Bオリオンのため息・1
そんな風にたまに楽しく、普段はつとめて冷静に、何でもないって感じをどうにか保って毎日を過ごしていると、案外日々は早く過ぎていってくれたのだ。
伊織君の足の腫れが引き、痛みもなくなったのは怪我をしてから12日くらい経ったころ。2月の2週目に入っていた。
「もう一応は普通にしてもいいって」
そう言いながら、久しぶりの外出で病院へ行って来た伊織君が、会社から帰宅したばかりの私を玄関で迎える。
「あ、良かったねえ。案外早くて。でもその一応は普通ってどういうこと?」
私がコートを脱ぎながら首を傾げると、ほら、と彼は空中で指をくるくる回しながら言う。
「重過ぎる荷物をもって長距離歩いたり、急にダッシュしたりはしないでってこと」
「あ、成る程」
つまり普通の動作は問題ないが、彼が職業にしているカメラマンとしては、まだ完全復活は出来ないってことなのだな。私は理解した。
「というわけで、凪子さん」
伊織君が急に改まって直立不動になる。
「ん?」
「怪我してから今まで、看護、本当〜にありがとうございましたっ!お陰で助かった」
長い体を直角に折って御辞儀をしている。私はあはははと笑った。
「いえいえ、どういたしまして。でも大して役には立ってなかったよね〜ご飯だって毎日作ったわけじゃないし。伊織君が宅配頼んでくれたことの方が多かったような・・・」
「そんなことないよー!最初はマジで動けなかったから、ほんと助かって・・・」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
二人で同時に振り向く。
「あれ?今日ももしかして宅配頼んでくれてるの?」
私がそう聞きながら玄関へ向かうと、後ろから一緒についてきながら伊織君は首を振った。
「いや、今日の晩は俺が何か作ろうかなって思って――――――――」
私ははーい、と声を出しながら手を伸ばしてたたきの上からドアを開ける。するとそこに立って玄関灯に照らされていたのは――――――――
「あ、東さん!」
この家の、オーナーだった。
「やあ凪子ちゃん。元気しとったかー?ようやく戻ってきたさかい、こっち来たついでにお土産渡しに来たわ」
にこにこと顔中で笑いながら、軽快ないつもの大阪弁で東さんはぺらぺら喋る。そしてふと私の後ろを見て、目を丸くした。
「お?ああ〜、彼氏さん?来とったんかいな!そらおっちゃん邪魔したなあ!」
私はここでようやく思い出した。
そうだ!!
綾からその弟である伊織君にハウスメイトが代わってるってことを、まだ言ってなかったー!!
「先に電話もせんと、ごめんやで!」
「あ、いえ、僕は―――――――」
伊織君が言いかけるのに、私は手の平を見せて黙らせる。そしてオーナーに笑いかけた。少し、いやかなりひきつっていたかもしれないけれど。
「・・・とりあえず、上がってください。お話がたくさんありまして」
この家を私と綾に3年貸してくれているオーナーの東さんは、はっ!?と合計4回叫んだ。
綾が失踪した、の時、私の貯金を持ち逃げされた、の時、で、申し訳なく思った弟がやってきて私にお金を返すと話した、の時、それから最後に、だけど現金の持ち合わせがないから一緒に住んで、家賃などを持つよ、という話になった、の時。
よく判らないって顔のままとりあえず上がり、食卓に3人で座ってお茶を出したときは、東さんは伊織君相手にぺらぺら喋っていたのだ。
おっちゃん名前はひがしと書いてあずまやでー、今年56歳なんや、兄ちゃんなんぼや?って。
だけど私が椅子に座っていよいよ話し出すと、目を真ん丸に見開いたままでぽかんと口も開けていて、要所要所で「はっ!?」と叫んだ、ということ。
今はまじまじと、穴があくんじゃないかと思えるくらいに伊織君を凝視している。それこそ、頭の先からつま先まで。
「ひょえ〜・・・。驚いたなあ!ほなあんた綾ちゃんの弟さんか!」
「はい。水谷伊織といいます」
「ほんで、ここで凪子ちゃんと住んでる?」
「ええ、成り行き上そうなりまして。すみません、連絡が遅れてしまって」
すっかり忘れていたのは私だ。一緒に住もうって話になった時にこの家のことは綾がまとめてきたので、そもそも私は契約書などをかわしたわけではないのだけれど、やはりオーナーには伝えておくべきだった。
「東さん、忘れてたの私です。すみません」
