Cめげない男・1
伊織君の足が治って彼が会社に行きだすと、見事に元の生活に戻った。
つまり、綾が失踪して、伊織君と同居を始めてからのあの生活にだ。
私は基本的には一人暮らしで、伊織君は超不規則な生活。帰ってくるのは深夜か早朝で、流しにマグカップがない時にはスタジオに泊まったんだなということが判る。
ゴミを玄関先に出しておけば捨ててくれてるし、共有スペースの掃除はマメにしてくれているようだった。
だけど、会わない。
そして以前と違うのは、その会えないことが、私に影響しているってことだった。もう以前のように彼の存在などちっとも気にせずに出勤準備をしたり部屋でダラダラしたりテレビに笑ったりなんか出来ない。
あのキス以来、私は異常に彼の存在を気にしてしまって、夜帰宅してからと朝起きて出勤するまでは、そわそわするのをしばらく止められなかった。きっと彼の顔を見れば大いに挙動不審になったと思う。
だから、最初は辛かった。
あのキスの理由も判らなくて。今の状態が、無視されているのか普通の行動の結果なのかもわからなくて。
だけどそのうちに、落ち着いてきた。同じ家に住んでるのにちっとも会わない期間は、私を徐々に冷静にさせてくれたのだ。
本音を言えば、助かったってところだろう。突然のキスから3日後には、伊織君に会えないことを残念に思う気持ちよりもほっとしている気持ちの方が大きかった。
だって次に顔を見て、もし伊織君が私に微笑んだりなんかしたら、私はきっと恋に落ちてしまうに違いないのだから。そうでなくてもちょっとした瞬間にあのキスのことを様々と思い出してしまって、歩く変人になってしまっている(百面相だ、真っ赤な顔で)。
『どうしてあんなことに!私はもしかしてもしかすると彼に好意を持たれているのだろうか!?』
そんな風に考えては、すぐ次の瞬間に、
『いやいや、落ち着くのよ凪子!彼は健康な成人男性なのだ、ふとそんな気になってしまうこともあるかもしれないではないか(それだと妙〜に悲しいが)!』
などと考えて、激しく頭を振ってしまう。
実際に一緒に住むまでは、いくら綾の弟と言ったって見知らぬ男、もしかしたら暴行を受けるかもしれないし、酷い目にあわされるかもしれないと考えて真っ青になっていたことだってあった。個人の部屋は和室だからドアは襖で鍵もかからないし。だけどいざ蓋を開けてみたら伊織君はえらく紳士的だったし、そもそも顔を合わせない。だから私は油断していたと言える。
だけどそうなのだ!伊織君だって妙齢の男性、ついその気になった時にたまたま同じ年くらいの女がいて、生理的に嫌いなどではなかったらふら〜っといっちゃうことだってあるはずなのだ〜!
拳を空高く突き上げて、そう言いきかせてみたり。
それでも、ふと、彼の唇の柔らかさや舌の熱さを思い出してしまうと、もう自分でもやばいだろうと思うくらいに、妄想の世界へ飛んでしまう。
漫画みたいにお目目がハートマークになってしまって、きっと足は地上から3センチは浮いているはずだ。ピンク色のバラが咲き誇り、黄色い豚に羽が生えて飛び回る世界へぶっ飛んでしまって、制御出来なくなる。
これは恋心なんかではなく、太古からの本能によるものだ、と自分に言い聞かせること数回。
恋人が長らく不在の今、口付けを交わした異性を意識するのは至極当然のことで、これは断じて恋心などではない!とマントラのように唱えること数回。
今でこんなのだから、伊織君の顔を見れば、きっと、どっぷりと、それこそ頭まで恋愛モードに浸かってしまうに違いない!
