B・2



 夕方には多少マシになったようだった。伊織君が、ミネラルウォーター全部飲んじゃったから、悪いけど買ってきて、とメールを寄越したので数回やり取りをしてそれが判った。

 夕方までかかったのかー。私は電車から降りてスーパーで買い物をしている間、それを思って伊織君に同情する。東さんたら、一体どれだけ飲ましたのよ・・・。

 家に帰ると彼はしゃんと起きていて、一階中にコーヒーの匂いが充満していた。

「ただいまー。うわー、凄いコーヒーの匂い」

「あ、お帰り。俺今からお代わりするけど凪子さんも飲む?」

 伊織君が台所で振り返る。私は苦笑して首を振り、彼のところへ歩いていってスーパーの袋から水を取り出した。

「カフェイン取りすぎでしょ。これにしときなさい」

「・・・水はコーヒーの味はしないんだよ」

「当たり前でしょ」

 ほらほらと言うと、彼は残念そうな顔をしてコーヒー缶の蓋を閉めた。

「もうご飯するからさ。昨日の、東さんとの話聞かせてよ」

「あ、うん。・・・それにしてもあの人、ざるだねー。どんどん飲むんだよ。顔色一つ変えないで」

「伊織君てお酒弱いの?」

「いや、そうでもないと思うけど。あの人が強すぎるんだよ。それに話が一々面白くてさ、肴をすすめるのもうまいから、つい飲んじゃって・・・」

 手を洗って食事の支度をする。今日は会社であまりおやつを食べなかったから、私はお腹が空いていた。私が料理している間、後ろで食卓の準備をしながら、伊織君は東さんが言った言葉を教えてくれる。

「東さんが姉貴の話を聞いてから言ったんだよ。『プラスのネジの方がしめやすいのに、何でまだマイナスネジがあるんか知ってるか?』って。いきなり何だ?と思って、知りませんって言うとさ、『人生にはマイナスも必要。そういうことや』って。いいことばかりじゃないから人生っておもしろいって意味かなあと思って、ちょっと驚いたけど、そう言われたら気持ちが軽くなったんだよ」

「おおー」

「姉貴が居なくなっちゃって、どうやら生きてるらしいけど、たまに凄く一人ぼっちになった気がする時があるんだ。だけど、東さんが言うの聞いてたら気が軽くなった。何か、ストンって腹に落ちる感じなんだよね。あの人の言うことって。一瞬、え?って思うけど、言い方が独特というかさ・・・あれが大阪文化なのかな」

「ああー、それ判る。昨日も帰ってきたときに二人があまりにお酒臭かったから、私が臭いって言ったの。そしたら東さん、水臭いより酒臭いほうがマシやろ、だって」

 私が言うと、伊織君が笑った。俺あの人好きだな〜って。

 ご飯の間中、東さんの話で私達は大いに盛り上がった。急にきて急に去って行った、この家のオーナー。伊織君も好きになったみたいで嬉しい、私はそう思った。

 食事の後、食器を洗って片付けてくれた伊織君が部屋着の上にダウンコートを着たから、私は不思議に思って聞く。

「あれ、どこか行くの?」

 って。すると彼は人差し指ですいっと庭の方を指差す。

「俺、蛍族」

 えー?そうなんだ?

 私はちょっとびっくりして、へえ、と声を上げる。

「伊織君、喫煙者なの?全然匂いもないし、知らなかった〜。今までどうしてたの?」

 ごそごそと鞄を漁り、彼はタバコとライターを取り出す。それから毛布も持って言った。

「ヘビースモーカーじゃないから、家では吸わなかっただけ。でも怪我してからはずっと缶詰だったから、たま〜に外で吸ってたんだよ。そこさ、実は縁側があるでしょ。発見した時嬉しかった」

「あ、そうよね。綾もそこが気に入ってこの家にしたって言ってた」

 実は、この小さな家にはこれまた小さな2畳ほどの庭があるのだ。そしてそこにいくには、台所から階段へいくところにある掃き出し窓を開ける。ガラス戸の向こうには縁側があって、狭いけれど二人くらいなら余裕で座ることが出来る。

