D・2



「そうそう。それで大丈夫?って聞いたら、寝言みたいな感じで手を、って言うから、とりあえず握ってみたら収まったんだ。安心した顔で寝てて」

「え」

 ・・・何ですと!?

 彼はよいしょと立ち上がって、腕をまわして大きく伸びをする。自分の部屋の中に伊織君がいることが不思議だった。いつもの風景なのに、いつもと同じではないってことが。

「で、眠ったよなと思って手を離すと、また悲しそうな顔して唸るんだよ。どうしようかなーと思ったけど、病気の時ってえらく心細くなるでしょ。多分寂しいんだろうなと思って。だから毛布運んできて、手を繋いだままで俺も寝て」

 ひょええええええ〜っ!!!

 思わず布団の上で正座をして、土下座をしたくなった。

「ほ、本当っ!?うわ、あの・・・ごめんね伊織君〜!!眠れてないよね!?そんな格好で〜!」

 わたわたとそういうと、まだストレッチをして体を伸ばしながら、伊織君は首を振る。

「大丈夫。座って寝ること、撮影では結構多いから。――――――それより凪子さん、熱は?」

「え?あ、うん・・・多分、まだある」

 深夜ほどの高熱ではないだろうけれど、このダルさと額の熱さは熱があると思っていいだろう。

 伊織君は掛け布団と毛布を自室へと戻してくると、ベッドに座る私を見下ろして首を傾げた。

「病院行く?会社は休めるの?」

 あ、そうだ!会社だ!私はその言葉にはっとして時計を見る。7時半。いつもなら、電車に向かって自転車をこいでるころだった。

「あ、電話しなきゃ。私は休めるから、今日は病院行くね。伊織君は出勤時間大丈夫なの?」

 携帯を取りながらそう聞くと、彼はまた欠伸をしながら頷いた。

「今日はスタジオで撮影だけだからまだ大丈夫。病院は一人で行けそう?」

「はいはい、行けます行けます!」

 これ以上迷惑をかけたくなくて、私は必死で頷く。伊織君はじっと私を見たけれど、ふむ、と頷くと部屋を出て行った。

 とりあえず、電話をしなきゃ。私は急いで会社と派遣会社に電話を入れる。時給の身分ではこれは痛いが、熱が下がっていないのだから仕方がない。もしかしたら本当にインフルエンザに罹患しているかもしれないのだ。発熱時は病院に行って領収書を出すことは会社の規定でも決まっている。

 無事にどちらにも電話を済ませ、今度は落ちないように慎重に階段を降りると、洗面を終えて支度をしたらしい伊織君が、台所に立っていた。

「おかゆ作るから、食べて」

「・・・何から何まで、すみません」

 私がそう謝ると、伊織君が振り向いた。

「俺だって看護してもらったんだから。お返し」

 にっこりと笑っている。私はそれをぼーっとしたままで見詰めてしまった。私が切って短くなった彼の黒髪が朝日に光っている。あ・・・何か、素敵な光景・・・。

 夢だと思っていたけれど、実は夢じゃなかったらしい。現実の狭間で揺れていて、私は伊織君に手を繋ぐことをほぼ強制したわけで。

 ・・・昨日の夜、ずっと手を繋いだまま・・・。

 うわあ〜・・・。

 改めて恥かしくなってきた。顔を両手で叩きたいのを我慢して、私は急いで体温計を取り出すと、伊織君を見ないようにしてソファーに座って熱を測る。深夜にあったことを意識したせいで、熱が上がったかもと思った。

 じゃあ病院行ったらちゃんと連絡してね、と伊織君に何度も言われ、彼は出勤していった。

 熱は38度丁度だった。下がってはいるけれど、まだ高熱といえるレベル。私は作ってくれたおかゆを食べながら、テーブルの上のシミを凝視していた。

 味がちゃんと調えられたおかゆは温かくて、一口食べることに、元気をくれるみたいだった。

 くっと急に、涙が出てくる。

 ああ〜・・・私ったら、やっぱり落ちちゃったよね。ダメだダメだと思っても、やっぱり。これはきっと、避けてきたあの感情だ。どうせ誰もいないからと落ちる涙はそのままにする。

