C・2



「凪の鞄はインドにいる間に破けちゃったの。それもごめんね。でも、これ、お金だよ。きっちり102万円。遅くなっちゃったけど、ようやく返せる」

 彼女はそっと私にそれを差し出した。

 私はまだ無言でそれを見詰める。

 ・・・102万円。私の、貯金の・・・。

 10万づつまとめてゴムで止めていた時は、もっと多く感じられたものだった。だけど、その小さな山はびっくりするほどで、私はいつまでも動けずにそれを見てしまう。

 ・・・助かった、って綾は言った。

 これで、色々なことが。

「・・・もういいの」

 気がついたら、まだお金を凝視したままで私はそう言っていた。

 顔を上げたら綾と目があった。

「あのね、伊織君に・・・返済もしてもらったし。今の私には、必要ない、かも」

 うまく言えないけれど。胸が一杯で。

 綾が私をじっと見ている。その時、食卓から伊織君が言った。

「それは俺に返して貰わないと。姉貴がしでかした尻拭いは、俺が全部したんだから」

 え?と二人で振り返った。

「あんたに?」

 綾が嫌そうに顔を顰める。それを見て、伊織君は怒りが再発したようだった。眉間にきつく皺を寄せて、イライラと指でテーブルを叩く。

「姉貴が人様の金持ち逃げして俺に電話したんだろっ!凪を宜しくなんて、判ってんだよ、信託の金をあてにしたってこと!だけど俺だって今年になるまで手はつけられない、だけど凪子さんには申し訳ない。だから毎月毎月家賃を負担することで、返済したのっ!」

 あら、と目を丸くする綾に椅子から立って近づいて、伊織君は彼女の手からお金の包みをもぎ取った。

「だからこれは俺のもの!それに、謝罪も要求するぞ。結果的に凪子さんと結婚して幸せだけど、大変だったんだからな!もうそれは、色々と!」

 綾は私を見た。

 私は簡潔に頷いてみせる。

 伊織君が言ったのは本当のことだし、それにやっぱり多分、一番大変だったのは彼だっただろうと思うから。

 仕事が立て込んでいる時に自分の住まいを移して、ここの整理整頓をし、私に気を遣って家には出来るだけ戻らず、家主には威嚇され、私を好きになってしまった後には手を出せないからと悶々して。

 それってすっごーく大変だよね、と思うのだ。

「綾、本当に伊織君はたくさん頑張ってくれたの。それは全部あんたのせいで、傷付いた私の為。だからちゃんと謝らなきゃ。弟だってだけでこれほど頑張る義務はないんだからさ」

 私がそう言うと、伊織君は両腕を組んでその通り!と大きく頷く。

 綾は唇を尖らせてちょっと嫌そうな顔をしたけれど、うん、といって、弟に向かって深深と頭を下げた。

「悪かったわ、本当に。迷惑かけてごめんなさい」

 伊織君はちょっと眉間を緩めて、もごもごと口の中で言う。

「・・・あ、うん」

「それに私の変わりに凪にお金を返済してくれて、ありがとう」

「うん」

「それに、凪を幸せにしてくれて、ありがとう」

 綾〜っ!と私はついに我慢できず、彼女に抱きついた。

 あああああ・・・ようやく戻ってきたんだ、この子が!そう思って泣けてきた。綾からは何かのスパイスの香りがして、温かくて柔らかかった。

 伊織君に向かって折り曲げていた体を戻して、綾はよしよしと私の頭を撫でる。

「ジャムルとね、話したの。店に損害を与えてしまったし、私達は日本で暮らして、罪を償わなきゃならないねって。私はとりあえずここに来て、凪に謝りたかったのよ。これでようやく、夜もぐっすり眠れるわ」

 綾も泣き声だった。

 私たちはしばらく抱き合っておいおいと泣き、それからそういえば晩ご飯もまだだった、ということに気づく。

 泣き笑いの顔のままで、綾と二人で台所に立つ。

 伊織君はその間、突然出来た自分の姪をじっくりと観察していたようだった。

「あのね、実はね、ずっと思ってたのよ」

 綾はソファーで娘を観察する伊織君をちらりと見ながら小声で言う。

「ん?」

「凪と伊織って合うだろうな〜って。感性とか、そんなのが。初めて凪に会った時に、あれ?この子どこかで見たようなって思ってたの。あれ、判った。伊織が高校の時に片思いしてた女の子に、凪は感じが似てたの」

「・・・え、そうなんだ!?」

 私が驚いて綾を見ると、彼女はにやりと笑って頷く。

「そうそう。で、あんたと一緒に暮らしだして、確信みたいなものを持ったのよ。伊織がここにいたら、きっと凪に惚れるってね。紹介したかったけれど、私達は20代は別々でお互いに依存せずに生きていこうって親の葬式の時に話してたから、連絡も取らなかった。それで会わせられなくて」

