Aレンズの中の笑顔・1



 水谷弟がいつでも家に、それも生活の中心である一階に居る。ということに、やっぱり最初二日間は慣れなかった。

 ぎこちなく食事を出したり、足が痛いのに何かを手伝おうとする伊織君に気を使ってお互いが疲れたりして、夜にはぐったりなる、そんな感じで。

 だけど流石に4日目には慣れてきて、一緒にいるという状況を二人とも受け入れ、それぞれのペースで物事が出来るようになったのだ。

 具体的には、私はそれまでと同じように部屋着にもこもこの上着を羽織って髪をヘアバンドでとめた状態でだらだら寛ぐようになったし、彼も部屋着姿で気楽に寝そべりながらテレビを観たりするようになった。相手が何をしていれも気にならなくなったのはかなり大きい。

 今までの家事担当もこの時ばかりは変わってしまう。私が前日の夜にゴミをまとめて玄関においておくと、翌朝出勤時もしくは帰宅時に伊織君がそれを出していてくれていたのだけれど、それも出来ない。

 それに洗濯物も。

 各自でコインランドリーへ行っていたのだけれど、今は伊織君の分も私がやっている。最初はどうしたものか!と家族でも恋人でもない男性の下着を触ることに困ったけれど、よく考えたらきっと恥かしいのは私より伊織君だろう。そう考えて、とっても事務的に洗濯物を処理している。

 そして初めて迎えたこの週末、私は敷きっぱなしの布団に寝転がって写真雑誌を読む伊織君を、食卓からじいーっと見ながら唸っていた。

「・・・やっぱり、台所でしようか。お風呂は狭くて介助の自信が全くないし」

「俺はお願いする立場だからどっちでもいいよー」

「うーん、床とか水びたしになるかな・・・。いや、でもここだと暖房もあるしね。じゃあ準備する」

「宜しくー。ありがと、凪子さん」

 問題だったのは、お風呂だった。

 最初は足首の熱が引くまでは温めないほうがいいとのことで、お風呂は医者に禁止されていたのだ。シャワーならと言われていたけれど、ここはテレビで見る新築の家のような広いお風呂場なわけではない。この古い一軒家には辛うじて洗面所とお風呂場がついているけれど、大人なら膝を抱えて入らなければならない大きさの浴槽に、低い位置でしか設置出来ないシャワー。

 よくよく聞いてみると、伊織君の勤めている会社、スタジオ阿相にはシャワーブースがあるらしく、そこでシャワーを浴びて帰ってくることが多いらしかった。だけど今は家に缶詰なのだ。ここでどうにかしなければならない。私は普段は狭い洗い場で突っ立ってシャワーを浴びるのだけれど、今の伊織君はそれが大変難しい状況にあった。

 シャワーだけなら、大丈夫かも。そう言う伊織君に、私が言ったのだ。

 でもシャンプーは厳しいんじゃない?体は壁に寄りかかって手で洗えるかもだけど、って。

 それで、頭は台所で洗うか、ということになったのだった。勿論、私が洗う前提で。

 台所のシンクを片付けて、パパッと水垢も擦り落とす。伊織君に流し台の前に立ってもらって俯く格好で両肘をついて自分の体を支えて貰い、右足は台の上にタオルを重ねて置き、その上において痛みを確認する。

「大丈夫?」

「んー」

「よし、じゃあ始めます!」

「お願いします」

 こんな体勢では勿論ないが、人の頭を洗う経験は少しだけならある。だけどかなり久しぶりだし慎重にやらなくちゃ。お湯を出して手で温度を確かめる。それから、流しに頭を突き出した伊織君の髪をゆっくりとぬらしていく。

「・・・あー、お湯気持ちいい〜・・・」

「だって久しぶりだもんねえ。寒いのにお風呂入れないのはちょっとキツイでしょう。これ、熱くない?」

「丁度いいですー」

 彼は俯いた状態なので表情は判らない。だけど、その声で気持ちいいのだろうと判った。安心してシャンプーを手であわ立てる。この子、髪が長いからな――――――・・・

 わしゃわしゃと髪を洗う。ちゃんと爪は切ってあるので、ひっかくことはないはずだ。指の腹でこすると、伊織君が大きく息を吐き出した。

「・・・寝るかも。気持ちよくて」

「それは良かった。でも今寝たら溺れるよ」

「そうだねー、それは大変・・・」

 気持ちよいらしい。私は気分をよくして、またお湯を出す。久しぶりにしては上出来じゃないだろうか!だってお客さん(ではないけれど)が喜んでるよ!

 丁寧に洗って、彼はいつもはしないようだけれど、ついでだからとコンディショナーもする。伊織君の伸びた髪はツヤツヤになった。

「終わり」

「あー、本当にありがと凪子さん。すごくスッキリしたー」

 更についでだから、タオルドライもしてあげよう。椅子に座らせて、伊織君の頭をタオルでガシガシと拭いた。

 そこで私は、あ、と声を出す。思いついたぞ!