 夏場には、蚊取り線香を炊きながら、綾とそこに座ってビールを飲むことも多かった。

 伊織君が見つけたとすれば、きっとあの時だ。ここにきてすぐに庭に放置していた粗大ゴミを始末してくれた時。姉と弟で喜ぶ場所が同じだとは!この姉弟は感性が本当に似ている。

 伊織君はテレビを見る私の前を、ちょっと失礼と言いながら通って、階段前の掃き出し窓のカーテンを開ける。窓を開けた拍子に一気に外の冷たい空気が流れ混んできて、部屋の中に漂っていた夕食の残り香も一気に洗い流されたようだった。

「うわお、寒い!」

 思わずそう言ったら、ガラス窓を閉めながらごめんって伊織君が謝る。

 窓が閉められて、またテレビの音が戻ってきた。

 一瞬入ってきた外の空気で、私は少し集中力が途切れてしまう。バラエティー番組で、司会のお笑いタレントが喋る言葉がちっとも頭に入ってこなくなった。

「・・・えーっと・・・」

 何だか所在なくなってしまって、意味もなく椅子から立ち上がる。そして何してるんだと自分で思って座りなおしたりした。テレビに顔を向ける。でもやっぱり司会のお喋りは耳に入ってこない。うーん・・・。

 ちらりと庭の方へ目をやった。

 カーテンが少し開いた向こう側、真っ暗な夜が見えている。

 この寒いのに、外で・・・。

「・・・よし」

 私は立ち上がってテレビを消した。

 会社から戻った時にお代わりを阻止されて残念そうな顔した伊織君の顔が浮かび上がってきたのだ。コーヒーを淹れてあげよう。熱々を、たっぷりと。

 お湯を沸かし、自分が買って来たマグカップになみなみとコーヒーを淹れる。伊織君はちゃんと使ってくれているようで、前使っていたマグカップは戸棚の奥に押しやられていた。

 彼はブラックで飲む。

 ついでだからと自分用にも淹れて、それは砂糖もミルクもたっぷりといれた。

 マグカップを持って掃き出し窓の所へいき、コーヒーを零さないように気をつけながらカラカラと窓を開けた。

「――――――あれ?凪子さん」

 伊織君が振り返って、目を丸くする。私は片手で持った伊織君用のマグカップをあげてみせた。

「寒いでしょう、コーヒーの差し入れだよん」

「おお〜!うわー、嬉しい」

 縁側の上にあぐらをかいて膝の上に毛布をかけ、右手にタバコを持った伊織君が体をずらして場所を開けてくれる。

「凪子さんも良かったら、どお?ここでコーヒー」

「え」

 私がちょっと躊躇していると、彼はいつもの大きな笑顔を浮かべた。

「寒いからさ、熱いのが美味しいんだよ」

 そのにこにこ顔を見ていたら、私もついその気になる。じゃあ、お邪魔しようかな。そう言って、自分の分を取って戻ってきた。

「ついでに東さんのお土産の、あまーいカナダのチョコですよ〜」

「おおー!これはゴージャスだなあ!さあさあ、ようこそ夜の星観賞会へ」

 伊織君はそう言って、私が隣に座ったのを確認してから毛布をわけてくれる。縁側は狭いので、あぐらをかく伊織君でほとんど使ってしまう。だから私は立膝をして、その上に毛布をかけた。どうしても接近せざるを得ないから、心持ち、距離をあけて。

「ここで星を観賞してるの?」

 そう聞くと、咥えタバコのままで、伊織君が頷いて上を指差した。

「やっぱり冬は空が澄んでるよね。よく見えるんだよ」

 私も上を向く。夏場にはここで綾とよくビールを飲んだけれど、専らお喋りで空なんか見上げたことがなかった。

 庭と同じ2畳くらいに開けた夜空。確かにそこには、狭く区切られた中にも星空が広がっていた。

「・・・ああー・・・本当だ、見えるんだね」

 私の吐く息が白く、夜空に上がっていく。しんしんと静かに外は冷えていたけれど、両手に熱いマグカップを持ち、下半身は毛布にすっぽりと包まれているのであまり寒さを感じなかった。