そんな風に実に騒がしく色々考えてみたりしていたから、過ぎていく顔を合わせない日々がその偉大な力を発揮して私をクールダウンさせてくれたことは大変感謝した。
日にち薬ってこういうことも言うのかも・・・。それは違う?まあいいの、私には有難かったんだから。
頭が冷静になり、彼のことは十分気になっているけれど、今はまだ耐えられる、という状態を維持出来たのだ。仕事も放り出して彼に会いにいき、胸倉掴んで一体君は私のことをどう思ってるのかなどと聞いたりはせずに済んでいる。
かーなり、しんどかったけれど。
伊織君に彼女はいない(って、いつかの夕食で言っていた)し、私にも彼氏はいない。だけどお金と綾という微妙な繋がりがある私達は、お互いが気に入ったからなんて気楽には、恋愛状態にはなれそうもないのだ。
好きになっちゃった、それは良いことだ!みたいには。ついでにもう同じ家に住んでるし、ラッキー!みたいには。
伊織君の申し出と同居により、私には確実にお金が貯まってきていた。それは以前のように爪の先に灯りをともすようにしていた時とは全然違って、毎月ガンガン貯まるのだ。長年培った節約生活は簡単には抜け出せず、最初の頃こそ好きな物を買ったりしていたけれど、今ではそんなに物欲もない。ここ3ヶ月、毎月家賃の分は必ず貯金できている。
また100万円貯まる日は、案外近いかもしれない。
・・・と、いうことは、伊織君が私への返済を終える日だって、そんなに遠くないはずだ。
そうなれば。
彼はまた、出て行ってしまう?
一緒に住んでいてすらこんなに会わないのに、そんな人を好きになったらしんどいだけだ。
会えない人を想う辛さは、十分に経験していた。
亡くなった父を想う時もいきなり去って行った弘平を想っていた時も。
そんなのは、もう嫌だ。
だから、あの夜のことは忘れよう。私はそう決めた。オリオン座もタバコの煙もチョコレートの甘さもコーヒーの熱さも、全部忘れよう。
迫ってくる伊織君の吐息も、膝に感じた重みも。
それから勿論、あのキスも―――――――――――――――
「へーい、塚村さん。何かちょっとしんどそうだけど、体調でも悪いの?」
食堂で会った菊池さんが、手を振りながらやってくる。私は食べ終わったお皿を前に押しやって、笑顔を浮かべた。
「あ、何か久しぶり〜!ううん、そんなことないけど?体調は大丈夫だよ。菊池さんは楽しそうだねえ、何かいいことあった?」
多分、それを聞いて欲しかったのだろう。途端に瞳をきらりと輝かせて、彼女は座ったばかりの椅子から身を乗り出した。
「聞いてくれる?聞いてくれるー!?とうとう、されたの、私!」
「・・・は、え?された?何を?」
そして誰に?
私は彼女の勢いに面食らってちょっとばかり体を仰け反らせる。
菊池さんはむふふふ〜と鼻息荒く笑って、じゃじゃーん!と右手を前に突き出した。その薬指に光るのは、キラキラと存在を主張するダイヤモンド。
「あー!それってば、まさか〜!」
私は彼女の右手をがしっと持って指輪を凝視する。菊池さんはむふふ〜とまた笑って大きく頷いた。
「そう!婚約指輪だよ〜!彼ったらついにプロポーズしてくれたの〜!」
おおー!
