A・2
掃除道具を片付けたら、もうお昼の時間だった。さて、どうしようか、と思っていると、伊織君が椅子に座って手をヒラヒラさせている。
「・・・どうしましたか?」
首を傾げると、彼はにっこりと笑った。いつもの大きな笑顔で。髪の毛が短くなって、前よりそれは大人っぽく見える。私は一瞬ハッとした。
「色々凪子さんにしてもらってばかりだから、お昼は俺にご馳走させてよ。ピザでも取らない?前、台所の引き出しで見つけたんだよね、配達のチラシ」
・・・おおー!私は嬉しくなって手を叩く。やったー!善意の労働にご褒美がきたー!
「いいの?やった。じゃあ何にしようか」
いそいそとチラシを出し、額をつき合わせてメニューを決める。伊織君が電話してくれて、魔法のカードで支払いをしてくれた。
彼が怪我をしてから、私が用意するご飯にはお金がかかってるよねって食費を払ってはくれているのだ。私はこんな時くらいだしいいよ、と断るけれど、伊織君はそういうとき、とても強い目をして私を見てくるので、最後には受け取る羽目になっている。だけどこういう好意は有難く受け取ろう!
昼時にも係わらず店は空いていたようで、案外すぐにピザは届く。
私達はワイドショーを見ながら、それにいちいち突っ込みつつ、美味しく熱々のピザを食べる。ふんわりしていて、何てことなくて、そして明るい幸せな午後だった。
2月にもなると、流石に少しずつだけど日暮れは遅くなってくる。前までは夕方の4時もすぎればカーテンが必要かな、という程度に暗くなっていたのに、5時でも大丈夫になったりして。
お昼を幸せに過ごしたあと、ついでにと飲んだビールがきいて、私はソファーで眠ってしまったらしい。
喉が渇いて目が覚めて、それまでのことを思い出した時にハッとした。
・・・あららー!!ちょっとここで寝ちゃったらダメじゃん!もしかしたらまた伊織君が寝顔ショットを撮ってしまってるかもしれないし――――――・・・
私はガバッと起き上がった。その拍子に体にかけてあったらしいブランケットがずり落ちてしまう。
「・・・あ」
伊織君だろうな、かけてくれたんだ・・・。私はまだ若干寝ぼけたままで周囲を見回した。今何時?・・・あ、4時半過ぎ。で、伊織君はどこに?・・・あ――――――――
「・・・君も寝てたんだねー・・・」
ソファーを壁際に押し付けてスペースを作り、そこに伊織君用の布団をしいている。その上で自分は毛布もかけずに、彼も眠っていた。
・・・おーい、風邪引きますよー。
私は静かにソファーから下りて、冷蔵庫を開ける。水を取り出してゆっくりと飲んだ。
散らかったままの食卓。転がったビール缶。楽しいことの残像がまだ揺らめいているようで、私はコップを持ったままでじっと突っ立つ。
・・・楽しかったなー、今日は。いっぱい笑った。気分が良かった。
気が済むまでぼーっとしたあと、私はコップを流しに置いて、部屋の電気をつける。それから眠る伊織君に近寄っていく。さて、起こすべきか寝かせておくべきか。だけど運動もしてないし、このままだと夜眠れなくなっちゃうかも。やっぱり起こすか。とにかく、風邪を引く前に。
そう決めて、伊織君の上に屈みこむ。
「おーい、青年。起きたまへ〜。夜眠れなくなるよ」
つんつんと肩を指でつついてみたけれど、伊織君は平和そのものの寝息をたてて起きる気配がない。う〜ん・・・。
このまま毛布だけかけてあげて、放置するか?別に夜眠れなくても、大体彼は今ずっと休みなわけだし困らないよね?そう私が考えていた時、伊織君の鞄などが積み上げられている隅っこに、カメラを発見した。
日中カメラの整備や手入れをしているとは言っていたけど、あれのことなのかな。
その重そうで高価そうな真っ黒のカメラを、私はじっと見る。
・・・伊織君たら、私の寝ている時を撮った。
・・・ってことは、お返しをしてもいいんじゃない?
カメラを凝視する。
うー・・・・ん。でもかなり高そうなカメラ。それに人の商売道具を勝手に触っちゃやっぱりダメだよね。
「万が一壊してしまったら、私弁償出来ないし・・・」
しばらくブツブツと一人ごちてから、私は思いついて二階の自室へと上がる。
そうだ、彼のカメラはやっぱり使えないけど、私のカメラなら問題ないじゃなーい!そう気がついたのだ。
ここしばらくカメラなど使っていないけれど、私も普通のデジカメなら持っているのだ。そんないいものではないけれど、寝顔盗撮の仕返しくらいならそれで十分だ!
ふっふっふ〜!
色々探したあげく何故かベッドの下から発見したカメラを持って、静か〜に階段を降りる。ここで伊織君が目覚めてしまったら台無しだ。もう決めたのだから。絶対寝顔を撮ってやる〜!
