C・2
だけど、もう一人の自分も話す。
ここでケリをつけて、本当に過去にしちゃわない?って。話を聞いて、それでお終いにしなさいよ、って。
弘平は私の返事をじっと待っている。駅前の雑踏の中、歩道で立ち止まって見つめあう男女に、通りすがりの人々が好奇心に溢れる視線を向ける。喧騒。車のクラクションの音、若い女の子たちの話し声。
私はため息をついて、頷いた。
「一度家に帰るから、家に送ってくれる?」
弘平がにっこりと笑った。
彼の黒い車は、国産車ではあるが、えらく高価なものなのだろうと思う。別れてから車を変えたらしく、私の知らないものだった。内装も黒で統一してあって、メーターなどが緑色に浮かび上がってキラキラと光っている。
私は後ろの席に乗り込みたいのをぐっと我慢して、助手席に滑り込んだ。
ここから家までだったら30分ほどだ。
何を聞いても慌てないことよ、凪子!今日できっちりと終わらせて、彼を完全に過去の人にすること!よし!
心の中でそう決意を新たにしていると、弘平は車を出しながら言った。
「あのさ、俺聞いたんだよ、綾さんのこと」
・・・・・・・・あ、やっぱりその話だったのね。
私は返事をせずに前を向いてじっとしていた。夕方の6時前で道路は混んできている。信号待ちで車が停まった時、弘平が私を見たのが気配で判った。
「で、あの時の男が今の同居人だってことも、聞いた」
私はただ、頷いた。
「同棲じゃなかったんだな。あの人、綾さんの弟だって聞いたよ。どうしてあの場でそう言ってくれなかったんだ?」
信号が青に変わる。弘平は車をスタートさせて、ナギ?と聞いてくる。私は仕方なく口を開いた。
「・・・まだ何も言わないうちに、あなたが勝手に誤解して喚いて出て行ったんでしょ。覚えてる?」
敢えて嫌味な言い方をしてみた。だけど弘平は気にしなかったらしい。それもそうだな、と普通に返してくる。
「シチュエーション的に誤解は仕方なかったと思うんだけど、とにかく二人には悪いことしたな、と思って。綾さんの弟さん、ビックリしてただろ?」
「まあ驚いていたけれど、それより呆れてたよ。何あの人って」
実際は伊織君はそうは言わなかったけど。それを聞いて、さすがに弘平は苦笑した。
私は両手を膝の上で重ねて握る。よし、いいぞ、動揺してないし、相手のペースにはなってない。
「でも大丈夫。伊織君には、あの人は元カレで、たまたま会って送って貰っただけって言っておいたから。今日の話ってそれだけ?伊織君には私から言っとくよ、あなたが謝ってたって」
そう言うと、弘平はハンドルを握りながら私を見た。
こらこら、前を向いてくれ。都会の国道だぞ。
「綾さんがお前の貯金を持って逃げたらしいな」
「・・・そう」
「それっていくら?」
私は弘平を見た。彼は横目で私を見ている。
「私にとっては大金だよ。でもあなたに関係ないから」
意識してハッキリそう言うと、弘平は口元だけを歪めて笑う。それから軽い口調で言った。
「関係あるんだ。だって、いい解決策があるんだからさ」
・・・うん?
話が判らなくて、私は眉間に皺をよせる。何言ってるの、この人?
高速道路は使わずに、下道で送ると決めたようだった。渋滞が発生しつつある道路をスピードを落として進みながら、弘平が言う。
「お前が男と同棲してるって菊池さんに言ったら、菊池さんが真っ赤になって怒ったんだ。塚村さんをそんな軽い女みたいな言い方しないでーって。普通に聞いても誤魔化されそうだったからわざと言ったんだけど、かなり怒ってたよ、菊池さん。いい人だよなー」
「・・・それ、前に聞いたわ。話ちゃってごめんねって菊池さんに謝られた。どうしてそんなことしたの?」
うんざりして私は聞く。誤解したのはあなたでしょうが。そのまま放置でよかったものを。可哀想なのは、巻き込まれた菊池さんだ。
「お前のことが知りたかったから」
弘平がさらっと返す。私は一瞬言葉を失った。何て言っていいのか判らなくて。
「ショックだったんだ。他の男と一緒にいるナギを見たのが。相手はどうみてもお風呂上りだったし、一緒に住んでんだよな、って。仕方ないから忘れようって思ったんだよ、勿論。だけど久しぶりに会ったナギを見て心惹かれたし、話すとあの頃を思い出して・・・やっぱり、俺はナギといるのが心地いいんだ、って思って」
ここで下手に口を開けると、いつも変な動揺が始まってしまって相手のペースになる!私は散々綾と話したことを思い出して、唇を噛んで黙っていた。
何もいっちゃいけないのよ、凪子〜!