「うん、確かに、家の中で飲むより美味しいかも」

 私がそう言うと、彼は、でしょ?と微笑んだ。

 東さんが全身で表現したように、くれたチョコレートは口が痺れるかと思うくらいに甘かった。私がううう!と唸りながら食べるのを、伊織君はケラケラと笑ってからかう。チョコレートとコーヒーを交互に口に入れていると、ほわほわとした幸福感が湧き上がってきた。

「ふふ、幸せを感じる。この組み合わせが最高なんだよね」

「そうそう。チョコとコーヒー。すごく合うよね。それに、タバコとコーヒーも」

 口から紫煙をゆっくりと吐き出して、伊織君があれ、と空を指差した。

「ん?オリオン座?」

 星にはちっとも詳しくないが、私でも知っている冬の星座だ。伊織君は、そう、と言って、タバコを咥えたままで言った。

「あれくらいしかハッキリと判らないんだけどね、あれって一度覚えたら簡単にみつかるでしょ。それで、学生の時にオーストラリアにいたことがあって、あっちでは夏の星座なんだよね。季節が逆だから。星座も反対に見えて。でさ、あれ・・・今はハッキリ見えないんだけど、左上に小さな星があるんだ。それが、すげー良く見えてた。それで、子供の頃、‘オリオンのため息’って呼んでたんだよ」

「オリオンのため息?」

 伊織君が指差す方向を私はじっと見る。だけどオリオン座はよく見えていても、彼がいう左上の星がどれだかは判らなかった。

「勝手にね、そう呼んでた。星座がため息ついてるみたいだな〜って思って」

「へえ」

 学生の頃、オーストラリアに居たのか。私はそれが気になった。綾はドイツにいたって言ってたよね。だけどあれは留学って・・・。外国を転々とする一家だったのかな、水谷家は?そういえば、綾からも伊織君からも家族のことって聞いたことがない――――――・・・

 私がつらつらと考えていると、でもさ、と隣の伊織君は続ける。縁側の下からコーヒーの缶をとって、それに灰を落とし、タバコの吸殻も落とし入れた。灰皿代わりなのだろう。

「ため息ってビミョーだよな、って思いだして。何かそれって不幸そうだなって。だから、今はまた勝手に、囁きって呼んでる」

「オリオンの囁き?あははは、詩人だ。だけどそれだと感じが全然違ってくるよね。オリオン君は一体何て囁いてんだろー」

 空になってしまったマグカップを置いて、私は笑う。

 するとふとこっちを見た伊織君が、真顔でヒョイと私に近づいた。

「・・・口付け、していい?」

 ―――――――へ?

 一瞬思考が停止した。耳近くから発せられた低い声に、背中がぞくりと粟立った。私は思わず目を見開く。するとゆっくりと私の耳元から遠ざかりながら、伊織君はにこりと笑った。

「・・・って、隣の星座、ほら、双子座とか一角獣座とかにさ」

 思わず体から力が抜けた。・・・ああ、ビックリした。星の話なのね、このヤロー。急に言うから、てっきり・・・。私はつい引きつった笑顔で言う。

「ほ、星にね」

「そーだよー。星の話。何か誤解させた?」

 彼はにやにやと笑っている。・・・もう、やらしい子だわ、ほんと!

 私はふんと前を向く。

「別に何もっ!星座、詳しいじゃない、伊織君?一角獣座なんてあるの私は知らなかった」

「気になるから一度調べたことがあったんだ。星空撮ることも多かったし、そういえば俺って星なんかは何も知らないなーと思って。それよりさ、凪子さん、これは真面目になんだけど」