そう謝ると、東さんはまだ目を見開いたままで伊織君を見ながら、いやいやと手を振る。
「自分がカナダ行っとったからなあ〜。連絡つけよ思てもつかへんかったやろ。せやけど大変やったんやないかー!綾ちゃんが、まさかなぁ〜。ほんなら凪子ちゃん、何であの電話の時そう言わへんかったんや!おっちゃんそんなん、いっくらでも力になったんに」
・・・そうか!あの家賃来月は遅れないでね、と電話の時か!私は記憶を掘り起こして東さんを見る。
「いやいや・・・東さんぺらぺら喋って、私が何も言わないうちに切っちゃったじゃないですか〜」
「え、そうやったかな」
しれっとした顔でそんなことを言う。
「ほんで?何でここに布団敷いてあるんや。あんた二階で寝てへんのか?」
居間だったところに敷かれた伊織君の寝床と荷物の山を指して東さんが言うので、二人でたまに重なりながらここ数日の説明をした。それまではほぼ顔をあわせない生活だったことも、ついでに。
東さんは交互に顔を見ながら話を聞く。それから、しばらく何かを考えているように黙って天井を見ていたけれど、よっしゃ、と言って立ち上がった。
「判った。とにかくもう住んでんねんからそれについては何もいわん。けどあんたのことは何も知らんから、これから知り合いになりにいこか!」
え?と私と伊織君がはもった。
東さんはジャンパーをぱっと着て、伊織君においでおいでをする。
「飲みに行くで。晩ご飯まだ食べてへんねやろ?男同士で話や」
「・・・あ、はい」
伊織君は慌てて立ち上がり、まだ一階に置いたままの荷物の山からダウンコートを取った。
「凪子ちゃんは悪いけど、一人でご飯食べて待っといてー。おっちゃんなりの入居審査してくるわな」
「え、ええ?あの、ええと」
「ほないこかー」
「はい」
私がわたわたとしている間に二人は靴を履いて玄関を出てしまった。
「あの、東さん!」
私が玄関から顔を覗かせると、オーナーはニカッと笑って手を振る。
「別にとって食いやせーへん。ほな、風邪ひかんようにしときや、凪子ちゃん。またあの子送って来るしな」
小さな東さんと大きな伊織君が歩いて行ってしまう。その背中はすぐに夜の中に紛れてしまって、もう見えなかった。
・・・入居審査?そんなのあったっけ?
私は呆気に取られて、しばらく玄関先でぽけっとしていた。
二人が家に戻ってきたのは、夜も11時を過ぎてからだった。
「・・・うっ!!くっさ〜!」
玄関のドアを開けた私は思わずそう叫んで顔をしかめる。
二人はへべれけになっているようだった。オーナーの東さんはまだ自分で立ってニコニコしてたけれど、伊織君は家の前の狭い通路で、向かいの家のブロック塀にもたれかかって座り込んでしまっている。一体どれだけ飲んだのよ!?
「ちょっと伊織君、大丈夫〜?!」
パジャマに半纏を羽織っていた私はつっかけを履いて外へ出る。
「・・・うあ?」
寒さではなくアルコールで顔を赤くして、伊織君がほぼ閉じかけている目を開けた。私を見てふにゃあと笑う。
「あ〜・・・なぎ、こ、さーん・・・。ただいま〜・・・」
「ただいまじゃないでしょ。ほらほらここで寝ないで!外で、人様の家の塀ですよ〜!玄関上がってすぐなんだからさ、布団は。立って立って〜!」
彼の肩をバシバシ叩くと、うーうーと唸りながら伊織君はよろよろと立ち上がる。思わず支えたら、ずっしりと重たい体を預けられてよろめいた。
お・・・重っ・・・!
「兄ちゃんだらしないでー。女の子の世話にならんとバシっとせんかいな〜」
東さんは既に家に上がって、そう言いながら笑っている。私は何とか玄関の中に伊織君を連れ込むと、彼の靴を脱がせながら東さんに噛みついた。
「もう〜!こんなになるまで飲ませて〜!東さんも伊織君も、すっごいお酒くさいですよ!」
「水臭いより酒臭いほうがマシやろ?」
「い、いやいや、そういう話じゃないですからっ!」
ゲラゲラと笑う東さんが、凪子ちゃん水貰うで〜と台所へいく。私は伊織君を叱咤激励して、何とかコートを脱がせたところだった。
「熱いお茶いれましょうか?ほら、伊織君もお水は飲んだほうがいいよ!明日起きたら二日酔いで死ぬ思いだよ〜!」
「あ、ほな淹れて貰おかな。おおきに凪子ちゃん」
「はいはい」
私は布団まで這いずった伊織君を放置して、台所へといく。もう、そろそろ寝ようかと思っていた矢先、酔っ払い二人の相手をする羽目になるなんて!