「それによく思い出してみたら、あの時、ナギは俺を家に入れただろ?本当に男と同棲してるなら、俺が何を言ったって家に上げたりしないよなって思って。あわよくばとか考える、お前はそんな女じゃない。じゃああの男の人は何だ?って」
私は自分を殴りたくなって目を瞑る。
・・・そうだ、この人は賢いのだった。その切れる頭で優秀な営業成績を上げていたのだ・・・。そんな細かいことまで思い出して!・・・やっぱり家に入れなきゃ良かった。
「で、新しい同居人かもって思ったんだよ。綾さんが結婚とか何かの都合で出て行って、ハウスメイトを変えたのかもって。でもナギってどちらかと言うと潔癖というか、倫理観はしっかりしてたよな。なのに異性と同居とか、そこがどうしても気に入らない。だから、菊池さんを待ち伏せしたんだ。それで聞き出した」
「えっ!?待ち伏せだったの?」
つい叫んでしまった。思わずパッと手を口に当てる。弘平は前を見ながらうんと頷いた。
「事情を知ってそうな俺の知り合いといえば、菊池さんくらいだから。話は綾さんが一番詳しいだろうけど綾さんのことは全然判らない、でも菊池さんの勤め先は前のパーティーで判ってた。俺は暇だから、数日ぶらぶらしてたんだよ。そしたら出てくる菊池さんを発見して」
・・・あんたはストーカーかーっ!!!
私は心の中で絶叫した。
だけど、この行動力。これがあったから、弘平は保険会社で優秀な・・・以下略。
私が嫌そうな顔で見たからだろう。弘平はちょっと焦ったような声で、色々と言い訳もした。それからコホンと空咳をついて、真面目な顔を見せる。
「とにかく、それで話が判ったんだ。綾さんがお前のお金を持ち逃げしてしまって、その返済で弟が来たってこと。家賃を負担してくれてて一緒に住んでるってことも。だから、俺はいい解決策を思いついた。皆が幸せで、丁度いい解決案を」
本題にきたらしい。
私は緊張して、助手席で窓際に体を押し付ける。
外の景色はもう私の家近くだったけれど、弘平は一度車を道路の端に寄せて停めてしまう。それから私に体を向けて、言った。
「ナギ、俺のところに来いよ」
―――――――――は?
頭の中には、巨大なハテナマークが出現した。
私は両目を見開いたままで首を傾げる。
「―――――どうしてそうなるの?」
弘平は珍しく、ちょっと照れた顔をして頬を爪で掻いた。
「俺はお前とまた付き合いたい。お前には彼氏はいないらしい。で、金がないから家賃を同居人に負担して貰ってる、だろ?」
確認を取るように聞かれたので、思わず頷いてしまった。弘平はそれを見て、笑顔を浮かべる。
「なら俺と一緒に住もう。俺の部屋が嫌なら引っ越せばいい。もうちょっと広いところに。新しいマンションを買ってもいい。俺は会社員ではないけど毎月ちゃんと稼いでるし、お前一人養うことは簡単に出来る。そしたら、お金の問題は解決するし、綾さんの弟さんも望まない同居から解放されるだろ?」
「・・・えっと・・・え?」
伊織君のことについ反応する。望まない同居って・・・何よ、それ。話さないぞと決めたのも忘れて、つい口を出してしまった。
「いや、同居はあっちからの話だったんだよ?私が無理言ったわけじゃなくて―――――――」
弘平は苦笑した。
「それでもさ、相手は弱みがあるわけだろう。自分の家族がしたことに。ナギにそんなつもりがなかったって、綾さんの弟さんにとっては選択の余地がないことなんじゃないか?別に女性じゃなくても知らない人と古い家で一緒に住むっていうのは、覚悟がいることだと思うぞ」
俺だったらやっぱり嫌だね、そう続けて言って、弘平は私に笑いかける。
「ナギがまた俺に惚れてくれるように、頑張るから。もうあんな風に傷つけないから。また俺のものになってくれないか?大事に、するから」
頭が混乱してきて、私はちょっと待ってと片手を前に出す。
弘平と同棲?そうなると、確かにお金には困らない・・・。だけど、あの家から出る?あの、家から。それに伊織君は望んでない同居?本当にそうなのかな、姉のせいで仕方なく私と一緒に・・・?だけど、そもそも同居を言い出したのは伊織君だし、そんな、まるで私が弱みを強請ったみたいに――――――――ああ、もう。何が何だか判らない!