こっそりこっそり近づいていく。
レンズを出して、逆光にならないように気をつけながら、私はカメラを覗きこんだ。
するとその瞬間、眠っているはずの伊織君がぱちっと目を開けたのだ。
そして微笑んだ。
二重を細めて、目元に皺を寄せて。
――――――――――――・・・あ。
私はそれをレンズ越しに見た。
魔法でもかけられたように体が動かなくなってしまった。シャッターを押そうとしていた指も、開きっぱなしの口も。
「凪子さん、よし仕返しだーって、思ったんだね」
ククク、と彼の口から笑い声が漏れる。
その笑い声が耳に届いた瞬間、私に現実が戻ってきた。
パッとカメラを顔の前から退ける。
「・・・起きてた?」
伊織君は笑顔のままでうんと頷く。布団の上でその大きな体を伸ばしながら言った。
「ついさっきね。上で何かバタバタしてるな〜、と思って目が覚めた。カメラ探してたんだ?あははは」
「くうう〜、悔しい!もうちょっとだったのに!」
「どうして俺の使わなかったの。そこにあるのに」
上半身を起こした伊織君が、自分のカメラを指差す。私は口を尖らせた。
「あんな高価そうなもの、触れません!使い方も知らないし」
「使い方?そんなのどれでも一緒だよ。ほら」
腕を伸ばしてカメラを手に取り、伊織君は私に渡してくる。え?と思ったけれどぐいぐい押し付けてくるので、自分のカメラを床において両手で受け取った。
「・・・重っ・・・」
「そこまでじゃないだろ?ここおして、レンズカバーを外す。ほら、覗いてみて」
両手でしっかりと持って、言われた通りにカメラを構えてみる。レンズの向こうには微笑む伊織君。さっきと同じ人間だけど、とっても鮮明に見えた。・・・やっぱり全然違うんだな〜!
「おおー、何か綺麗!すごいくっきり見えるような・・・」
「綺麗だなんて、そんな。俺は格好いいって言われるほうがいい」
「君のことじゃないでしょ、レンズに見える風景の話でしょ」
構えたままで軽口を叩くと彼が笑う。本当にハッキリ見える。それに、ちょっと明るいように。多分それは明度を上げてるとか、露出がどうとか、あるんだろうな。
「はいはーい、じゃあ伊織君、もう一度寝転んで目を瞑って〜」
「え?やっぱり撮るの、寝顔?」
「そうそう。諦めてないんだよ。ほらほらほら」
伊織君は言われるままにまた布団に寝転んだけど、ちょっと面白そうな表情を浮かべてこっちを見てくる。
「ちょっと。目を瞑ってってば」
「いいけど、それしたらあの写真返してくれる?」
ん?
私はカメラから顔を上げた。何だって?
伊織君はきゅっと口角を上げたままで、楽しそうに言う。
「寝顔撮ったらお互い様なんだよね?じゃあ俺が撮った凪子さんは返してね」
どうしてそうなるのだ。
私は半眼で首を振った。
「嫌です」
「えー?何だそれ。じゃあ俺も撮らせない。おあいこにならないじゃん」
私は急いでカメラを構えなおしたけれど、伊織君はもうふざけながら上半身をぱっぱと動かしまくっている。こんなんで撮ったら、いくら性能の素晴らしいカメラでも私の腕ではブレるに決まっている。
「ちょっと〜!動かないでってば!」
「寝顔は諦めたら?」
「諦めない〜!」
ぎゃあぎゃあ言いながら、それでも私は何度かシャッターを切る。伊織君はケラケラ笑いながら顔を思いっきり近づけたり手でレンズを覆ったりして邪魔してくる。
続くシャッター音と私の喚き声、伊織君の笑い声。
きっとかなり騒々しかっただろう。隣からうるさいって怒鳴られないかな、そうあとで心配したくらいには、騒がしかったはずだ。
重いカメラのせいで腕が痛い。
結局仕返しも出来なくて、私は早々に諦めることにした。
伊織君もさほどお腹が空いてないというので、晩ご飯は簡単にインスタントラーメンで済ませる。私は色んなことを話しながらも、頭から映像が離れなくて困った。
お風呂に入っても。
自分のベッドに寝転んでも。
デジタルカメラ越しに見た、伊織君の微笑んだ顔が。視界いっぱいの、あの笑顔が。瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
細めた目の優しい感じ。嬉しそうなあの表情。
「・・・う〜・・・わ〜・・・・・」
枕に顔をぐりぐりと埋めて、私は一人で照れまくる。消えろ消えろ消えろ〜!もう止めて、ダメダメダメー!ダメだよ、この感じ。このうずうずするどうしようもない感じ!お腹の中が空っぽになったような、この不安定な感じ―――――――――――
これはきっと、懐かしいあの・・・。
「私ってば・・・ダメだっつーの」
顔はきっと真っ赤だ。
・・・もう、綾ったら!早く帰ってきてよ〜。私はあんたの弟と住んで、ペースも全部乱れっぱなしだよ〜!!ぐぬぬ水谷姉弟!あんた達ってば私の人生に係わりすぎよ〜!
心の中で綾に向かって叫ぶ。
帰ってきて。
早く早く。
そして毎日を元に戻せば―――――――――――
伊織君に恋をせずに、済むんだから。
今ならまだ、引き返せるんだから・・・。
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