食堂であるにも係わらず、私達は揃って大声を出してしまった。周囲の冷たい視線を感じて慌てて椅子に座り直し、それからは興奮していたけれど小声で話す。
「うわ〜!うわああ〜!おめでとうおでとう!ついに、だね〜!」
「そうなの!5年付き合ってようやくプロポーズ!待ちに待ちまくっていたせいで、された時は感動じゃなくてむしろホッとしちゃったわ、私」
彼女はご飯を食べながら、いかにプロポーズまでが長かったかを滔々と話す。私は笑いながらそれを聞いていて、だけど顔を赤くして話す彼女が可愛いなあ、と思っていた。
「30歳までに結婚が子供の時からの夢だったの!ギリギリだけど間に合うわ〜」
「あ、そうか。菊池さん今年29歳だもんね。式はどこでやるの?」
「もう近場でって思ってる。どっちの実家も近いし、リゾート婚も憧れるけど、予算もあるしねー。ねえねえそういえば、塚村さんはどうなの?1月のさ、津田さんのお祝い会で、加納さんと再会したじゃない!?」
私は途端に真顔に戻った。
・・・弘平。すっかり忘れていたのに、もう。
「いやいや、何もないよ。元カレとたまたま会いました、それだけ」
「え、ホント?だけど加納さんはちょっと何かを感じたんじゃなーい?だって、そう!そういえばね、あの後たまたま私、おつかいの時に駅でバッタリ会ったの。その時、加納さんに塚村さんのこと聞かれたよ〜」
「え?」
私は驚いて、菊池さんを見た。
「弘・・・加納さんと会った?駅で?それで、私の何を聞いたって?」
菊池さんは目をぱちくりさせて、不思議そうな顔で私を見る。
「えーっと・・・あ、綾さんのこととかよ。家まで送っていったけど、見なかったとか。それで、情報を探ってる感じが嫌だったし私も最初は関係ないでしょって思ったから話さなかったんだけど、塚村さんが男と同棲してるってまるで遊んでる女みたいに言うからさ、それはカチンときて、違うよって――――――――」
あら。
私は菊池さんの手を思わず掴んだ。
「話しちゃったの!?いお・・・水谷弟と同居してること!?」
「え?うん。だって腹が立つでしょ?塚村さんのこと、何かふしだらみたいに言うから―――――――」
ガーン。
私はがっくりして、彼女の手を離す。
「えっと・・・ダメだった?」
菊池さんは困った顔をして、恐る恐るという風に聞く。私はため息をついたけれど、仕方がないから首を振った。別に彼女は悪いことをしたわけじゃないのだ。ただ、私としては誤解してくれたのはそのままにしたかっただけで。
「もうあの人と係わりたくないからさ、誤解されて丁度よかったって思ってたの」
私がそういうと、菊池さんはごめんねって謝る。私、余計なこと言っちゃったねって。
「大丈夫、悪くないし、私の名誉のために言ってくれたんでしょ?ありがと。―――――さて、もう時間だからいくね。それ早く食べちゃわないと」
「あ、ほんとだ!」
結婚の話はまたちゃんと時間をとって聞くからね、と約束して、私は食堂を出る。
ああー・・・面倒臭い。
だって、あの時、弘平は私に復縁を迫ったのだ。そして、これは彼の良いところでもあるのだが、やたらと正義感が強かったりする。
綾の話を弘平が聞いた。それってちょっとヤバイかも―――――・・・。
そう思っていたのは、的中した。
その週末、いつものように5時上がりの私がたらたらと帰り支度をしてダラダラと従業員入口を出たところで、弘平が待っていたのだ。
「ナギ、お疲れさん」
そう言いながら。
今日も実にスマートな格好をして。
私はぎょっとしてその場で立ち止まる。後ろからきた女性社員さん達が、ちらちらと彼を見ながら通り過ぎて行った。
「・・・・あら?えーと・・・こんなところで何してるの?」
上等なジャケットに濃紺のマフラーをして、ジーンズに皮のブーツ。髪型も格好よく決まっている弘平はにっこりと笑う。
「ご飯行かないか?ナギを誘いに来たんだ」
「・・・予定があるので」
勿論嘘だが、私はつとめてサラッと言う。最初に都合を聞かれないことにイライラした。付き合っていたころの私は彼に従順だったし、24時間いつでも彼のために空けていた。だけど、もう彼女ではないのだ。礼儀はどこにいった?
いつまでもそこに突っ立っていては邪魔だ。私は前を見て歩き出す。するとさっと隣を歩き出して、弘平が言う。
「予定?それってずらせないか?大事な話があるんだけど」
「ずらせません。私には話はありませんから」
出来るだけ早足で歩いたけれど、元々長い足を持っている弘平は苦もなくついてくる。
「なあ、ナギ」
彼が私の腕を取る。
私は向き直って、ゆっくりと腕を振りほどいた。心臓がドキドキしていた。弘平の強引さ、それに従うことの喜びを、まだ私は覚えていた。
弘平はゆったりと微笑みながら、私を見下ろしている。色気漂う、間違いなくいい男だった。
「じゃあその用事のところまで、送らせてくれ。車の中で話をするから」
断れ。
断れ、私!
頭の中ではガンガンと理性的な自分が喚いている。これについていったら、また彼のペースにのまれちゃうかもよ!って。
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