B・2



「いや、嘘じゃない!現金は持ってないって言っただろ?覚えてる?現金は俺は持ってないんだよ!厳密に言うと、今だって持ってない」

「は!?え、あの・・・言ってる意味がまーったく判らないんだけど!?」

 落ち着いて凪子さーん!と彼は叫ぶ。私は半眼でヤツをにらみつけた。私は落ち着いてるのよ、あなたでしょ、って。いいから説明してくれ、この頭にもわかるように!

 伊織君は困った顔をして、ちょっとだけ笑う。それから少しずつ話をしてくれた。

 私が聞いたことがなかった水谷家の話を。



「簡単に言うとね、うちは母方が財閥系で、俺には母方の祖父からの信託財産があるってこと。それに両親が事故死した時に発動した遺言信託もあって、30歳でそれを受け取ることになってるんだ」

「・・・え?」

 ・・・あのー、全然簡単じゃないんですけど。

 私は目を点にして首を捻る。

 一応金融系を専門に派遣されていることもあって、信託や遺言信託に関してはちょっとは知識がある。だけど、それを一気に言われてしまうと混乱するでしょ。

「ええーっと・・・ちょっと待ってね、つまり・・・つまり?」

 私が片手で額を押さえて唸りながら聞くと、伊織君はカラカラと明るく笑って言う。

「俺は来年で、金持ちになるってこと」

「・・・あら」

「身分としては今の堂本財閥当主の従兄弟になる。母方の従兄弟は金融業界で大きな顔してるよー。まあ多分、優秀なんだろうとは思うけど。あんまり付き合いがないからよく判らないんだよね」

 ど、堂本財閥!?って私でも知ってるよ!勿論知ってるよ〜!経済雑誌とかにもよく出てるよね?端的にいって、私はドン引きした。いきなり目の前に本来雲の上の存在である大金持ちの、身内が座ってるってことが判ったからだ。

 そんな人達、出会おうと思っても普通は無理だし、居たとしてもセレブ婚目当ての高級結婚相談所にしかいないんじゃないの!?何で君はここに、平気な顔して座っているのだ!

 それに伊織君がってことは・・・勿論綾もだよねーっ!?えええー!そうなの!?この姉弟の動作や考え方が柔らかくて礼儀正しいなあと常々思っていたのは、間違いではなかったのか!つまりは、育ちの良さを反映してたってことよねえ!?

 私の大仰天を普通にスルーして、伊織君は話す。

「で、とにかく、祖父が俺の幼少児に契約した信託財産があるんだ。それは30歳になると受益者、つまり、俺に渡される。だけど、思い出したんだよね。あの契約、受益には二つ条件があったんだ。30歳になった時か、もしくは――――――――」

 伊織君がまたあの、悪そうな顔をした。

「――――――俺が、結婚した時」

 私はぽかんとした顔で目の前の男性を凝視していた。

 ・・・伊織君が30歳になるか、もしくは・・・結婚した時。結婚って――――――――――私とか!?

「・・・ええっ!?」

「だから、凪子さんが俺と結婚してくれれば、直ぐにでも受け取れるんだよ。そしたら姉貴の分のお金もすぐに返せるってこと」

 絶対今の私は恐ろしいほどの変顔をさらしているはずだ。そう思っていても、どうにもとめられなかった。弘平からのプロポーズで、今年最大の驚きは完了したって思ってたけど!?それにそれに、綾の失踪で今世紀最大の驚きも完了したって思ってたんだけど〜っ!??

 まだあったのか。

 人生の摩訶不思議が。

 口をあけっぱなしで固まる私を見て、伊織君は笑う。言った本人は気が楽になったのか、ビールのお代わり〜なんて言っていた。

 私はしばらく呆然として頭の中で聞いたばかりの話を噛み砕く。

 水谷姉弟のお母さんが財閥出身で、おじいさんが財産の一部を孫である伊織君に信託で遺した。それは、判った。だけど、だけどそれなら―――――・・・

「・・・綾は?」

 ん?と彼が振り向く。

「君には信託があるけど、綾にはないの?」

 同じ孫なのに?それとも綾にもあるのだろうか。だとしたら、どうして私の貯金・・・。

 伊織君はビールのコップを置いて、ため息をつく。

「うん、姉貴にはなかった。祖父は古い人間で、女は嫁ぐからとか言っていたらしい。だから娘なのに母にも何も遺してなかったんだ。俺にだけ」

「えー・・・」

 胸が痛い。古い価値観とはいえ、そもそも自分のお金をどう使おうがそれは持ち主の勝手だ。だけど、それを具体的に目の前に示されたとき、綾の心境を思うと居た堪れなかった。私だったら傷付いただろう。

 伊織君は風に舞う桜の花びらを目で追いかけながら、つらつらと話す。

「うちの親は外交官でねー、外国で休暇中に二人で一緒に事故死したんだ」

「あ、そうだったんだ!それは悲しかったよね。大変だったね」

 私も専門学校の時に父親を病気で亡くしている。父は保険もかけてなくて病気の治療費が嵩んでお金が続かず、私は美容師の専門学校を辞めて派遣で働き出したのだ。

 片親でも、心にぽっかり穴があいたようになったものだ。両親を一気に失うというのはどれだけの悲しみだろうか。

「・・・でもそうか、だからドイツだオーストラリアだって出てきたんだねー」

 一つ謎が解けて、私は両手をぱんと叩く。成る程。外交官の家族だったら海外赴任についていくだろう。納得していたら、伊織君が、ああそれは、と続ける。

「姉貴のドイツは交換留学だよ。高校生の頃の。そんで、俺のオーストラリアは、伯父が居たから試しに行ってみただけ。父の赴任先は発展途上国ばかりであまり生活の余裕はなかったなー」