「そ、そうなんだ」

「ここを出て、空港にいって飛行機の空き待ちをしていた時に、ふと思いついたの。あ、伊織に電話しようって。あの子の今の状況を知らなかったからどうするかは判らなかったけど、もしかしたら凪に会いにいってくれるかもって。試しに電話してみたら、運よく捕まえられてさ。正解だったな〜、ほんと」

 ふふふと綾は笑う。私は若干呆れながら、サラダをボウルで混ぜていた。・・・いやいやいや、正解だったって、あんたね・・・。

 料理を作りながら、結婚を決めた時の話をする。綾には婚約者がいて、両親が亡くなると同時に破棄されたってことも。綾はちょっと悲しそうな顔をしたけれど、割とさばさばと話し出した。

「両思いで、愛で繋がってるって思ってた、高校生の頃ね。大学には花嫁修業のつもりで行っていたし、だから、私は堂本の財産を継いでいないし、外交官の両親も死んでしまったって判明した時に、いきなり冷たい声で電話してきた彼に、ビックリした。結局後ろ盾が欲しかっただけなんだよね。あの人は私のことなんかお金の次としか見てなかった。私はそれが判ってなかったのよ」

 だけど、と綾は手を動かしながら私を見て笑う。

「そのせいで働くことになったのは、今では感謝してる。だってあんたに会えたしね。ラッキーだった。ほんと家族みたいだったよね、私達。東さんとかね、葬式の時に連絡先を渡してくれてたの。だからこの家だって手配してくれたし、婚約破棄のあとはボロボロだったんだけど、私の人生ってそんなに悪くないよなあ〜って思えた。それで、凪と騒がしく暮らして、ジャムルと会って・・・。本当に人を好きになるってことがどういうことかも判ったしね」

 ラッキーラッキーと節をつけて、綾は歌うように言う。

 私もそう思った。

 何が原因で道が変わるか判らないけれど、もし私が美容師になっていたら、綾とは出会わなかっただろうな、って。働かなきゃならないってなった時には神様を恨んだりもしたけれど、結局は素晴らしいプレゼントだったのかもしれない。

 私も、ラッキーだ。

 食卓を囲む頃には夜の10時になっていた。水谷姉弟が一緒にいるところを見るのが初めてで、私は彼らと食卓につきながら、ついしみじみと眺めてしまう。

 伊織君の動作や笑顔に綾を感じることはよくあったけれど、じっくりと眺めたら、当然だけどやっぱり違う人間だった。

 雰囲気は似ているし、口元が同じだ。だけど、あとは違う。きっと父方か母方かってことなんだろうけど。うーん・・・面白いなあ!

「そんなしみじみと見詰めないで、凪子さん。今は邪魔者がいるからさ、素直に喜べないんだ」

 伊織君がそう言うと、綾が隣から手を出して頭を叩いた。

「痛っ!」

「だーれが邪魔者なのよ。それはあんたでしょ!折角凪との感動の再会なのに・・・もう」

「あのね、俺達夫婦だからね。姉貴は自分のダンナといればいいだろ」

「お黙り!名義はあんたになったとしても、やっぱりここは私と凪の家なんだから」

「違うっつーの」

 やいやいと言い合う二人を見て、私は笑う。ようやく全部が完成した、そんな気がしていた。嬉しくて、お酒もすすむ。授乳があるからとお酒を断った綾が、そういえば、と私を見た。

「あんた達、子供はまだなの?いつ結婚したっていったっけ?」

 ぶっと私はビールを噴出しかける。・・・ちょっとちょっと、お姉さん!

 伊織君がご馳走様と食器を重ねながら、たら〜っと言った。

「結婚して約8ヶ月。出会ってから結婚まで早かったし、まだまだ新婚だから、二人でいちゃいちゃしてたいんだよ」

「ややややめてよ、ちょっと!」

「そうか、新婚・・・。何かエロイ響きだわ。うちの弟と凪が・・・うーん。そのように期待しといてなんだけど、複雑な心境・・・」

「綾〜っ!」

 私がもう堪らん状態になってそう叫ぶと、流し台に腰を預けた伊織君がにやにやしながら言った。

「まあそんな喜ばないで、凪子さん。姉貴は無視して、お休み前のちゅーする?」

「しませんっ!」

 真っ赤になっての即答は、二人に爆笑されてしまった。


 もう遅いからと私が強引に引きとめて、綾と娘ちゃんは泊っていくことになった。香織ちゃんの入浴を手伝って湯冷ましを飲ませ、綾は階段を上がりながらしきりに感心して声を上げている。

「あらー、階段も緩やかにしたんだね〜!これだったら落ちないわ」

「そう、全部伊織君がしてくれたんだよ」

「へー。あんた結構役に立つのねえ、伊織!」

「・・・姉貴よりは大分ね」

 改装した2階は、7畳の洋室と4畳の和室、それから収納になった。和室に綾たちの布団を敷いて、荷物を置く。そしてお休みを言ったところで、綾がにっこりと悪そうな笑顔で言った。

