A・2



「俺ね、もう無理だって思った。会いたいのを我慢しまくって何てことないって風に過ごすこと。怖い顔してたみたいなんだ、ここ最近ずっと。学生アシ達も怖がって近寄ってこないし、鷲尾にもお前凄い不機嫌だなーとか言われて。だから今日は絶対凪子さんが起きてる時間に帰って、ちゃんと話そうって思ってた。当たって砕けようって。スタジオに居ても撮影で出てても、ちょっとしたところに凪子さんを探してしまってるんだ。いるはずないって判ってるのに、姿が似てる女の人や肩までの髪の毛の人を見るとドキドキして。そんで、もう無理だって思って。もう離れてるのは嫌だし、触れないのも嫌だって」

 伊織君は私の髪の毛を指に絡ませながらそう話す。

 窓のカーテンを開けたままで、私のベッドで一緒に並んで寝転んでいた。二人とも裸で、毛布の中でぴったりとひっついて。

 伊織君に手を引かれて二階に上がり、初めて体を合わせたあとだった。無我夢中で抱き合った後の、穏やかで幸せな時間。

 部屋は温かく、スタンドライトの仄かな明かりが広がっている。

 今日は曇り空で星は見えなかったけれど、風は強くて次々に雲が流れていくのが見える。きっとあの雲の向こう側に、オリオン座が今日もあるはずだ。

 私はようやく落ち着いてきた呼吸で、うっすらと目を開けて彼を見ていた。

「それで、東さんに電話したんだ」

 私はえ?と顔を上げる。東さんって・・・。

「オーナーに?」

「そう」

 伊織君は何かを思い出した顔で、にやりと笑った。そして私の髪の毛から指を離し、今度は背中をするすると撫でる。

「覚えてる?東さんがこの家に突然来たとき、俺、飲みに連れて行かれたでしょう」

「ああ、はいはい」

 急に現れた東さんは伊織君を私の彼氏だと勘違いして、そうでないとわかったあと、入居審査だとかいって彼を連れて行ってしまったのだった。そして、べろんべろんに酔わせて戻ってきた。

「実は、あの時、東さんにクギさされてたんだ」

「うん?」

 伊織君はまた笑う。

「凪子さんに手を出すなよって、東さんに言われてた」

 ・・・ええ!?

 私がびっくりした顔をするのは予想していただろう、伊織君はそれをじいっと見ていて、満足そうな顔をした。

「今までは行儀よくしてたようだけど、これから先、もし凪子ちゃんに手を出すようなら容赦しないって、東さんに言われてね。『兄ちゃん、わかってるやろなあ?』って凄むんだよ。俺は実際ぎくっとして、しどろもどろになってしまった。だって既に凪子さんに惹かれてたからね」

「えっ?そ、そうなの?・・・あのー、具体的にはいつから・・・?」

 東さんのことは大いに気になったけれど、私はそれを聞かずにいられなかった。だって私が伊織君を気にしだしたのは、多分、寝顔を撮ろうと企んで失敗した時なのだ。君は一体いつからそういう対象として私を・・・。

 伊織君は私の背中をゆっくりと撫でる。

「・・・んー?ああ、最初に会った時」

「ええっ?」

 何だってー!?

 私は彼に最初に会った時のことを思い出す。急に鳴ったチャイム。ドアを開けたら、暗い中に立ってにこにことこちらを見ていた背の高い男性。その笑顔が綾に重なって、私はどうぞと言ってしまったのだった。

「知らない男なのに、家に上げてくれたでしょう。その時に無用心だなーと思ったんだよね。この人大丈夫か?って。それで話してみたら、姉貴のことを怒るよりも心配していた。お金を盗られたことよりも急に居なくなったってことに傷付いてるみたいだった。へえ、いい人だなあ、と思って」

 そ、そんなことを思ってたのか!?私は少なからずショックを受けながら伊織君が話すのを聞いていた。あの時の私は悲しみと怒りとで大変混乱していて、自分が何を話したのかはハッキリとは覚えてない。

「雰囲気が優しいし、泣くのを我慢してるのを見て、ダメだろ、って。この人を泣かせたらダメだろーって思ったんだ。姉貴何してくれたんだよ、って。それでせめて俺は悲しませたらダメだって。――――――そうだ、俺、本当はね」

 急に伊織君が私を覗き込んで悪そうな顔で笑う。

「え?」

「同居するつもりなんてなかったんだよ」

「うええええ〜っ!?」

 ちょっと待ったああああ〜!何だって、このヤロー!

