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 実は、お互いに惹かれていた。というか、がっつり両思いだった。

 ということが判ってしまってから、伊織君はますます帰ってこなくなったようだった。

 お金のことを一番気にしているのは、多分、彼なのだろう。君とは対等じゃないと言った言葉が忘れられない。

 私は体調もようやく戻り、あの夜のことを思いだしては一人で照れて過ごしていた。カーッと熱くなってその場でじたばたしたくなる。

 気分がやたらと良くなったり、その次はこのままもう伊織君には会えないのかもとか考えて暗くなったりで、忙しかった。

 テンションの違いから、菊池さんには見抜かれてしまった。

 一度結婚式の話をちゃんと聞くよって夜に飲みに行ったのだ。その時、私はしっかり聞いているつもりだったのだけれど、彼女は上の空だと思ったらしい。

 どうしたのと問い詰められたのだった。

 で、とりあえず、同居人に対して抱いている自分の気持ちだけは話す羽目になった。

 どうやら一緒に暮らす彼を、好きになってしまったらしい、と。

 キスやその他の出来事は全部省いて、自分の気持ちだけを話した。

「え〜っ!!!やったあ〜っ!!」

 菊池さんはそう言って店の中で万歳と叫ぶ。もうビールも3杯目だったから仕方がないか、と思えたけれど、万歳は流石に恥かしい。私は慌てて彼女を押さえつける。

「静かにして〜!」

「だって塚村さんが久しぶりの恋を〜っ!これで恋バナが楽しく出来るってものじゃない!やったー!ついに加納さんを本気で消し去って、新しい世界を開けたのね〜!」

 ・・・あ。私は目を見開いた。弘平のこと、すっかり忘れていた。何てことだ、私ったら!

 菊池さんはそんな私には気づかず、はしゃぎまくっている。

「で、で?いつ告白するの?だって一緒に住んでるんだからそんなの余裕よね!?あっちだって彼女いないんだったら絶対嫌じゃないよ〜。最近塚村さん、色気があるって思ってたのは間違いなかったのね〜!」

「・・・色気、出てますか」

「うんうん!触れなば落ちんって感じ〜!」

 ・・・それはヤバイのでは?違う意味で。私はそう思ったけれど、とにかくニコニコしておいた。そして、実はもう同居人の気持ちは知っているんです、とも言わなかった。そんなこと話したら、菊池さんはここで踊りだすかもしれない。

「うわ〜、嬉しいな〜!なかなかイケメンなんだったよね?それでカメラマンだっけ?新鮮だわ〜」

「まあ、菊池さん、落ち着いて。とにかく久しぶりに恋をしてしまったので、上の空に見えたらごめんね。ええと・・・結婚式の話をしようよ。花とか、どの種類にするか決めたの?」