「今日は子作りやめてくれる?多分香織が夜泣きするから、私も眠りが浅いしね」

 私は絶句した。

 ・・・何てことを言うのだ、全く!私はがっつりと赤面して、襖をパシッとしめる。そして隣のベッドルームに入ると、既にベッドに入って雑誌を読んでいた伊織君が、ヒョイと私を見上げた。

「あっち、寝たの?」

「うん。香織ちゃんはもうすやすや〜だね。夜泣きするかもって綾が言ってたけど」

「いきなり姪が・・・もうマジで驚いた・・・」

「そうだよね〜、綾がいるってだけで、仰天なのにねえ!」

 部屋を改装した時に買ったダブルベッドにやれやれと横になって、私達は小声で話す。部屋は冷え切っていたけれど、先にベッドを伊織君が温めていてくれたので、私はすぐに眠気に襲われる。

 だけど、とろとろとまどろみだすと、伊織君が私の髪を撫でながら言った。

「・・・凪子さん、アレしたらさ、声出る?」

「・・・ん?」

「声、我慢出来る?」

 えらく色っぽい目つきになって、伊織君が私を覗き込んでいる。彼の手がするりと私の体を撫でて、腰のところで止まった。

 一瞬で目が覚めてしまった。だけど私は寝転んだままでぶんぶんと首を振り、きっぱりと断る。

「ダメ。絶対声出るし、今日はもう寝るの!」

「・・・ケチ」

「寝るの!」

「凪子さーん」

「ダメ!」

 布団を深く被って、私は熱くなってしまった顔を隠した。


 ・・・・・まったく、水谷姉弟はっ!!!



 綾の夫ジャムル君は、お店に謝罪し持ち逃げしたお金を返したあと、警察に出頭した。だけど店長が起訴しなかったので、刑務所には入らずに済んだらしい。

 そして綾は伊織君から両親が遺したお金の半額を受け取り、綾たち夫婦はまたインド料理店で働きだした。自分達を許してくれた店長に恩返しするために。

 私と伊織君は相変わらずあの家で二人で仲良く住んでいて、週に一階、綾たち親子と一緒に食事をしている。

 大阪の東さんにはちゃんと電話した。

 綾が帰ってきましたよ、それに、何と娘までいるんですよ〜って。

 東さんは大興奮で、これで水谷も喜ぶだろうって電話の向こうで泣いたらしい。どうやら綾たちのご両親の友人で、彼らが事故死したあと、水谷家の子供達は自分が面倒をみるって決めていたそうだ。

 だから本当は伊織君のことも知っていた。

 葬式で初めて会ったらしいが、伊織君はたくさんいる大人達の一人一人など覚えておらず、それならそれでと初対面を装ったと話した。

 飲みに連れ出したのは私のことでクギをさすのも目的ではあったそうだが、友人の忘れ形見と一緒に飲む、そのことの方が大事な目的だったらしい。

「そうだったら言えばいいのに・・・」

 後でその話を聞いた伊織君は呆れたようにそういったけれど、きっと東さんは照れていたんだろうと綾が言った。

「ガンガン言いたいことを言ってるように思えるけど、ほんと照れ屋さんなのよ、東さんって」

 私は伊織君の肩を叩く。

「今度香織ちゃんを見にくるって言ってたよ。また一緒に飲みに行けばいいんじゃない?」

 すると伊織君は若干引きつった顔で頷く。

「・・・うん。今度は俺、飲む量セーブするよ。あの人に引き摺られないようにしなきゃ、今度こそ死にそうだし」

「皆でご飯行こうよ。私もジャムルを紹介したいしさ」

 綾がそう言って、皆頷いた。

 きっと東さんは両手一杯にお土産を抱えてくるはずだ。

 今までずっと、そうだったみたいに。



 人生は、藍の海を泳ぐようだ。

 私はいつもそう思っていた。

 悲しいことがあった時にはちょっとした黒が足されて深くて濃い群青色に。そして嬉しいことや楽しいことがあった時には白が足されて、綺麗な水色に。

 そうやって、ゆらゆらと波と戯れながら泳いでいるんだって。底に近づいたり、水面に近づいたり、時には海溝を覗いたりしながら。

 今の私は一人じゃない。

 もう誰かを想って夜に一人でクッションを抱きしめることはないし、ふとした不安や孤独に襲われることもない。

 いつもそばには伊織君がいて、笑ってくれるのだ。手を差し出して握り、温めてくれる。

 それに綾も。

 小さな香織ちゃんも。

 私は安心して前に向かっていける。

 自分のペースで、泳いでいける。




 ・・・私の海は今、綺麗な綺麗な水色だ。








「長い夜には手を取って」終わり。





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