 私の絶叫&変顔を見て、彼はにやにやと笑っている。

「本当は姉貴のしたことを謝って、毎月振り込んでお金を返していこうって思ってたんだ。でもさっき言ったけど、傷付いて小さくなって縮こまってる凪子さんに惹かれたんだよね。この人と、もうちょっと近くで繋がるにはどうしたらいい?って考えて。ドキドキしながら同居を提案してみたけど凪子さんはやっぱり拒否したから、残念だったけどね。まあ仕方ないかーって。だから電話くれた時にはやった!と思った」

「そ、そんなことが・・・」

 知らなかった、色々。

 それに、そうだ、東さん!だってあのおじさん・・・そんなことを!?伊織君を飲みに連れ出したのは、クギをさすためだったなんて。娘のようだって言ってくれていたのは、嘘ではなかったんだ・・・。私はちょっと涙ぐみさえしそうだった。

「東さんたら優しい・・・」

「うん、本当そうだよね。・・・だから、今日の朝、電話したんだよ。東さんに、俺もう我慢出来そうにありませんって。だから凪子さんに当たってみて、玉砕したら家を出ますって。そしたら話を聞いて、東さんが言ったんだ」

『あんたも男やったら、ドーンとぶつかってバシッと決めてこんかいな!欲しいもんは欲しいって言うんや。ほんでちゃあーんと手に入れて、それから後のこと考えたらええ!』

 そう言ったらしい。

「え、だって東さんがそれはダメだって・・・」

 言ったんだよね?クギをさされたんだよね?私がついそういうと、伊織君がケラケラと笑う。

「俺もそう思って、それを止めてたのは誰でしたっけ?って聞いたんだよ。そしたらケロッとしてさ、あんなのはあんたの真剣度を試しただけやー、だって。気軽に手を出していい女の子ちゃうから、ほんまに大事に思うようになるまではあかんって意味や!って。最後はもう大きな声でさ。『キバれよ〜っ!!』って叫ぶんだ。耳がつぶれるかと思った」

 ・・・東さんたら。

 私もついに笑ってしまう。本当に、なんて人なの、オーナー!

「それでよしってその気になって、なのに帰り道に、見ちゃったんだ。手を繋いで歩く二人を。俺、先頭の車だったから、横断歩道のはしっこ歩く人たちをボーっと見てたんだよ。そしたら凪子さんだし、いつかの格好いい人に手を引かれてる。もうがっかりしちゃって、もうその後は全然仕事にならないし、鷲尾にも先生にも迷惑かけて、帰れって怒られて。泣くになけなくて食欲もないし、勢いで酒買って」

「・・・あらあらあら」

 私は想像してしまい、可哀想に思って彼の頭をよしよしと撫でる。君、今日の午後はえらくボロボロだったんだねえって言いながら。伊織君は子犬みたいな無邪気な顔してそれを受けていたけれど、その内また目を開けて私を見た。口をぐっと引き上げて、大きな笑顔をする。

「だけど、手に入れたね、凪子さんを」

 よいしょ、と言いながら、彼は体を起こす。

「東さんの言う通り、ドーンとぶつかってみて良かった」

 そして毛布を肩まで上げながら私に跨がって見下ろし、嬉しそうな顔で言った。

「・・・もう一回しよ、凪子さん」

「え」

「まだまだ足りない。ずっと我慢してた分、まーだまだ」

「いや、だって・・・明日も会社が」

 私は赤面しながら視線を避けてあちこちに泳がす。だってさっき初めて抱き合ったときの余韻で、まだ足は力が入らないのに!それに多分、もう既に12時は越えているはずだ。まだ今日は火曜日だよ〜!

「まだ俺達若いんだよ。ちょっとくらいの寝不足、大丈夫」

「え、あの・・・本気?」

「本気。俺は元気」

 にーっこりと彼は笑う。そして、もう問答無用で首筋に唇を押し付け、両手であちこちを触りだした。

「うあっ・・・」

 ちょっと待って、とか、言えなかった。

 もう凪子さんは俺のものでしょって、全部全部俺にくれたんだよね?って、こんな時にだけ独占欲を見せるなんてずるい。伊織君は嬉しそうに私を抱く。そしてたまにとても切ない目で見詰めてくる。私はもう熱くって現実も夢も一緒くたになって判らなくなってしまった。

 だけど全身で嬉しさを感じていた。

 散々揺らされて声も嗄れた頃、くたくたになるまで体温を分け合った私たちは、狭いベッドでひっついて眠る。

 朝までずっと。

 手を繋いだままで。





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