 無理やり話題を変えたけれど、もともとその話をしたくて飲みにきたのだ。菊池さんはあっさりと頭を切り替えて、マシンガンのように喋りだす。

 たくさんのパンフレットを見せながら、あーでもないこーでもないと好き勝手いいまくって、沢山お酒を飲み、散々笑って夜を過ごした。

 帰っても、多分今日も伊織君はいない。

 スタジオにこもってるのか、もしかしたらまた出張で違う土地を旅しているのかも。

 私は何も知らない。

 だけど、あの家がある限り彼とは繋がっていられる。そう思えるから、ちゃんと笑えたのだった。

 夜、気分よく酔っ払って帰ってから、お風呂の中で思い出した。

 元カレのことだ。熱を出したりその結果で伊織君と会ったり話したりしていて、すっかり頭から抜けてしまっていたけれど、そもそも熱を出す原因を作ったのは彼なのだった。

 一週間後にって言ってた。その一週間後は、つまり、明日だ。

 狭い風呂場に湯気が立ち込めて真っ白になっている。ゆらゆらと霞む電球の光。私はそれをじっと見ながら、体中から勇気をかき集めていた。

 気持ちは決まっている。

 あとはくじけずにそれを伝えるだけ。


 その日は、火曜日だった。

 2月の下旬に入って、そろそろ最後の雪が降る頃だ。早い場所では梅の花が咲いているのが、春はもうすぐなんだと思わせてくれる。

 会社にいる間、ずっと緊張していた。その為にいつもより仕事の処理ペースが上がったらしく、いつもは嫌味ばかりいう課長に褒められたりした。

 弘平はきっと会社帰りに待っているはず。前と同じように。そう思ったのは、間違いではなかった。

 銀行の通用口で私は前を出る人の背中に隠れて国道の方を覗き見る。すると発見したのだ。いつもの通りスマートな格好で立つ、弘平の姿を。

 ・・・ああ、やっぱり。

 私は一度通路を戻ってトイレに入り、口紅を塗りなおす。これは鎧だ。私の正気を保つための、お守り。

 呼吸を整える。それから勢いよく、通用門から出て行った。

 彼はすぐに気がついた。口元にはうっすらと微笑。目を細めて私を見ている。近づくのを待ってから、笑顔を大きくして言った。

「お疲れさん」

 愛想の良い笑顔とタイミングが完璧な言葉。好意を全面に押し出してくる態度。私は既に彼のペースにはまっている気がして、自分の手をぎゅうっと握る。そうすれば爪が手の平に食い込んで、現実を思い出せるかと思って。

「寒かったでしょう。どこかに入ってればいいのに」

 私がそう言うと、弘平は首を振った。

「逃げられるかと思ってね。今日は予定ないのか?ご飯一緒出来る?」

「ううん。その必要ないの。すぐに終わるから。ねえ、私―――――――」

 だけど話し出した私の前にパッと片手を出して、弘平はストップという。

「俺にとっては大事な話なんだよ、ナギ。そうじゃなくても路上でする話じゃない。ご飯がダメならせめてお茶でもいいから、移動しないか?」

 私は口を開きかけたけど、後ろから出てくる銀行の関係者にじろじろと見られているのに気がついた。・・・まあ確かにここでは問題かも。こんな時に話す相手が美形だと無駄に目立ってしまうことになる。

 そんなわけで一緒に歩き出す。どこか目立たなくて、静かに話が出来るところは・・・。私が考えていると、弘平がこっちだ、と腕を取って信号を渡りだす。

「クロージングに最適な場所はよく知ってる。任せろ」

「・・・」

 まあそりゃああなたは営業マンでしたからねえ。私は心の中でそう呟いて、ついていく。


 夜が始まっている。大きな交差点は人波が凄く、手を引かれてなければすぐに弘平の背中を見失いそうだった。雪が降りそうな冷たい風が吹きこんでくるビルのそばで弘平が立ち止まったので、私はそっと彼の腕を外す。

「ここの3階のカフェは、静かだし、テーブルの間があいているんだ」

 弘平が促すのに頷いてビルに入った。

 店の中は温かかった。濃い茶色で統一された店内には観葉植物がたくさんあって、広い店内にはちらほらとお客さんの姿が見える程度。あ、ここは好きかも、雰囲気がいいし落ち着く、そう思いながら、私達は窓際のテーブルに座る。

「コーヒーでいいだろ?」

 そう言って、弘平はお店の人に注文を済ませる。

 私はついため息をつきそうになって、慌てて飲み込んだ。先に話をしなくちゃ。だから、まずは水を飲もう。コップをとって飲む私を前から弘平が見ていた。笑顔だ。誠実そうな、笑顔。それは物凄く営業の顔だった。

「考えてくれた?」

 私は頷く。

「うん。やっぱりね、あなたとの復縁はない」

 弘平が真面目な顔になった。その時、コーヒーが届けられる。マグカップも焦げ茶色で、黒々と揺れるコーヒーからふんわりといい匂いがする。

 ・・・あ、伊織君が喜ぶだろうな。私はついそう思って、カップを見詰めてしまった。

「どうして?」

 弘平の声が聞こえて顔を上げる。彼は不思議そうな顔をしていた。多分、本気で不思議なのだろう。自分が全力で落とそうとした女が、落ちないはずがないって。きっとまだ逆転できる、そう思ってそうな。