お湯を沸かして急須でお茶をいれる。湯気が立って香りが広がるのを、東さんは椅子に座ってぼーっと見ているようだった。
「どうでしたか、伊織君は?」
自分の分もコップを用意して、私も椅子に座る。東さんはそやな、と話しかけて、片手でごしごしと顔を拭った。
「・・・ま、悪い子ちゃうみたいやな」
――――――うん。・・・それだけ?
私は思わず瞬きを繰り返す。
「え、え?東さんたら4時間もあの人を拘束して飲ませまくって、それだけですか?」
あの人、のところで布団の上でのびきっている伊織君を指差す。東さんは、お茶を飲みながら言った。
「あー、美味しいわ、熱くて。やっぱり冬は熱いお茶がええなあ〜。・・・ほんでな、いい人間なんか滅多におらんのやで、凪子ちゃん。皆どっか腹黒いところやえげつない面だって持ってるもんや。だから、悪くなかったらそれで上等なんや。色々話したしな、まあおっちゃんは認める。とにかく綾ちゃんが帰ってくるまでは、凪子ちゃんのこと宜しく頼むで〜ってゆーといたわ」
「・・・あ、そうなんですか」
悪くなかったらそれで上等・・・。ちょっと頭に残るフレーズだ。私は一人で頷く。
「とにかく綾ちゃんのこと、進展があったらこっちにも知らせてな。おっちゃんにとったらあんたらは娘みたいなもんやて、やっぱり心配やわ」
「はい。それは必ず。・・・あの、東さん、ありがとうございます」
かなりの勝手をしたのだ。今までよくしてくれたこのオーナーに相談なしに。私は座ったままだけど頭を下げる。
東さんはにこっと笑って、さて、と言う。
「ほな行くわな。悪いけど凪子ちゃんタクシー呼んでくれるか?今泊まってるホテルは結構近いねんけど、寒いし乗っていくわ」
はい、と私は携帯を手に取る。電話している間に、東さんはもう一杯お茶を飲んで立ち上がった。
「そうや、そこの紙袋、カナダのお土産。食べ物やから二人で分け分けしーやー」
「ありがとうございます!わーい、カナダのお土産!何だろ何だろ」
「カナダゆーたらメープルシロップやろ〜。それとシロップ入りのえらい甘いチョコレート。あれはえぐいで〜歯溶けるで〜」
東さんは体全部を使って甘さを表現する。私は思わず笑ってしまった。そうだそうだ、いつもこんな楽しい人だった。
ほなな、と簡単な挨拶をして、東さんは帰って行った。路地を抜けてタクシーに乗り、きっとまた運転手さんにベラベラと色んなことを喋るのだろう。私はそれを想像しながら笑う。そして部屋に上がり、伊織君にかけ布団と毛布をかけて、電気を消した。
明日、伊織君にも東さんの話を聞こうっと。
やっぱり二日酔いになったらしい。
それも強烈なやつに。
私が朝起きて下へ降りると、真っ青な顔をして唸りながら水を飲む伊織君がいた。
「おはよー。・・・大丈夫?」
彼はしかめっ面のままで首を振る。私の声が頭に響いたようだ。ちょっと声を落としてとジェスチャーで言ってくる。
「だから言ったのに。水飲んで寝た方がいいよって。同じ分量お水も飲むと、かなり二日酔いのリスクは減るんだよ〜」
少し声を落としてそう言ったら、げっそりした顔で伊織君はソファーに寝転んだ。
「・・・夜、吐いたから気持ち悪いのはちょっとマシ。でも、頭痛が・・・」
「あらあら」
吐いたのか。そんなに許容範囲をオーバーしたの?ってか伊織君て、そういえばお酒あまり飲んでるのを見たことがない。弱いのかな?
ほぼ死体になって寝転ぶ彼が可哀想で、気にはなったけれどそれは聞かなかった。私は静かに出勤準備を始める。この分ではきっと朝食は要らないだろう。自分の分だけ用意して食べ、音量を落としたテレビを観ながら化粧をした。
「じゃあねー伊織君。行ってきます。君は今日、出勤するの?」
しないだろうなあと思いながら私が聞くと、伊織君はうっすらと目を開けて寝転んだままで首を振る。
「・・・行こうかと思ってたけど、やめとく・・・。頭痛で死にそう」
「お大事に」
外へ出て、鍵を閉める。
早朝の冷たい風が吹いて、私は首をすくめた。もうすぐ、もうすぐ春は来るのに。いつもこの時期は心がざわざわするのだ。冬の寒さに飽き飽きしはじめて、お日様に憧れを持って空を見上げる。
「・・・ああ、寒い」
自転車に乗って駅へ向かった。
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