「ねえねえ、髪の毛もちょっと切ってもいい?」

 え?と伊織君が私を見上げた。上から彼を覗き込んだままで、私は言う。

「かなり伸びてるでしょ、髪。首筋とか気にならない?」

「・・・切るのは別に構わないけど。何か理由があって伸ばしてるんじゃないし。でも凪子さん面倒臭くない?」

 やった!私は手を叩いて鋏を取りに行く。

「面倒くさくないよー!実は私は高卒で、美容師の学校に行っていたのだよ!綾の髪も切ってたしねえ」

 へえ、と伊織君が呟いた。

「でも美容師にならなかったんだ?」

「あー、うん。まあ色々あったもんで。そんなに切らないで、ちょっと形を整えるだけにするね」

「いや、俺は別に丸刈りでもいいんだけどね。どうせすぐ伸びるからって放置してるだけで。好きにしてくれていいよ」

 よし、切るぞ!私は久しぶりな指を屈伸させて温め、鋏を持つ。そしてまだ濡れている伊織君の髪をゆっくりと切り出した。

 土曜日のお昼で、台所に面している庭に出られる大きな掃き出し窓から冬の光が入ってくる。家の中を漂う埃がそれを反射してキラキラ光る。

 私は静かな部屋の中で、慎重に伊織君の髪を切っている。聞こえるのはお互いの息遣いと鋏の音。とても集中した。

「――――――よし」

 終わり!

 鋏をシンクに置いて手でざざっと髪を落とす。それからドライヤーを持ってきて、全体を乾かした。後ろはくくれないくらいの短さではあるが、そんなに刈り込んでいない。結構自然なショートに出来たはずだ。耳は出して、前髪も目にかからないくらいで揃えて流す。

「じゃーん。どうかなー?」

 私の卓上鏡を持ってきて伊織君に渡す。彼は感心したように唸った。

「・・・おお。凄い。何かマトモな男がここにいる」

「あははは。こんなの嫌だー!とか、ない?今ならまだ更に短くはなるけど訂正もきくよ〜」

 私がそう言うと、いやいや、素晴らしい出来ですよ、と返ってきてホッとした。

「前はちょっと疲れたり汚れたら髪型のせいで浮浪者みたいになったけど、これなら先生にも叱られない」

「あら叱られてたの?」

 うん、と伊織君は頷く。まだ鏡をじっと見ていた。

「髪の毛背中とかに入ってる?気持ち悪いでしょう。シャワー浴びてくる?体も洗いたいんじゃない?」

「じゃあそうしようかな。だけどさすがにそれを手伝って、とは言えない。真っ裸になるからねえ」

 つい、想像してしまった。一瞬詰まってしまった私を見て、伊織君が片足で立ち上がりながらニヤニヤと笑う。

「おや想像した?凪子さんたらやらしい!」

「そそそっ・・・そんな、今のは仕方ないでしょー!自分で言っておいて何よー!」

「いつでも言って。俺の体でいいならいつでも見せるから。触ってもいいよ、凪子さんなら」

「結構です〜っ!もう、早く行きなさい!」

 伊織君はけらけらと笑いながら、片足で壁伝いに洗面所へと向かっていく。私は彼の布団の隣に積み上げてある洗濯済みの服や下着が入った紙袋を二つほど持って、洗面所の中へ突っ込んだ。

「ありがと。あとは自力で何とか脱ぐよ」

 まだ若干赤面していた私は返事をせずにドアを閉める。中から伊織君の、明るい笑い声が聞こえていた。

 ・・・何てやつだ、もう!

 私は一人でぷりぷりしながら、台所の掃除を始める。流し台を元通りにして、床に散らばった髪の毛を集めて捨てる。テーブルを拭いて、ついでだから家中のゴミを集めて庭に出した。

 片っ端から片付けていきながら、実は私はドキドキしていたのだ。

 さっき髪を切っていた時から。

 だって伊織君の首筋が思ったより太かったから。半年に一回ほどのペースで綾の長い髪を揃えていたけれど、綾にはない男の子の特徴が、私を動揺させた。彼の綺麗で温かい肌に指が触れるたび、思わず鋏がはねそうになって困ったものだった。

 えらく集中力が必要だった。私ったら・・・もう!

 伊織君の布団も退けて掃除機をかけ、一階が綺麗になったと満足するころ、彼が出てきた。

 また髪の毛が濡れていたけれど、にこにこと機嫌が良さそうだ。

「スッキリしたー?」

 私がそう聞くと、伊織君はうんと頷く。

「お陰さまで、何か生き返った気分。足もそんなに痛くなかったよ。まだ腫れてるけどねー」

「良かったね」




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