「ど、同棲って・・・いきなりあなたと一緒に住むの?」
パニックを起こした私がそう口走ると、弘平は微かに首を傾げる。
「今なんか、よく知りもしない男と一緒に住んでるんだろ?」
「そっ・・・それは、そうだけど、でも」
ただ家を共有するということと、同棲するってことは全く違うのではないでしょうか!?今は自分のことだけしてればいいけれど、弘平と一緒に住むってなると、それはやっぱり―――――――――
「俺のことはナギがよく知ってるじゃないか。俺だってお前のことは全部知ってる。今度は傷つけないよ。必要なら結婚したっていい。だけど、それはナギが俺に惚れ直してくれてからでないと。順番はお前、気にするだろ?」
私は文字通り、仰天して声が裏返った。
「はっ!?けけっ、結婚!?」
何だってーっ!?驚いて仰け反り、もう無理ってほどに座席に体を押し付けた。
「まあゆくゆくは。もうお互いにいい歳だし、俺はそれだけ真剣だってこと」
弘平は運転席に身を預けて、私をじっと見ている。
まとめようとしたけれど、すればするほど私の頭は混乱するようだ。
弘平が同棲を言ってきてて、私はお金に困らなくなって、でも綾が戻ってくるときにあそこにいないと、それに伊織君が・・・伊織君のことは。綾が、結婚、いや、それは菊池さんのことで―――――――じゃなくて、あれっ!?
冷や汗がダラダラ出る。まるで揺れの激しい船の上にいるようだ。ぐるぐる回る。私は一度目を閉じて、深呼吸をした。
ダメだ〜っ!!わからないわからないわからない〜!!
だから、私は決めた。今は全速力で現実に戻ろうって。
緊張と混乱のあまりの吐き気を抑えて、私は言った。
「あの・・・」
「ん?」
「・・・とにかく、送ってくれない?」
弘平は何かを言いたそうに身を乗り出したけれど、私が窓の外を凝視しているとため息をついて車を動かした。
家へ繋がる細い路地へと入る手前で弘平は車を停める。ありがと、と呟くように言うと、私はそそくさとドアを開けて降り、路地へと入る。足がもつれてうまく歩けず、こけるかと思った。
冷たい風が有難かった。お陰で頭が少しはハッキリとした。ようやく現実世界に戻ってこれたようだった。
「ナギ!」
運転席のドアを開けて、弘平が降りかけて呼ぶ。
ぴたっと足を止め、私はゆっくりと振り返った。
暗くなった道の上、外灯に照らされて、弘平と車が輝いて見える。彼は真面目な顔のままで言った。
「1週間、考えてくれ」
彼の吐く息が白く光る。
「1週間後、返事を聞きに来る。――――――お前を迎えにくるから」
私は言葉を返さずに、路地に走りこんだ。
後ろで車のドアが閉まる音が聞こえる。私は鞄を握り締めて走る。家へ、家へ。
あの家へ。
駅前に自転車を忘れてきたことに気がついたのは、それからしばらく経ってからだった。
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