「俺は前と違うよ、ナギ。それともお前も男の社会的立場を気にするのか?」

「え?ああ、いえ、あなたが正社員だろうが自営業だろうが、そんなことは気にしないよ。私だって威張れるような社会的身分は持ってないんだし」

「じゃあ何が問題?」

 私は緊張して、居住まいを正す。ごめんねと謝ってそれで済めばよかったけれど、やはりそうはならないらしい。ならば、頑張らなければ。

 私は今運ばれてきたばかりのコーヒーを指差した。

「ん?」

 弘平が首を傾げる。

「あのね、私は別にコーヒーを飲みたくなかったの。だけど弘平はそんなことお構いなしで勝手に注文しちゃったよね。私の意見は聞きもしないで」

 彼は目を見開いた。一瞬言葉を失ったようだったけれど、またすぐに身を乗り出す。

「他のものがよかったのか?ならそう言えば――――――」

「いう暇なんて、なかったでしょう?」

 弘平が一瞬詰まったように口を閉じた。私はしっかりと彼の顔を見る。本当は震えだしそうだったけれど、何とかそれは抑えていた。

「あのね、例えばそういうことなの。お店に入って何を注文するか。それも、あなたは私の分も決めてしまうよね。それでも良かった、別に、あなたのことを好きだったときは。だけど別れてしばらく経っても、あなたは当然みたいに私の注文も決めてしまう。それって、健全な関係なの?それでもあなたは、前とは違うって言うの?」

 弘平に恋していた時は、そんなこと気にしなかったのだ。彼が頼むものは間違いないと思っていたし、実際喜んで口にした。だけどそれも、綾は首をかしげていたのだ。『凪の意見は聞かないのが、当然っておかしくない?』って。

 私も今は、そう思う。

「それに例えば、私はお前って呼ばれるのは、嫌い」

「―――――」

 弘平はまた口を開いたけれど、何も言わずに閉じる。驚いているようだ。もしかして自覚がなかったのか?私をいつも「お前」呼ばわりしていたことに。

「多分、ずっと、ずーっと本当は嫌だったのよ。お前って呼ばれることも、何かを指図されたり、相談なく決められちゃうことも。あなたは私より年上だし、男性だし、そうすることが普通だって思ってたんだろうし、それは私も思っていたのかも。好きだったから、何でも決めてくれるのは頼りになるし格好いいって思って。あの頃はあなたが決めた何かを受け入れることも、喜んでやっていたと思う」

 出来るだけゆっくりと話した。ともすれば舌が絡まりそうになってしまって、早口になりそうだったけれど。ここで舌なんか噛んだら目もあてられない。

 ただでさえ緊張して震えそうなのだ。今まで私は、これほどしっかりと弘平に自分の意見を言ったことなどなかったのだから。

「でもあなたにアッサリと振られて、とても傷付いてボロボロになって、立ち直るまでに思ったの。あなたがとても好きだった、だけど実は嫌だったんだろうなあって。あなたのその、俺様なところが」

 弘平が初めて目を逸らした。眉間には皺が寄っている。

 会った時の余裕はすでに消えてしまっていた。

「俺は変わったっていうけれど、価値観なんかはそう簡単に変わらないんじゃない?保険会社であなたが私と付き合いだしたのは、私があなたにそっけなかったからだと思うの。上昇志向が強いから、手に入らないものを手にいれようと頑張る。私は単にその結果だっただけじゃない?」

 保険会社にいる間、弘平はよく、社内報を見ては自分よりも営業成績が上の人間を目の敵にしていた。俺は次はこいつを越えるって、そればかり言っていた。噂で流れてくる伝説化している営業の話を聞くと、闘志を燃やして仕事に飛んでいく、そんな人だったのだ。

 そして、今は。

「今回も、あなたになびかないから、私に復縁を迫ってる。そう思えるよ」

 自分がその気になれば簡単に手に入る、私は彼にとって、それを確認するための道具に思えるのだ。最初に津田さんのパーティーで声をかけた時は、そんなつもりはなかったかもしれない。別れたときのことを謝りたかったのは本当なのかもしれない。

 だけどその後は、きっと違う。

 私は黙ったままの弘平に言う。

「弘平は私が好きなんじゃないと思う。過去のことを謝ってくれた時は、きっと復縁とかそんなつもりはなかったんじゃないかって。気まぐれと社会的礼儀の上から私を家まで送ってくれただけで」