 この寂しさは熱のせいだけではない。

 それがしっかり判ってしまった。

 私はやっぱり、伊織君が好きみたいだ・・・。


 おかゆは全部食べたけれど、熱が高くて体力がないままな上に、弘平に送ってもらった時に駅に停めたままの自転車がないので、病院へはタクシーで行く事にした。

 服はもう適当に着こんで、ゆっくりゆっくりと大きな通りまでを歩いていく。

 化粧もしてないけれどマスクとマフラーで顔はぐるぐる巻きでほぼ見えないから問題ない。熱が高いときは、他の全てのものに構っていられなくなるものだ。その外見ですぐに病人だと判ったらしく、タクシーの運ちゃんはわざわざ降りてきてドアをあけ、乗せてくれた。

 ついでなのでいつもの町医者ではなくて総合病院まで行く事にする。私はタクシーに揺られながらぼうっと窓の外を見ていた。平日に休むのは久しぶりだ。町はいつもよりも閑散といているようで、見える光景が新鮮だった。

 インフルエンザではなかった。だけどあの痛い鼻検査を久しぶりにされてしまって、私は結構凹みながら会計を待って椅子に座っていた。やっぱり大きな病院は会計の待ち時間が長い。

 ボーっとしながら待つ。とにかくインフルでなかったことは良かった、そう思いながら。

 携帯が鞄の中で振動する。開けてみてみると、菊池さんと伊織君だった。

 水谷伊織の文字に心臓が反応する。

 自分の気持ちをしっかり確認してしまった後なのだ。私は一度深呼吸をして、それからメッセージを開ける。

『病院行った?』

 挨拶も何もない、簡潔なメール。男の子ってこうなのかな・・・。ちょっと考えて、でも確かに弘平もいつでもくれるのは簡潔なメールだったな、と思い出す。

 返信。行きました。インフルじゃなかった。今会計待ちです。

 絵文字を入れるかでしばらく悩み、やっぱり入れないことにした。何か照れくさくて。一度意識してしまうと、こうやって全部に影響するのが恋心の面倒くさいところだ。

 すぐにまたメールが入る。伊織君。

『どこの病院?』

 ん?と一瞬思ったけれど、深く考えずに病院の名前を入れて返信する。その後菊池さんのメールを開けて、風邪だって聞いたよ、大丈夫〜!?という絵文字も華やかな文章を楽しんでいると、またメールが。

『迎えに行くから、待ってて』

「え?!」

 私は思わず叫んでしまって、ハッとして口をつぐむ。前に座っていたおばあさんがちょっと振り返ってみたけれど、あとの人は聞こえていないようだった。

 え、え!?伊織君、ここまで迎えにくるって・・・別にいいのに!

 一瞬で血圧が上がったようだ。心臓がドキドキいうのを、私はじっと座ったままで聞いていた。

 そのまま会計を待って、その後薬局にて薬を貰っていると、伊織君から路駐してますよ、とメールが来た。私は急いで病院を出る。路駐!?ってことは、え、車なの?

