないままで、彼女を見詰める。・・・そんなことが、遠い国であったなんて。

 その時、綾にソファーから追い払われて台所の食卓に移動していた伊織君が、ヒョイと口を挟んだ。

「――――――で、その彼はどこにいるんだ?姉貴とこの子だけで日本に戻ったのか?」

 二人とも一緒に伊織君を見た。あ、居たんだ!?って感じで。実際のところ、少しだけ彼の存在を忘れてしまっていた。

 伊織君はそれがわかったらしい。憤然とした顔をする。

「あ、ジャムルはね、お店に行ってるの。あっちのお金を返しにね。店長が許してくれるかは判らないけれど、二人で必死で働いて、彼の兄弟達も手を尽くしてくれて、別に外国で働いている親戚の人からも仕送りがあって、葬式代は返してくれたの。だから、ちゃんと全額持ってきたんだよ」

 綾がそう言って、私に笑いかける。そして、持ってきた鞄から、ビニール袋の包みを出した。



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