 机の上でコーヒーが冷めていく。窓の外は綺麗な都会の夜が広がり、店の中は温かかった。だけど二人で座るこのテーブルだけは、温度がどんどん下がって行くようだ。

「二人になって、懐かしさもあるしふと手を出したくなって、あなたは復縁を口にした。でも私に拒否されて、しかも伊織君が出てきた。誤解したよね、弘平はすぐに。だから、余計に私を手に入れたくなったんじゃない?闘志を燃やして」

 自分は誰とも付き合っていないのに、過去の女は別の男と同棲している、そう思って、悔しかったんじゃないだろうか。私にはそう思えるのだ。そして彼は、もう一度やり直さないかと言った時より激しく私が欲しくなった。

 弘平はまだ黙っている。

 私は一度話を止めて、コップの水を飲んだ。その冷たさを指に感じた時、過去の寂しかったときのことが蘇ってきた。

「・・・ねえ、弘平はさ、付き合っている時に私が風邪を引いてしまった時のこと、覚えてる?咳があったし微熱だったけれど、会いたくてデートの待ち合わせ場所にいったら、弘平が言ったよね?うつされたら都合悪いから、今日はやめとこうって」

 弘平が顔を上げて暗い目で私を見た。そして呟くような声で言う。

「あれは・・・翌日大事なクロージングがあって・・・」

「うん、知ってたし、理解もした。だから私は大人しく帰ったでしょう。だけど寂しかった、あの時。営業成績でお給料も変わるし、それは仕方ないって思ったよ。でもあなたの部屋でご飯くらいは一緒に食べられると思ってた。大丈夫かって心配して言ってくれると思ってた」

 それはなかった。彼は悪いと謝って、さっさと帰ってしまったのだ。

 私はがっかりしてふらふらと家に帰り、出迎えた綾に世話を焼かれた。愚痴愚痴言う私に毛布をかけて、綾がぽんぽんとお腹をなでてくれていたのだ。安心した私が、眠りにつくまで。

「ねえ、そんな時には一緒にいてくれる、そういう優しい人と、私は恋がしたい」

 そう言った拍子に、伊織君が瞼の裏に浮かんだ。

 夜通しずっと手を握っていてくれたあの人が。

「弘平が努力するって言ってくれたのは、嬉しかった。ありがとう。だけど、きっとあなたは強引で強気のままだし、私はそれに流されてはこれは違うかもって思い続けると思う。だから、ダメ。あなたとはやり直さない」

「・・・わかった」

 しわがれた声が聞こえた。弘平は、暗い目をして、だけど視線を外さずに私を見ていた。

「お前の―――――――ナギの気持ちは、判った。それに、もう会わないんだな?」

「うん」

「・・・了解」

 弘平がコートを持って立ち上がる。そして歩きかけて、ふと足を止める。振り返って私を見た。

「色々、ごめん」

 私はビックリした。だけどすぐに頷く。

「・・・恋愛関係では一方だけが悪いことなんて、そんなにないと思うよ。だから私も、ごめんね、色々」

 弘平がちょっと笑った。そして片手を上げて歩いていく。

 私は彼の背中がドアから消えたのを見て、ほーっと息を吐き出した。

 ・・・ああ、どっと疲れた・・・。

 自分の体重が3倍ほどに増えた感覚だ。椅子に沈みこむような気がする。だけど、気分は悪くなかった。

 厳しい言葉を投げたのに、弘平が反撃してこなかったことには驚いていた。私に言いたいことだってそりゃたくさんあったはずだ。私だって完璧な彼女じゃなかった。なのに、彼は言わなかった。ただ聞いて、耐えて、帰って行った。

 それは以前の彼にはなかった、えらく大人な態度だったのだ。

「うーん・・・」

 窓際の椅子に座ってきらめく夜の街を見下ろし、私は思わず呟いた。

「・・・やっぱり格好いい人だった・・・」

 コーヒーは冷めてしまっていたけれど、それから私はちゃんと飲んだ。

 綾を思い出しながら。

 あの優しくて明るい同居人、今はどうしているのだろう。話がたくさんあるんだよ、と心の中で語りかける。

 綾、聞いてよ。ちゃんと向き合ったんだよ、弘平と。

 それで話もしたんだよ。

 今回はきっちりとバイバイも出来たの。綾のお陰で、私はちょっとは強くなっていたから。

 あんたが居たらきっと、いっぱい褒めてくれただろうね・・・。






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