 体温が高くてもさほどしんどくなく、今は違ったドキドキが全身を支配していた。

 顔に出てなければいいんだけど。喜びとか、興奮とかが。ドアを出て周囲を見回す。すると、窓から長い腕が出ておーいと呼んでいる伊織君を発見した。

 私は出来るだけ急いで、その白い車に近寄る。

 車の中からにっこりと笑顔の伊織君。・・・そして、助手席にはいつかの学生アシスタントさんの姿。

 あ。私は驚いて立ち止まった。相手は窓ガラス越しに私を見ている。その眼差しはあまり友好的なものではなさそうだったのだ。

 乗るべきかやめるべきか、と咄嗟に考えていると、伊織君が急かした。

「ほらほら、凪子さん早く乗ってー。ここ、すぐ動かないといけないからさ」

「・・・あ、はい」

 私は後部座席に入りこむ。それから前に座る、どちらともになく頭を下げる。

「あの・・・ありがとう。わざわざここまですみません」

「いやいやー、先生が車出していいって言ってくれたんだよ。それで外に出てたついでに丁度いいから迎えに来たんだ」

 伊織君が明るい声でそういう。昨日はきっと寝不足だっただろうに、元気そうで安心した。

「ってことは、この車は・・・」

「スタジオのだよ。午前中、営業にまわってたから」

 はあはあ、それで学生アシスタントさんを連れているのですね!私は納得して、ちらりとミラー越しに助手席の彼女を見る。あの茶髪ポニーテールの美人さん、確か、三上さん、だ。彼女は無表情で外を見ていた。

「凪子さん熱は?」

「まだあるー・・・。でも大丈夫だよ。本当にいいの?あの、タクシーで帰るつもりだったんだけど」

「もう乗ってるんだから気にしない。一回スタジオに荷物おろしに寄るけど、その後俺が家まで送るからねー」

「・・・ありがとう」

 私はお礼を言うと、座席に小さく縮まっておくことにした。だって学生アシスタントさんは黙っているのだ。なんというか、申し訳ない気分になったのだった。私は仕事中に邪魔する女・・・。

 やっぱり熱があるので、揺られているとトロトロと眠くなってくる。私がうつらうつらしている内にスタジオ阿相に着いたらしい。以前来たときと同じ、立派で洒落たモダンな倉庫のようだ、と同じ感想を持ちながら建物を見上げていると、伊織君がドアを開けて降りながら言った。

「ちょっと待っててね、凪子さん。荷物置いてくるから。―――――三上、あとそれも頼むね」

「はい」

 助手席の彼女はやっと声を出して、座ったままで荷物をまとめだした。伊織君は先に降りてドアを閉める。私はそれを後ろの座席でぼーっとしながら見ていた。

 すると、荷物をまとめ終わったらしい三上さんが、急にくるりと振り返って私を見た。

 目があって、私は一瞬体を硬くする。そこには紛れもない悪意の視線があったからだ。

「あのっ!あたし聞いたんです!水谷さんのお姉さんとあなたがもめて、水谷さんが一緒に住むようになったって」

 ・・・え?私は驚いて体を硬くしたままで彼女を見る。

 切れ長の瞳をきりりと吊り上げて、彼女は頬を赤くしながら早口で言った。

「水谷さん、普段仕事が終わっても遅くまでスタジオに残って、あたし達学生の課題の手伝いをしてくれたりしてるんです!でも最近ずっとだから、聞いたんです。そしたら、出来るだけ家に帰らないようにしてるって言ってました!それって・・・あなたのせいですよね?何があったかはあたしは知らないですけど、あなたがもしかして、ハウスシェアを水谷さんに強制してるんじゃないんですか!?」

 三上さんはぎりっと唇をかみ締めて、顔を歪ませて言った。

「水谷さんは優しいんですっ!今日だってこんな・・・水谷さんをいいように使うのはやめて下さい!」

 叫ぶようにそう言うと、三上さんはドアをパッと開けて荷物を両手で掴み、凄い早さで車を出て行った。彼女が力任せに閉めた助手席のドアで、車が大きく揺れる。

 私はマフラーに埋もれたままで、呆然と前を見ていた。

 ・・・夜、仕事が終わってるのに、ずっとスタジオに残ってるの・・・?