 ・・・そうなのか。もうしばらく黙っておこう。

「で、俺が写真の専門学校に入った年に親が死んで、財産は契約通りに信託に回された。それは両親の意思だったんだよ。俺達は小額の生命保険を分け合うことになって、それぞれ300万づつ。俺は30歳になるか、結婚するまで信託財産に手は出せない。だからその時点では姉貴と同じ立場だったんだ。うちの親は自分の力で20代を乗り越えろっていつも言ってた。働いて、経験をつめって。姉貴も俺も300万のほとんどは学校の支払いに消えたから、ホントにすぐ働かなきゃならなかったんだ。姉貴は就職活動がうまくいかなくて派遣会社に登録した。俺は、阿相先生に弟子入りした」

 黙ってようと思ったばかりだったけど、私はつい疑問を口にする。

「あのー・・・。おじいさんの信託はわかったけれど、ご両親の遺言信託は綾の分もあるんだよね?だったら判るの。綾が必ず返すって何回も書いてたのが。だけど綾はもう去年30歳になってるし、それならお金に困らなかったって思うんだけど・・・」

 どうして私の貯金に手を出したのだ。

 それを聞くと、伊織君は痛そうに顔を歪めて首を振った。

「それが、ないんだよ。両親の信託も受益者は俺だけなんだ」

「はっ!?」

 えー!?どうしてどうして?まさか、両親までも・・・。

 私の顔を見て、伊織君はまたため息をつく。

「・・・姉貴には、婚約者がいた。大学卒業したらすぐ結婚する約束の」

「え・・・ええ!?婚約者!?綾に!?」

「うん。不動産で財産を築いている、裕福な家の息子と。二人は高校生の時から凄く仲がよくて皆安心してた。卒業まであと2年で、両親は姉は結婚すればお金に困ることはないだろうからと、姉の分の契約はしてなかったんだ。夢ばっかり追いかけているお前は心配だけどって言って。だけど、事故であっけなく両親が亡くなったあと、相手に一方的に婚約破棄されたんだ。・・・後ろ盾のない娘など、要らないと。姉貴は財閥の財産を継がないと相手は知ったみたいで」

「うええええ〜っ!?何それ・・・酷い」

 綾ったら!私は両手で口元を押さえる。怒りが湧いてきて、その見も知らぬ綾の元婚約者を頭の中で滅多切りにする。何てことを・・・そんなの人間じゃないよ〜っ!

 可哀想に可哀想に。両親を亡くしたばかりでショックを受けている時に、好きだった相手に財産理由で婚約破棄をされるなんて・・・それも、一方的に。

 怒りと悲しみが胸の中に満ちる。

 だから綾はずっと働いていたんだ。それでようやく好きだと心から言える職場に出会って、そこで彼氏にも出会って。だけど必要な時にお金がなくて、それで――――――――――

 でも!と急に大きな声が聞こえて私はハッとする。

 伊織君がニコニコしながら私を見ていた。

「凪子さんと結婚して俺がお金を受け取れば、姉貴にだって渡せるんだよ。元々俺のお金じゃないし、贈与って形にしたらいいんだ。贈与税を払ったって痛くもない。俺は仕事が好きだから働くのは辞めないし、そんなお金を使う予定もないんだ。だからね、ほら、大丈夫だろ?」

 私はぼうっと伊織君の笑顔を見詰める。

「俺は好きな人と結婚できるし、姉は両親のお金を受け取れる。万々歳だ。どうしてそれに最初から気がつかなかったのかなー・・・。あんまり恋愛感情が激しくないから、そもそも結婚願望だって俺になかったのが問題だったんだよな。でもよかったー、お金に困った挙句に信託目当てに適当な人と結婚とかしてなくて。いや〜・・・危なかったなー、そう考えたら」

 ぶつぶつと一人で話す伊織君を、私はぼけっと見ていた。表情がくるくる変わる彼を。そして、その彼によく似た笑顔で笑う綾のことを思い出して。

 その内に、ふわっと温かい気持ちが湧き出して、嬉しくなってきた。

「・・・そっか・・・。そっかあ・・・」

「そうそう。だからさ、凪子さん。もうすぐに結婚して、準備を整えよう。姉貴が戻ってきたら驚かせられるように」

 ふふふ、と笑い声が漏れる。

 想像した。綾がこの家に戻ってくる。ドアを開ける私達。彼女はきっと驚くだろう。そして多分、笑ってお祝いをしてくれる―――――――・・・


 伊織君はすっきりと晴れた春の青空を見上げて、一つ大きな深呼吸をする。

 私達はすっかり忘れてしまっていた料理を食べだして、もう一度、ビールで乾杯した。

「では、これからも宜しく」

「あの、えっと。・・・こちらこそ」

 婚約者になった今、これからの計画もどんどん立てられるね〜、と私が嬉しく言ったら、伊織君は穏やかな笑顔で頷いた。

「・・・多分、姉貴も判ってて俺に電話したんだと思うんだよね。凪を宜しくって何回も言ってたもんなー・・・」

 ちょっとずつ、整えていこう。

 私は心の中でそう思う。

 これからだって生活は変わらない。私達は今まで通り、二人のペースでやっていくのだ。結婚の報告に母は喜ぶだろう。それに、菊池さんも。だけど派手なことはしないで、私たちらしく、毎日を生きていこう。

 興奮も手伝ってビールがまわり、私は酔っ払った頭で神様にむかってお祈りする。

 早く・・・早く、綾にあわせてください、って。

 あとは本当に、それだけだから―――――――――――





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