「うん?」

 声が改まったから、私はムスッとするのをやめて彼を見る。さっきまでのニヤニヤ笑いじゃなくて、ちょっと照れたような微笑を浮かべて、伊織君が言った。

「口付け、してもいい?俺タバコ吸ったばかりで多分苦いけど」

 私はまた目を見開いた。

 伊織君はそっと顔を近づけながら言う。

 だけど、凪子さんはチョコも食べたから、大丈夫だよ。きっと苦さはわからない――――――――

 私の立膝に伊織君の肘が置かれる。冷えた指先がするりと私の頬から耳を覆って、タバコの香りが鼻をつく。伊織君は目を細めてゆっくりと唇を重ねた。

 ――――――――――あ。

 ようやく私の頭が動き出したのは、キスが深くなりだしたからだった。

「・・・い、お」

 冷たかった唇はすぐに温められてしまった。タバコの苦さ、それにチョコやコーヒーの味も。全部を混ぜて、伊織君は何度も口付けをする。舌が差し込まれ、絡めとられて吸い上げられる。

 私は抵抗も出来ず、ただ目を瞑って両手をぎゅうっと握り締めていた。寒い夜の中にいて、体は燃えるように熱い。むさぼるようなキスだったのがやがてゆっくりになり、伊織君は最後に柔らかく唇を押し付けて、大きく息を吐き、顔を離した。

「・・・ごめん、これ」

 彼が言った。私はまだ目をぎゅっと瞑ったままで、ただ伊織君の低い声を聞いていた。全身を耳にして。

「からかってる内に、ちょっと我慢出来なくなって。でもこれでやめとくよ。凪子さんを怖がらせたりしたくないから」

 頬にあてた手を頭の上へもってきて、彼はよしよしと私を撫でる。

 それから、毛布を全部私にかけて、立ち上がった。

「コーヒー、ご馳走様。俺は先に寝るね。凪子さん、ここで風邪引かないように」

 カラカラと窓ガラスの開閉の音。それから流しでコップを洗う音、布団を畳んで二階へ上がっていく音がした。今晩から二階の自室で寝るって、そういえば夕食の時に言っていた。

 私はそろそろと目を開ける。

 見えるのは、相変わらず真っ暗でしんしんと冷えている静かな庭だった。

 毛布に包まれていて、自分のはく息は膝で跳ね返って顔にあたる。

 ・・・・あら。

 ・・・あらあら、あらー・・・。

 両手でバシッと頬を挟んだ。痛い。痛かった、今。それに、柔らかくて優しくて、気持ちよかった、さっきの――――――――


 ・・・キス。


 も、ダメだ。

 私はそう思ってバタリと縁側に寝転がる。

 ここで寝ちゃって熱でも出せば、考えることを放棄できるだろうか!そんなことを考えて、一人で顔を真っ赤にしていた。

 頭は絶賛混乱中。色んな思いが体中をぐるぐると回りまくって、もうどうしたらいいのか判らない。

 結局、体が冷え切るまでそうしてしまっていた。だから深夜に熱いお風呂に入る必要があって、それもぼーっとしたままだったので今度はのぼせてしまい、二階へ眠りに上がったのはかなり遅かった。

 閉められた伊織君の部屋の襖。この中に、今日は伊織君がいるんだ。大きな優しい笑顔でこっちを見る伊織君。さっき、キスをしてきた彼が。

 フラフラの状態でベッドに倒れこんで、私は涙ぐみながら眠りにつく。

 ・・・あああ〜・・・もう、止められないかも〜・・・。

 頑張ろうって思ったのに。

 恋にはならないようにって思ってたのに。

 思い出し過ぎてリフレインし過ぎて、もはやあれが現実にあったことに思えない。夜の縁側、コーヒーの湯気とタバコの煙、部屋の明かりに顔半分だけ照らされた伊織君。

 あのとき、二人は何したんだっけ?

 確か、確か――――――――――・・・



 夢の中に出てきたのは、ニコニコと笑うまだ若い両親の姿。

 それが何を意味するのか、翌朝、起きた私はベッドの上でぼうっとしながらまずそれを考えていた。

 伊織君は既に居なかった。

 一階に置いていた自分の荷物も朝の内に片付けたらしく、居間は彼が怪我をする前の状態に戻されている。

 久しぶりに誰もいない一階はガランとして見えて、私は一瞬寂しさを感じて立ち尽くす。

 ・・・そうか、今日から出勤だ、って言ってたな。

 私は大きなため息をついて、エアコンとテレビをつけた。





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