「・・・え?」

 くらりとした。寒気も背中を駆け上がる。

 私が、伊織君にハウスシェアを強制――――――――・・・・・

「ごめんね、凪子さん。お待たせ」

 ドアが開いて、伊織君が冷たい外の風を連れて乗ってきた。

 私は咄嗟にシートにもたれかかって目を閉じ、眠っているふりをする。

 ドキドキしていた。そして、指先がすうっと冷たくなったのが判った。

 伊織君は私の様子を覗いたらしい。そして眠っていると思ったようで、静かに車を発射させる。目を瞑ったままで、私はコートの中で震える手をぎゅっと握り締めていた。

 頭の中で、三上さんと弘平の言葉が代わる代わる浮かんでは消えていく。『あなたがハウスシェアを強制』『綾さんの弟さんも望まない同居から解放される』『いいように使うのはやめて』『弱みがあるわけで』『俺だったら嫌だな』。

 伊織君はやっぱり、仕方なく、あそこに住んでいる?綾の後始末の為に、嫌々あの家に・・・。

 ダメだ、今は考えちゃ。そう思って、必死で違うことを探した。何か何か、何か別のことを考えないと。でないと、泣いてしまう。ここで泣くわけにはいかない。きっと心配させてしまう。だから――――――――――

 道は空いていたらしい。

 すぐに家の近くに着いたようで、伊織君が、よし、と前で声を出して車を停めた。

 私はその声で起きたかのように振舞う。目をしばたかせて、小さな声で彼にお礼を言う。

 そこは国道沿いのパーキングだった。

「ありがとう。もう会社に戻ってね」

 私がそう言いながらドアを開けると、伊織君は同じように降りながら笑った。

「何言ってんの。まだ熱高いんでしょ?歩けないと思うよ、家まで」

「大丈夫」

 車に鍵をかけて、彼は歩き出した私をあっさりと捕まえる。

「フラフラじゃん。いいから、こんな時くらい役に立たせてくれる?」

 そういうと、伊織君はおいで、と中腰になった。

「・・・まさか」

「そう、おんぶだよー」

 くらくらくら〜。私は眩暈を感じて目を閉じる。今君におんぶして貰うなんて、理性が崩壊しそうなんですけど・・・。一体何の修行なんだ、これは。私はいやいや、と手を振った。

「結構です」

 すると伊織君は振り向いて、何かを企んだような顔で私を見下ろした。

「あんまりツンツンしてるとさ、俺、遠慮しないよ」

 ・・・え?私は恐る恐る彼を見上げる。伊織君はにやりと笑った。

「抱っこで無理やり担がれて連れて行かれるのと、どっちがいい?」

 身長差と腕力を考えたら、それは実行されそうだった。なので、私は恥を忍んでおんぶを選択したのだった。

 5分ほどの距離だ。それに平日の昼間で、人通りは全くない。だけどかなり恥かしかった。大人になって誰かにおんぶされることなど誰が想像出来るだろうか!

 負ぶわれて、ゆさゆさと全身が揺れる。顔の前にある伊織君の髪からは私とは違うシャンプーの匂いがする。きっと前に言っていた通り、スタジオでシャワーを浴びて帰ってきているんだろう。それもわざわざ家に帰るのを遅らせているらしいから、時間を潰すためでもあるんだろう。

 また涙が浮かんできて困った。

 私は彼から見えないことをいいことに、少し瞳を濡らしてしまう。

 ・・・あったかいのに、この背中は。温かくて、優しいのに・・・。

 ドアを開けて家に入ったら、伊織君は会社へと戻って行った。彼の背中にいるときに少し泣いてしまった私は顔を見せられずに、下をむいて靴をわざとぐずぐず脱ぎながら挨拶をした。

 伊織君はちょっと変に思ったかもしれないけれど、それ以上は平気なフリが出来なかったのだ。

 一人になった私は、薬を飲んでまた眠る。

 色んな感情がごちゃ混ぜになって、そこに悲しさが加わって、心の中は深い深いブルーだった。キスも、背中の温度も、思い出せる全部が悲しい。

 零れる涙はそのままにして枕に吸い取らせる。

 眠れ、私。

 今は眠って、そして次に起きたら――――――――――

 ・・・伊織君を解放してあげなきゃ・・・。





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